:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 《復刻版》 教令=新求道共同体の規約承認

2012-02-29 17:48:07 | ★ 新求道共同体

編集画面で 「カテゴリー」 の分類に混乱のある古い記事を点検・整理していたら、2008年に書いた以下の記事がなぜか 「非公開」 扱いで封印されていました。 いま読み返してみて、別に何も差し障りが無いと思われるのに、何故??? という思いです。 「道」の典礼・祭儀の承認がカトリック新聞に載るようになった最近の教会の空気の中では、もはや 「封印」 しておく必要もなくなったと判断して、復刻する次第です。

 

2008-06-22 21:37:53

      

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~
     教令 = 新求道共同体の規約承認 =

        ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 


(この教令は、2008年5月11日、聖霊降臨の大祝日に布告されました。以下にその全訳を紹介します。)


           ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・・~・~ 



             教 皇 庁 信 徒 評 議 会


公文書番号: 1140/08/AIC-110

             教 令

 新求道共同体の道は、1964年に、マドリッド郊外のパロメラス高地のスラム街に住む人々の間で始まった。フランシスコ・ホセ(キコ)・ゴメス・アルグエロ氏と、カルメン・エルナンデス女史は、彼らが生活を共にしたそこの貧しい人々の求めに応じて、イエス・キリストの福音を彼らに告げはじめた。このケリグマは、時間の経過の中で、神のみことば、典礼、共同体の三本柱の上に建てられ、人々を兄弟的交わりと成熟した信仰へ導くことを目的とする総合的な教理教育として具現された。

 このキリスト教信仰入門の新しい道程は、第二バチカン公会議によって呼び覚まされた刷新から生まれたものである。当時マドリッドの大司教だったカシミロ・モルチロ閣下はそれに強い関心を抱き、彼は求めに応じて小教区へその道をもたらすようにと創始者らを励ました。このようにして、道は次第にマドリッド大司教区とスペイン各地の他の教区に広まっていったのである。

 1968年には新求道共同体の道の創始者たちはローマにたどり着き、ボルゲット・ラティノ地域に定着した。当時ローマ市とその管轄区の教皇総代理であった枢機卿アンジェロ・デラックア猊下の同意のもと、カナダの聖殉教者教会で最初のカテケージスが始まった。この時を境に、道は全世界に次第に広まっていくこととなった。

 新求道共同体の道は、カトリックの信仰養成の道程であって、「キリスト教入門と信仰の生涯養成の一形態として司教に奉仕するもの」である(規約第1条2項)。なお、この道には公的法人格が与えられている(2004年10月28日付け信徒省教令参照)。

 小教区の中で息づき、年齢も社会的地位も様々な人によって構成された小さな共同体の中で生きられる新求道共同体の道は、創始者らによって提唱され、規約及びカテキスタのチームのための指針と題された冊子(規約第2条第2項参照)に含まれた路線に沿って、具体化されている。新求道共同体の道は信徒を徐々にイエス・キリストとの深い親密さに導き、彼らを教会の中における活発な活動主体として育て、主の福音の真の証人にまで鍛え上げることを究極目的とする。新求道共同体の道は、宣教国においてのみならず、古いキリスト教的伝統を持ちながら、残念なことに今日ではすっかり世俗化されてしまった国々においても、非キリスト者への宣教活動を推進する。新求道共同体の道は、「成人のキリスト教入門の指針」(典礼秘蹟省1972年1月6日)の規定に沿って洗礼を受ける準備をする成人たちのための、キリスト教入門の手段である。

 神の僕ヨハネ・パウロ2世は、信徒の中で、家庭の中で、また小教区共同体の中で、「今の時代の社会に有効なカトリック養成の道程として現れた」(AAS 82 [1990] 1513-1515) 新求道共同体の道がもたらした徹底した福音主義と並外れた宣教熱の豊かな実りと、司祭職と修道生活へ促がす召命の豊かさを、何度も繰り返し、様々な形で強調した。

 教皇ベネディクト16世は、2006年1月12日に新求道共同体のメンバーに向かって、「あなたたちの使徒的活動は教会の指導に完全に合致し、彼らが働きに赴く部分教会と一致し、道の創始者たちを通して主が呼び起こされたカリスマの豊かさを熟知して、教会の中心に身を置こうとしている」(ベネディクト16世の教えII,1[2006], 58-59)と明言された。


それゆえ:

 新求道共同体の道の規約の5年間の「暫定的」承認の期間の経過に際し(2002年6月29日付け信徒省教書参照)、

 数多くの司教たちによって証言されたとおり、多くの部分教会において、今や40年に及ぶ活動によって認められ評価された実践を通して、道が新しい福音宣教の業に対して引き続き示してきた貴重な貢献を考慮し、

 新求道共同体の道の国際責任者チームのフランシスコ・ホセ(キコ)・ゴメス・アルグエロ氏と、カルメン・エルナンデス女史と、マリオ・ペッツィ神父らが、上記の規約の最終的承認を強く求めて本評議会に提出した申請を検討し、

 規約の草案に対して申し立てられた変更を前向きに承認して、

 ローマ教皇庁に関する使徒的憲章「パストール・ボヌス」の131条と133条1項並びに2項に照らして、教皇庁信徒評議会は次の通り布告する。



               布 告

 新求道共同体の道の規約の最終承認は、本評議会によってしかるべく認証され、その写しは本評議会の公文書庫に収められた。この規約に定める規範は、道の生活の確固たる指針となり、且つまたそれが、部分教会における牧者らにとっては、新求道共同体を父性的配慮をもって注意深く見守っていく上での助けとなるものである。

バチカンにて、2008年5月11日聖霊降臨の大祝日に、

秘書                         教皇庁信徒評議会長官
ホセ・クレメンス                   スタニスラオ・リルコ枢機卿



        ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・・~・~


 去る6月21日(2008年)
の夜、新居浜の会場に、

     四国の新求道共同体のメンバー約150人が集い、
         規約承認を祝って喜びのうちに感謝の祭儀を行った。



   教令の紹介をするグレゴリオ神父

         
       ミサの開始を待つ高松の神学校出身の教区司祭たち


ミサで使われる手焼きの種無しパンとぶどう酒の盃

         
       色んな国から来た宣教家族の子供たち 世界は一つ


    おでこに傷をつけた腕白坊や

(終わり)

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★ ローマのカーニバル

2012-02-20 16:22:40 | ★ ローマの日記

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ローマのカーニバル

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きのう、ちょっとの時間の隙間を見つけて、夕闇迫るナボーナ広場を散歩した。

今年の2月22日(水曜日)は「灰の水曜日」。人間は灰(塵、土)から造られて塵に返るものであることを思い出す日。

この日から40日間は四旬節と呼ばれ、復活祭、つまりキリストの受難と、十字架の上の死と、三日目の復活という、キリスト教にとって最大のお祭りの準備のために、祈りと、断食と、困窮している人々に自分の生活を削って分かち合う、「回心の業」に励むときと定められている。

その真面目な季節に入る前に、ちょっとハシャイで弾みをつけようというのがカーニバルなのだろう。

デュッセルドルフに住んだ時に見たドイツのカーニバルは、政治風刺の山車や仮装で、食べて飲んで、・・・街を挙げての大騒ぎだった

リオのカーニバルは日本でもおなじみ、杉並区の高円寺の阿波踊りには友情出演もあって、「世界は一つ」を演出する。

ところが、ローマのカーニバルは意外と大人しく、地味で、家庭的でさえある。

ローマで一番美しい広場と言われるナボーナ広場には、大小三つの噴水があって彫刻が美しい。

以下、アルバム風に広場のカーニバルを一緒に楽しんでください。


小さい噴水の彫刻のひとつ


  

海賊になったつもりか? 髭の男の子                ウサギの帽子の女の子


  

大きな噴水の脇の仮設舞台では何やら素人の仮装芝居が。


  

見物の男の子、女の子


  

古風な馬車にしつらえたコメディーものの舞台も


  

このチェロ弾きはプロのオーケストラに入れても遜色のない弓さばき、 こちらはビートルズの再来か・・・・

      

    

          露店ミニ画廊              コミック似顔絵屋さん


記念に一枚書いてもらう女の子


   

火炎ショーのお姉さん                  焼き栗を買う男  


~~~~~~~~~~

ローマのカーニバルがどれほど地味で家庭的かは、去年のヴェニスのカーニバルと比べても一目瞭然だ


    

腕に注目!中身は男         可愛い女の子           帽子の男の子  

仮装したつもりのワンちゃん


おや? こいつはどう見ても神父だ! ひょっとして日本人?


(おしまい)





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★ 教皇の晩餐会-②

2012-02-17 14:42:16 | ★ 教皇ベネディクト16世

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教皇の晩餐会-②

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ご心配なく! 今日は頭を使わなくてもいいブログですよ。

 

今年も素敵な招待状が舞い込んだ。

2012年2月15日、教皇ベネディクト16世教皇が、ローマにある神学校の養成者と神学生を晩餐会に招かれるのだ。

日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院(もと高松にあった神学院)も、その招待の対象になる。

まあ、教皇自身が高松からローマに移されたのだから、当然と言えば当然だが・・・

今年は、青い招待状に加えて、ベージュ色の番号入りのカードが届いた。

これをもらったものは、教皇に個人的に挨拶をして言葉を交わすことが許されるのだ。


 

プログラムでは、サンジョヴァンニ・ラテラノ教会に隣接するコレジオ・ロマーノのチャペルで夕の祈りがあって、その後、教皇の霊的講話があることになっている。チャペルにはテレビの固定カメラが3台、と移動カメラが2台が配置され、カリオン風の鐘の音楽が鳴り終わって教皇が入堂するのを待ち構えている。

 

 

定刻に、割れるような拍手に迎えられて教皇が入堂した。すぐ後ろには、ローマの教皇代理司教であるヴァリーに枢機卿がつき従っていた。

 

 

教皇は、まずチャペルの脇祭壇の聖櫃の前に跪いて短い祈りを捧げる。

 

 

ヴァりーニ枢機卿と並んで一同に向かって挨拶する教皇。

 

 

聖書の朗読を受けて、それについてお話をする教皇。

時々聖書に目を落とす以外は原稿なしに自由に話す。内輪の集まりで、くつろいでいる証拠だ。

さすがは前教皇ヨハネパウロ2世の懐刀として教理省の長官を務めただけあって、その内容には強い信仰に裏付けられた深い学識がにじみ出ている。

 

   

 

メガネをかけたり外したりするのだが、かけたメガネが傾いてずれていても全く意に介する気配はない。

稀に言葉が途切れるが、それは、頭の中に浮かぶドイツ語の術語をどうイタリア語に置き換えようかと一瞬思案しているように思えた。

 

 

話を終えて、万雷の拍手に手を上げてこたえる教皇。食堂に向かう前に、一部の参会者と言葉を交わすために別室に退く。



短い時間ではあったが、大事な要件は十分話せた。何を話したかって?それは、なぁ・・いぃ・・しょ!

 

 

個人的挨拶を終えて、神学生たちの待つ食堂に姿を現した教皇。

 

 

教皇のメインテーブルに隣接する養成者のテーブルには席を指定した名札が。私の名前は「タニグッキ」となっていた。

 

   

 

前菜は省略した簡素なメニュー。 プリモピアットのパスタはうんと少なめに頼んだ。ほっておくとこの倍も三倍もよそわれてしまう。

セコンドピアットは薄切りのビーフと、きのこと、マシュポテトに、おいしいソースをかけたものだった。

私の正面の平山司教様に神学生がそれを給仕している。

 

 

赤ワインは、まろやかな深い味の、間違いなく高級品とひとなめでわかった。

デザートは洋ナシのタルトとチョコレートソースをかけたミニシュークリーム。

量が多くて甘すぎるのが難点だ。

 

 

食後にシャンパンが振舞われた。乾杯をして一気に飲み干す教皇。

昨年は、給仕頭から、食事を口に運んでいる教皇の姿は写真に撮らぬようにと、あらかじめ注意があった。

しかしそんなことみんなとっくに忘れている。

それに、シャンパンは飲み物だし・・・。

 

 

食後、挨拶に出て来た料理長を温かくねぎらう教皇。

 

    

 

満腹して満足して会場を後にたし。神学校に戻る車の窓から一瞬見えた深夜のコルソ通りのイルミネーション。

発光ダイオードでイタリアの三色旗の長い帯をかたどっている。

右の写真は、V.エマヌエーレ2世通りの本屋さん。世俗的な本はたいてい何でもそろっている。楽器も置いている。

来年の今頃、私はまだローマに居るだろうか、と、ふと思った。


これ、能の合間の狂言みたいなものでしょう?

(おわり)



 

 

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★ 教皇の決定的アクション(その-2)

2012-02-14 23:02:43 | ★ 新求道共同体

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教皇の決定的アクション(その-2)

―「新求道期間の道」の承認完了―

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承認の「教令」を読み上げるヨーゼフ・クレメンス司教


 これは、131日にアップした同じタイトルのブログの続編です。前回の


第一部:教皇庁立「信徒評議会」局長(Secretaryヨーゼフ・クレメンス司教による「新求道期間の道の祭儀の承認」発表

を書いたとき、私の手元にはまだ「承認書」の本文テキストが届いていませんでしたが、その後入手しましたので、そのまま全文掲載します。なぜ全文掲載かと言うと、一部分だけ切り取って違った文脈の中に挿入すると、意味が全く変わってしまう危険があり、時には正反対の印象を与えることもあるからです。以下、原文のままです:


 ~~~~~~~~~~


教皇庁信徒評議会

公文書番号 N. 1743/11/AIC110

 

教 令

 

 教皇庁信徒評議会は2008511日付けの教令をもって、「新求道期間の道」の「規約」を最終的に承認し、引き続き、教理省と十分に検討したうえで、20101226日の教令によって「新求道期間の道」のカテケージス(訳注:信仰入門の手引)のための有効で拘束力のある「カテケージスの指導書」を承認した。

 この度、使徒的憲章「よき牧者」(Costituzione Apostolica “Pastor Bonus”)のローマ教皇庁に関する第131章、1331項及び2項に照らし、教皇庁信徒評議会は、典礼秘跡省の賛成意見を得て、「新求道期間の道」の「カテケージス指導書」に含まれる祭儀のうち、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていない部分に対して、承認を与える。(訳注)

バチカンより、201218日主の洗礼の祝日において。

 

スタニスラウ・リルコ枢機卿

ヨーゼフ・クレメンス司教

 

――――――

 

 上の承認「教令」は極めて短いものであり、その内容は至って平易で誤解の余地はありません。しかし、この短い文章の背後には、多くの内容が秘められていますので、若干の訳者の解説を添えたいと思います。

 テキストの中で太字にして(訳注)と記した部分は、2012129日号の「カトリック新聞」2面の記事「『小教区の典礼に参加を』-教皇「道」儀式承認で強調-」、と言う記事の中に引用されています。そこでは不思議なことに「この『指導書』は、その性質上、かねてから教会の典礼書による規定に従っていない」となっています。ところが、この訳はイタリア語の原文とは全く関係のない文章です。正しい訳はすでに上に掲げたとおりです。

 公正な第三者の判定を得るために、敢えてイタリア語の関連個所の原文を添えます。太字のうち特にアンダーラインの部分が別の文章にすり替わってカトリック新聞に引用された箇所です。

.... Ora, visti gli articoli 131 e 133 § 1 e § 2 della Costituzione Apostolica “Pastor Bonus” sulla Curia Romana, il Pontificio Consiglio per i Laici, avuto il parere favorevole della Congregazione per il Culto Divino e la Disciplina dei Sacramenti, concede l’approvazione a quelle celebrazioni contenute nel Direttorio Catechetico del Cammino Neocatecumenale che non risultano per loro natura già normate dai libri liturgici della Chiesa. ....

 ちなみに、このイタリア語の原文の真意をわかりやすく敷衍すると「新求道期間の道」の「カテケージス指導書」に含まれる祭儀のうち、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていない部分に対して、承認を与える。と言う言葉の背後に以下のような内容が浮かび上がります:

(1)「新求道期間の道」の「カテケージス指導書」には実にさまざまな祭儀が含まれていること。

(2)その中には、「ミサ」や「赦しの秘跡」など、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていて、(すでにバチカンの許可を得て変更が認められている部分以外は)それをそっくり行っているものがあること。

(3)そのほかに、

     - 最初のカテケージスにおける赦しの秘跡の祭儀

     - 聖書の授与の祭儀

     - ミサで手焼きの種無しパンとぶどう酒の両形態を用いる祭儀

     - 毎週水曜日の晩に行われる「聖書」を分かち合う「みことばの祭儀」

     - 歩みの各段階の集いで行われる固有の祭儀

     - 毎月行われる「集い」での祭儀

     - 復活祭の「徹夜祭」における祭儀

     - 日曜日の朝家庭で教会の祈りを家族で唱える「家庭祭儀」

などがあること。(もちろん、これらは「新求道期間の道」固有のもので、既存の教会の典礼書には今まで全く何も規定されていませんでした。) 

これら(3)に相当する部分のことがらに対して、「『新求道期間の道』の『カテケージス指導書』に含まれる祭儀のうち、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていない部分に対して承認を与える。」と言う言葉をもって、いちいち細部に言及しないまま―しかし詳しく精査し検討された結論として―これらの諸点に対して包括的な承認があたえられる、という意味に理解するべきものです。

これが、今回の承認の「核心」をなす部分です。だからこそ、これは普遍教会全体にとって画期的なことであると同時に、「道」にとっても非常に喜ばしい記念すべき出来事なのです。


承認されたばかりの「教令」文をかざして喜ぶキコ


 こうした背景を知らずにカトリック新聞の記事を読むと、結果として、「核心」の部分はどこかに消し飛んで、まるで教会は「今承認したばかり」のことを、同じ席で「直ちに否定」しているかのような、全く矛盾した不可解な印象を読者は受けるのではないでしょうか。

 バチカンの公文書を故意に改竄(かいざん)し、それをカトリック教会の機関紙であり良心である「カトリック新聞」に堂々と掲載するというようなことは、絶対にあってはならないことであり、あり得ないことであり、だからそんなことはなかったと私は固く信じます。

 だとすれば、今回の誤記事を書いた匿名のイノセントな筆者は、イタリア語の基本的単語を誤って理解し、それを辞書で確認することもなく、基本文法にも暗く、初歩的な誤りを犯していることに全く気付かなかった、という以外に説明のしようがないのではないかと思います。

 それにしても、バチカンの機関紙をはじめ、各国語の新聞が大きく報道し、内容を正しく伝え、一斉に好意的記事を書いている中で、この「誤訳」のせいもあって、同新聞の読者には、結局何が起こったのか、どういう内容のものであったのか、肝心なところが全く伝わってこないで、ただ何かわからないまま否定的な後味だけが残るという報道の仕方は、如何ともし難いものなのでしょうか。


集まった関係者にメッセージと祝福を送る教皇ベネディクト16世


(おわり)

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★ インカルチュレーション =キリスト教の受肉=

2012-02-10 15:35:44 | ★ インカルチュレーション

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インカルチュレーション

=キリスト教の文化への受肉=

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二回続けて軽いタッチの雪のブログを書きました。評判はまずまずでした。今朝からまたローマは雪ですが、このテーマはもう新鮮味が失せたので繰り返しません。

 重い能に軽い狂言が混じることによって舞台は立体化しますが、狂言ばかりでは能楽の舞台は成立しません。それで、私のブログの舞台もまた少し重いテーマに戻りましょう。

 



人々がどのようにして私のブログに辿り着くかは、「検索キーワード」というツールを監視していると、ある程度見えてきます。そして、最近気が付いたのですが、度々上位にランクするのが「インカルチュレーション」というキーワードです。

何かおかしくないですか?

なぜって、私のブログの読者の中でクリスチャンは必ずしも多数派ではないと考えられるのに、きわめて特殊なキリスト教の「業界用語」が頻出しているのですから。

 

 「インカルチュレーション」つまり、直訳すると「カルチャーの中に入ること」という言葉は、アジアのカトリック教会では以前からの流行語です。日本では盛んにキリスト教の「土着化」とか言い換えられていますが、私は直観的に危険な臭いを感じて、その言葉を好んで使う人たちを常に懐疑的な目で見てきました。

 手始めに、「新カトリック大辞典」と言うのをひも解いてみました。他の項目とは不釣り合いに、「インカルチュレーション」の記述は2ページ余りにわたる長文のものでした。しかし、案の定これと言う収穫はありませんでした。こんなのを話のベースに用いるなんてとんでもないぞ、とも思いました。

 



 やはり、確かな出発点は教皇の教えでしょう。前の教皇ヨハネパウロ2世は、1990年に「救い主の使命」Redemptoris Missio)という「回勅」を発表しています。「回勅」の内容には、カトリック教会の正しい教えとしての権威があります。

 教皇は(したがってカトリック教会は)インカルチュレーションを「福音の文化内開花」としてとらえ、「人間のいろいろな文化のなかにキリスト教を入れること」「その文化の実際の価値を親しみをもって変容させる方法」と定義しています。また、教会は「『インカルチュレーション』をとおして福音を種々の文化の中に受肉(インカルネート)させる」とも言っています。

 ヒントとしては、これで十分でしょう。

 

 手始めに、私の理解したインカルチュレーションの具体的な例を2-3のべましょう。

 

 私がまだ20歳台前半の若い学生だった頃の話です。東京四谷の聖イグナチオ教会の当時の主任司祭は、戦時中に上智大学の学長の座を軍部の圧力で解任されたヘルマン・ホイヴェルス神父でした。哲学者、詩人で、戯曲作家としても活躍し、皇居で外国人が受けることの出来る最高の勲章にも輝いた優れたドイツ人イエズス会士でした。私は、18歳で上京して以来、神父が亡くなられるまで、ずっとその薫陶を受け、幸せな青年時代を過ごしたものでした。

 

 最初の例は、ホイヴぇルス師が宝生流のために新作能「復活のキリスト」を創り、上演したことです。木戸久平という能面師が、世界にただ一面キリストの能面を打ちました。能楽の伝統と歴史にとって画期的な出来事でした。初演以来、毎年春、神父の没後も、復活祭の頃になると宝生流ではこの「復活のキリスト」の能を上演するならわしになったと聞いています。日本の文化の代表的な能と能面の世界に、キリスト教の最も大切な教え、「キリストの復活」がインカルチュレート(受肉)したよい例だと思っています。

 

在りし日の中村歌右衛門


 二つ目の例は、同じホイヴェルス師の原作の歌舞伎「細川ガラシア夫人」が、東京の歌舞伎座で一カ月にわたって上演されたことです。戦後を代表する立女形六代目中村歌右衛門が舞うガラシア夫人の姿は怪しいまでに美しく、大好評でした。私は、初日、中の日、落の日の3日間、常にホイヴェルス神父の隣の席にいて、舞台を見つめる師の真剣な横顔を何度も見上げたことを懐かしく思い出します。ホイヴぇルス師と歌右衛門の二人だけのはずのところにも、なぜかちょこんと同席した学生の私に、師はカトリック新聞に劇評を書くようにすすめられ、怖いもの知らずで書いた殆ど半ページに及ぶ記事が新聞に掲載されました。今のカトリック新聞とは全く違う編集の雰囲気でした。 

 これなども、「人間のいろいろな文化のなかにキリスト教を入れ」「その文化の実際の価値を親しみをもって変容させる」という教皇の定義にぴったりの例ではないでしょうか。


在りし日のホイヴぇルス神父様


 三番目の例は、やや時代を遡りますが、日本の茶道です。私は小学校に上がるか上がらないかの頃に、父親から本籍地の地名を暗記させられたものです。キョウトシ・ウキョウク・サガ・シャカドウモンゼン・ウラヤナギチョウ・○○バンチ、と72歳になった今でも、すらすらと口をついて出てきます。嵯峨釈迦堂門前・・・とは、嵐山に近い清凉寺前のことで、その裏の竹藪を抜けると厭離庵という尼僧院があって、その側に旧大蔵次官をしていた父の長兄の家がありました。私はその門構えから玄関に続く敷石道の両側の楓の林をよく覚えています。私の祖母は、晩年は京都のこの家から、父を頼って私の家に移ってきました。

 祖母は表だったか裏だったか、茶の湯をとても愛していて、子供の時よく正座させられて、足がしびれて往生したものでした。その後もイエズス会の修練院では毎週一度お茶の先生がやってきて、たて方を教わりました。

 長くなるので堺の豪商の千の利休が密かに洗礼を受けていたかどうかの議論には入りませんが、聖フランシスコ・ザビエルのもたらしたカトリックの信仰を、彼は深く深く理解していたと私は断言できます。古田織部、細川忠興、高山右近ら、利休七哲のうち5人までが熱心なキリシタン大名であったことを見ても、利休が彼らと同じかそれ以上にキリスト教の真髄をきわめていなければ、キリシタンの弟子たちを導き、茶の湯の精神的世界を樹立することは絶対に不可能だったに違いありません。

 下手な作文をするよりも、裏千家講師で春日部福音自由教会の高橋敏夫牧師が19941月の「福音自由誌に書いた一文を引用しましょう。

 


茶道は、日本文化の結晶である。(中略)(当時)キリスト教と茶道とのかかわり、歴史的な事実を、痕跡さえも意図的に抹殺しようとする力が働いたので、その事実関係を明らかにすることは、まことに困難を極めている。思想においても、造形においても、キリスト教とは全く無縁のものとして、茶道はその拡がりを見せていったのである。

 以下は、まことに一般的なことであるが、キリスト教と茶道の関わりについて申し述べよう。

 先ず第一に庭である。庭園の思想は、そもそもパラダイスの思想である。(中略)茶庭におけるいわゆる坪庭、露地は天国に旅する求道の道である。蹲踞(つくばい=低い手水鉢)があしらわれ、その傍らに灯篭が置かれ、一人しか歩くことのできない飛び石が打たれる。この庭を考案したのは、キリシタン大名古田織部である。その飛び石は、一人でしか歩めず、自らを赤裸々にして歩み、蹲って命の水によって清められる。世の光なるキリストに照らされて歩む歩みでなければならない。まさにそれは天路歴程の姿なのだ。

 そして、である。茶室に入る折は、躙り口(にじりぐち)を通らなければならない。これは千利休が考案した茶室特有の出入り口である。(中略)なんとその利休考案の躙り口、前述した山崎の妙喜庵に国宝待庵の茶室として、400年の月日を経て現存しているのである。それはまさに主の御言葉、「狭き門より入れ」の御教えでなくて、なんであろうか。(中略)

 高山右近の高潔な品格と交わりが、秀吉に接近しつつも、真の交わりは、世にあるものをすべて捨て去れなければならないことを、利休に気付かせたのではないか。その茶室の入り口において、彼はそれを表現したのである。

 しかも、利休は述べている。花は野にあるごとく。なんと、主の山上の説教を彷彿とさせる言葉ではないか。

 そして、一椀の茶をみんなですするのは、わが主の命じ給いし聖餐を暗示しているのではないか。しかも、である。利休は、客をもてなす折に、帛紗(ふくさ)を腰につけたのである。これこそ、あの最後の晩餐の席で手拭いを腰に巻いた主イエスの、しもべとなった姿をあらわしている。

 などなど、キリスト教と茶道の関わりについて、申し述べたらキリがありませんが、紙面の都合で、ここまでと致します。

 

 これこそ、インカルチュレーションの極致ではないでしょうか。私に言わせれば、利休の茶室庭園は、キコがインスピレーションを得て開いた「新求道期間の道」を庭園の形にして表現したものです。坪庭、露地は、高橋牧師が言うように、まさに「天国に旅する求道の道」つまり「求道期間の道」であり、飛び石は「道」の各段階であり、蹲踞(つくばいは)は「洗礼盤」であり、傍らの灯篭は受洗者が洗礼の時に受けるともし火であり、「道」を照らす光だと言えましょう。聖書のたとえの「狭き門」である「躙り口」から入った空間(茶室)はまさに聖餐式(ミサ)が執り行われる場所(聖堂やチャペル)です。カトリック教会が第2バチカン公会議以前(利休の時代)に用いていたミサの道具の多くが、茶道具として今日に伝えられています。ミサのホスチア(パンをかたどったもの)は茶菓子に、ぶどう酒は抹茶にと姿を変えてはいますが、茶碗、菓子鉢、帛紗(ふくさ)、茶巾(ちゃきん)、水差し、なつめ、香合、花入れ、などなど、「ああ、これはあのころのミサのあの小道具、この小道具と一対一で対応するな」、と思われるものがたくさんあります。

 それらの道具を用いて利休が象徴的に表現したのが、カトリックのミサだったのです。キリストの最後の晩餐の記念は、戦国時代の将軍や豪商の風流であったと同時に、明日は戦場で死ぬ戦国武将らの最期の宴、能の舞のように最期の心を整える魂の儀式にまで深められた違いありません。

 茶道は日本ではキリシタン伝来以前から愛好されていましたが、それが、利休の手にかかると、見事にキリスト教の魂をインカルチュレートする手段となったのでした。

 子供心に、帯に帛紗を挟んで、両手を帯の下あたりにピタリと揃えて、能の舞のようにすり足でしずしずと畳の上を歩いて入ってくる祖母を見上げながら、早くお菓子が欲しいとしびれる足をもじもじさせていた私は、教会で赤いスカートと白いケープを着けてミサの侍者をさせられたとき、丸暗記した意味不明のラテン語でミサ答えをしながら、「ふーん!ミサっておばあちゃんのお茶みたいだ」と直感的に思ったのが、今は、利休の茶の湯はカトリックのミサを日本の伝統文化の茶道にインカルチュレートしたものだと分かって納得しています。

現代の茶道愛好家たちは、気付かずに400年前にインカルチュレートしたカトリックのミサを日々行っているのです。そして、カトリックの神父たちも信者たちも、流行語のインカルチュレーションを盛んに議論しながら、茶の湯を自分たちの信仰とは無縁の日本の伝統文化だと思って眺めているというのは、考えてみれば実に奇妙な話ではないでしょうか。


「新求道期間の道」の典礼に則ってミサを捧げ、パンを裂くる教皇ヨハネパウロ2世

金銀の器や、手焼きの大きな種無しパン、多数の大きな銀色の盃になみなみと注がれたぶどう酒

確かにここに茶の湯との共通点を読み取るのは容易ではないが・・・

 

一回分のブログの原稿としては既に限度を超えて長くなりました。次回からは、インカルチュレーションの言葉のもとで-またその関連で-行われている、誤った、あるいは、危険な、試みについて論じてみたいと思います。乞う、ご期待。

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★ 今日の説教

2012-02-04 21:12:31 | ★ ローマの日記

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今日の説教(2012.02.04

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朝のミサのとき聖堂の窓ガラスが水蒸気で曇っていた

誰かが AVE MARIA と指で落書きをしていた

さすがは神学生???


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〔お説教〕 

おはようございます。

と日本語で切り出す。ローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」では、祈りも、ミサも、説教も、すべて日本語で行われるのが原則)

神学生の兄弟の皆さん!今日の朝はなんと美しいことでしょう。一面まっ白の雪に覆われて。

聖アウグスチヌスは言いました。世界を救うのは神の美だと。私たちが今ミサをしているこの小さな聖堂も、キコさんの美意識のお蔭で、簡素さの美にあふれています。

さて、皆さん、たった今朗読された今日の福音は、マルコ6章からでした。

 

使徒たちはイエスのところに集まってきて、自分たちが行ったこと

       や教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなた方だけで

人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出

       入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、

一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

ところが、・・・・(マルコ6章3034節)

 

ところが、船が着いたところには、先回りした群衆が待っていて、休むどころではなかった。これが最初の神学校の姿です。

イエスが最初の弟子たち(神学生たち)、つまり「12使徒」を福音の宣教者に養成したその現場、あの生活が神学校のモデル・原型です。絶えず旅をしながら、男女の群衆と交わりながら、二人一組で派遣されたり、戻ってきて体験を報告したり、休んだり・・・。いつも先生イエスの側に居て、その言葉から学び、ともに祈り、ともに食事をし、・・・。神学校の敷地も建物も何もなかった。

今の世界のカトリックの神学校は全く違う。6年間、8年間、それ以上も、男たちばかりが一か所に定住し、外界との接触を絶って、鐘の音に従って共同で毎週同じ日課をこなし、まるで戒律に生きる修道院の修道僧のような生活をする。ローマでも、毎日グレゴリアーナ大学に通い、学期毎に哲学・神学の試験を受け、成績で一喜一憂し、・・・・知識を詰め込み吐き出すだけなら、コンピューターの方がよっぽどうまくやるではないですか。

これは、16世紀以来のトレント公会議型の神学校と呼ばれます。現代の世界中のカトリック神学校がみな同じパターンです。

イエスの神学校は全く違っていました。自由だった、人間臭かった。先生であるイエスと共に、自由に旅をしながら、その言葉から学び、常に人々と交わり、散ったり集まったり、その中で次第に福音をのべ伝える情熱を身に着けていく。世俗的考えを脱ぎ捨て、神を愛し、隣人を己のごとく愛することを実践を通して学ぶ。

私たちも、望めばそのような神学校の原点に戻ることができるのではないだろうか・・・、その改革の実験してみようではありませんか、・・・と説教は熱く続く。(現行教会法が許す範囲ぎりぎりまで。)

 

冬でも咲き続けるブーゲンビリアにも雪が


ミサが終わると朝食もそこそこに若い神学生たちは外に出た。外は昨夜のうちに降り積もった真っ白な雪で覆われていた。メキシコ人の神学生は生まれて初めて触れる雪に興奮気味だった。

 雪や、こんこん・・・♪ あられや・・・♪

 神学生は喜び、庭駆け回り、

神父は炬燵で丸くなる・・・♪


初めて雪を見て興奮する中米からの神学生


  

 私の暖かい部屋の窓から見下ろすと 

      雪合戦にむちゅうなインド人神学生    雪だるまの準備か?      


しまいにはお決まりの取っ組み合い。まるで子犬だね!


       

神学校の敷地内にはあちこちに思い思いの表情の「スノーマン」が(大きさの比較に立ってみた)

ヨーロッパは26年ぶりの寒波だそうだ。


(おわり)



 

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★ ローマにだって雪ぐらい降るさ

2012-02-03 21:46:52 | ★ ローマの日記

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ローマにだって、雪ぐらい降るさ!

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中断はあったが、私がローマに住むようになって延べ11年目なったかと思います。普段は温暖なローマ。

この3-4年で神学校の庭が白くなったのはこれで2度目ではないでしょうか。

いつも長文の小難しい話でお疲れでしょう?済みませんね。今日は、息抜きにカメラをぶら下げて、雪の神学校を一回り。

私がどんなところに住んでいるか、ご案内しましょう。

 

私の3階の部屋の窓から見下ろす中庭です。白い四角錘状の屋根(ピラミッドと呼ぶ)の下はロビー。その右後ろが聖堂。糸杉の左の廊下の向こうは食堂。

 

 

ピラミッドの下のロビーに降りて窓越しに中庭を見ます(中央下の白いボーっとした点はレンズに着いた水滴)。

 

中庭のシクラメンも雪の下で凍えていました。

 

元気な叫び声がするので3階の廊下の端から見下ろしたが、サッカー場には人影がない。

はてな?

と思ってバレーコートに目を転ずると、いたいた! サッカーのユニホームの神学生が、狭いところでボールを追っていた。

 

    

滑ったり、転んだりで思うようにボールを蹴ることができないが、みんな大喜び。 中南米からの新入生は雪に触れるのは生まれて初めてに違いない。

 

玄関を出て振り返ると、枝を下したばかりのオリーブの木の幹に雪がついていた。

 

玄関から門までの道の左に、この季節、唯一花をつけたミモザの木がある。その花にシャーベット状の雪がついて重たげに枝垂れていた。

 

門の外の耕地には、今年は麦ではなく、マメ科の植物が植えられているのだが、それは育てば羊の飼料になるはずだ。

 ただこれだけ。 

いかがでしたか?


ローマの街は雨にも弱いが、雪ともなるともう絶望的。ローマでスノータイアの用意のある車は皆無に等しい。結構坂の多い街だ。あちこちで立ち往生や小さな接触事故が発生する。お蔭で、たちまち全市交通麻痺になる。今日はすべての学校が臨時休校。大学は試験期でやっているが、試験で出かけた学生は、普通30-40分の道を、4時間かけて戻ってきた。私はバチカンの近くのキコ氏の家にに用があって、平山司教を伴って出かける予定だったが、万一を心配した周りに押しとどめられて、とうとう約束をキャンセルして断念した。残念なことをした。

この寒波、4日ほど続くそうだ。

(おわり)




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