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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 2016 イタリア地震リポート 日本人はどこまでそれに寄り添えているか?

2016-11-21 11:39:24 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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イタリア地震リポート (その-1)

日本人はどこまでそれに寄り添えているか?

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通称「テント」(昔、本当にここに巨大布テントがあった)会議場から裏の丘を望む

昨日アドリア海に面したポルト・サン・ジオルジオと言う漁村の丘の上のコンヴェンション施設から帰ってきました。世界5大陸の宣教の責任者たちの集いがありました。平山司教様もご一緒でした。

宿は海岸通りの「ティモーネ」(舵輪)と言う名のホテルでした。このあたりに無数にある夏の保養地のホテルは、みんなこの季節には閉まっていて私たちだけが独占するはずが、今年は60人ほどの先客グループが泊まっていました。聞くと、ここから少し北のアマトリーチェで去る8月24日以後に起きた一連の地震の被災者の皆さんでした。震源から離れたこの漁村でさえも、ほとんどの教会が打撃を受け一つを除いて皆閉まっていることを思えば、当然予想できたことでしたが、被災地は当分誰も住めないほどに破壊され、多くの人が路頭に迷うことになりました。

日本の地震の場合は、ふつうはすぐに学校の体育館や公民館などの公共の施設に収容され、仮設住宅が建てられて入居が始まるまでのかなりの時間、プライバシーも何もない劣悪な環境に長期間耐えなければなりませんが、イタリアの場合は地震直後の数日間こそは同じように一時避難するかもしれませんが、きわめて短期間に軍隊用のテントで村が建てられ、そこに移るようです。実は、私は2009年のラクイラ地震の直後にも、ポルトサンジオルジオの集会に来ていたのですが、その時テント村に慰問と宣教に出かけたことがありました。

被災者で親戚や知人を頼って他の街に自主避難できない人たちは、あっという間に立ち並ぶテント村に入ることが出来ます。防寒性も十分なテントはとりあえずの人間的な環境を与えてくれるわけです。ラクイラにはこのようなテント村が数か所設けられました。

お世話は兵隊さんたちとボランティア―がします。

他の神父たちと共に私もそこへ精神的な支援部隊として入りました。人々の心のケアーに当たり、教会を長く離れていた人たちの告白(懺悔)を聞き、一緒に祈ったりするわけです。たくさんの人たちが、この自然災害を機会に信仰を取り戻していきました。

そのころ私はまだ爺さん臭い「ひげ」を生やしていませんでした。

テント村にも生活があり、子供が生まれ、司教さんが呼ばれて洗礼式もありました。

そして、次のステップは空いているホテルを行政が借り上げて8か月間は無償で生活できるようです。ホテル・ティモーネだけで60人ほどですが、近隣の町まで含めえると数千人規模で受け入れられているようです。私たち普通の泊り客と同じ待遇の部屋でベッドに寝てシーツもホテルの従業員が交換し、私たちと同じメニューのホテル食を食べています。毎食、赤と白のワインも付きます。

同じ食堂の彼らのテーブルには「市民保護グループ」という札が置かれていて、私たちと区別されますが、毎日おはよう、こんにちは、とあいさつを交わすうち、次第に打ち解けて心を開いていきます。まず一人の可愛いおばあちゃんが私に近づき、懺悔をしました。やはり久しく教会から離れていたのでしょう。

壁際のテーブルや壁にはいろいろなお知らせが書かれています。

医者の来診スケジュール

毎日の食事の時間

自治体差し向けの被災地行きの定期バスの時刻表、などなど

私たちと食事の時間が微妙にずれることがあるが、この写真の右手が私たちのテーブル

彼ら被災者たちは、小ざっぱりした服装で明るく振る舞っています。若い夫婦も子供も乳幼児も、たくさんのお年寄りと共にいます。一人の男性は、話してくれました。このホテルにいる間に自治体の専門家チームが全壊、半壊など、各家の被災状態を評価し、提供すべき再建資金の査定をするようです。再建を済ませると、資金を正しく十全に使ったかどうか、再建に使わないで懐に入れてはいないかなどの審査があった後に、順次村に帰って生活を再開することが出来るようですが、元の軌道に乗るまでには10年はかかるだろうと言いました。

先に席に着いた平山司教様(92歳)にスパゲッティーを配る給仕のお姉さん

私たちの仲間、アジアの国々の宣教チーム

みんな被災者と同じメニューで食事を戴く。

ここでの被災者の姿を見る限り、悲惨とか、暗いとか、先行き不安・絶望とか、いう印象を持たなかった。鬱になる人もいるだろうが、それは致し方のないことか。私は、2011年の 3.11 東日本大震災以来、福島の現実にある程度深くかかわってきたつもりだった。岩手や宮城と違い、福島には地震と津波の上に原発事故と放射能汚染という3重苦があるとはいえ、イタリアの地震被災者との間に明らかな空気の違いを直感しました。

そのイタリアは、日本の 3.11 に対して物心両面で多大な支援を惜しまず、なお今も続けています。そのことを私はこのブログで度々伝えてきました:

例えば、《3.11 東北大震災 ローマは忘れない 「記念追悼ミサとコンサート」

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/4035922aaa85e792c900587deb8d0cc8

 

とか、《悲しいお知らせ―しかしローマは「ふくしま」を忘れない》

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/87135ed47e405510ab3e3b5fb4c7a499

 

とか、《チェルノブイリの子供たち -サーシャとアレクセイの場合-

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/a9641f87b4aeeed066d943a7b77fc57e

など、私のブログの「カテゴリー」《★ 大震災・大津波・福島原発事故》23編 をご参照いただきたい。

(つづく)

バラ

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★ 舛添要一氏のこと キリストと姦通の女(完)

2016-11-12 19:44:48 | ★ 聖書のたとえ話

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舛添要一氏のこと

キリストと姦通の女(完)

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70年前、敗戦後の天皇の人間宣言以来、日本人は一切の「生ける神」への信仰を失ったといっても過言ではないでしょう。残ったのは、お金の神様、「マンモンの神」への信仰だけのように見受けられます。 

神のいない世界がどんなにひどい様相を示すか。共産主義的無神論社会が、賄賂と汚職にまみれた救いようのない腐臭に満ちた状況に沈んだことは、中国やロシアの為政者が一番よく知っています。彼らはそれを根本的に是正するには生半可な道徳主義では足りず、まじめな宗教の力を借りるほかに手はないことに気づき始めているでしょう。

では、日本の社会はどうでしょうか。イタリアに長く住んだものの目から見ると、一般庶民個々人の表層的モラルは一見イタリア人などよりも高いようにも見えます。しかし、いったん集団化すると、日本の「会社」や「官庁」が中国やロシアよりましだと言えるでしょうか。そして、悪いことに、日本人はその根本的原因と脱出の道にまだ気づいていないように思われます。 

中島氏は、先に取り上げた「舛添問題」では、私はむしろ「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、それほど「汚い」とも「憎い」とも思いませんでした。むしろ、小池百合子現都知事の「小池旋風」がまだ予測のつかないころは、彼女に無礼の限りを尽くしておきながら、敵にしたらヤバイと判断した途端、露骨に擦り寄る都議会議員の面々、広大な地下空間の決定に関与した者は必ずいるはずなのに、絶対に名乗りを上げなかった都庁職員の面々のほうがずっと「汚い」という印象を持ちました。

と書いています。私に言わせれば、舛添さんが「セコ」いと言われるのは、何不自由なく暮らしている人が、ホテルの洗面台から髭剃りや櫛を持ち帰ったり、会社の消耗品のセロテープや消しゴムを家で使ったりの、「それぐらいのものは自分の金で買えよ!」と潔癖主義の庶民から言われそうな、わかりやすさのゆえではないでしょうか。中島氏はそんな一面を指して「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と言ったのだと思います。 

舛添さんよりずっと「汚い」連中は、すぐ言質を取られるようなわかりやすい嘘はあまりつかないかもしれないし、セコイことも注意深く避けて外見上隙を見せないよう細心の注意を払っているのかもしれません。しかしその裏では、庶民の血税を、会社の収益を懐に入れて私腹を肥やし、賄賂も取って知らぬ顔を通し続けるのです。政治家も多くは地位と権力を利用してうまい汁を吸うことに長けていると思われます。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の言葉どおり、会社ぐるみ、官庁ぐるみ常習的に不正にまみれ、その「汚なさ」を互いの身になすりあって同色に染まり、その発覚から各自を護るために互いにかばい合う世界を一致団結して構築しているのではないかと疑われます。豊洲の盛り土問題がそのいい例です。

他方、一緒になってその汚さにまみれることを潔しとしない者は村八分になり、疎外されて、結局その世界には住めません。舛添氏は都議会やその黒幕の汚い巨悪の共犯者にならず、隠された不正な談合に手を染めなかったのではないかと思っています。(もし手を染めていたら、そこをこそ第一に叩かれたはずですが、そんなことは何も起こらなかったではないですか。)そこが村社会では不協和音を奏でる異分子とされ、一線を越えない正しさが一緒にいて居心地の悪いオーラを漂わせることになったのではないでしょうか。

東大を出て、国際政治学者として「改革派」を名乗って頑張ったが、「一人の力では限界がある。東大と心中する気はない。」と、東大助教授の職を辞した彼は、参議院自民党政策審議会長、厚生労働大臣を歴任しました。年金問題ではいい働きをしたではないですか。自民党で孤立すると、「新党改革」を旗揚げして代表となり、その後東京都知事に就任したのでした。政治家として錚錚(そうそう)たるキャリアーだと言うべきでしょう。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語の6ヵ国語を自由にし、53冊の著書、6冊の共著、13冊の翻訳書をあらわし、絵画に造詣が深く、乗馬を趣味とし・・・、と人並み優れた深い教養と学識を身に纏った彼は、そんなこととは縁遠い泥臭い田舎の政治屋の社会では、仲間として馴染みにくいセレブな風を漂わせ、どこか煙たく、何かあったら貶めてやろう、足を引っ張ってやろうという劣等感に裏打ちされた屈折した反感に付け狙われることなったのではないでしょうか。

そして、不幸にもあのタイミングでその点に火が着いた。あとはテレビやマスコミを挙げての集団ヒステリーの暴走で炎上していくしかなかったのだと思います。

そんな逆境の中でも、当初はあくまで都知事を辞任せず、都議会の解散も辞さぬ意思を貫いて、法の裁きに身をゆだねるつもりだっただろうと思います。彼が筋を通して頑張り続けたら、自民党は大打撃を免れないはずでした。だから、どんなに乱暴な手を使ってでも、一刻も早く彼をつぶさねばならないと焦った勢力がいても不思議ではありません。

あの日公用車に乗って出かけたかと思ったらすぐ引き返してきて、あっさりと辞意の表明に至りました。

車の中にどこからどんな話が飛び込んできたのか、私など知る由もありませんが、単なる美味しい裏取引の成立話などではなかったことはだけは想像に難くありません。私は巨悪の側からのぞっとするような恐ろしい脅しだったのではないかと勝手に想像をたくましくしています。例えば、暴漢を差し向けて射殺するぞ、とか、家族の命を奪うぞとか、交通事故死したいのか、とか言ったたぐいの露骨な脅迫の前に、かつて「東大と心中する気はない」と言って助教授を辞めた彼は、筋を通すためにそれほどの代償を払う価値はない、「都知事の椅子と心中する気はない」と、醒めた理性が納得したからではないでしょうか。

中島氏の説くカントの「道徳的善さ」やフコーの「パレーシア」と全く相いれない、「日本型村社会」の典型としての都庁の風土にあって、舛添氏が異色であったことが招いた悲劇だと思います。

私はいま、ギリシャの哲学者プラトンの「ソクラテスの弁明」を久々にひもといていますが、ソクラテスは真理のために敢えて毒盃をあおって死を選んだのは歴史に残るエピソードでした。イエスは避けて通る道と機会が十分にあったにもかかわらず、自ら選んで「天の御父」のみ旨に従って、全人類の罪を贖うために十字架上で壮絶な死を遂げ、3日目に蘇って復活の勝利に輝きました。舛添氏が最後まで志を全うしていたら、或いは日本の国全体が変わるだけのインパクトを持ち得たかもしれないし、氏自身も社会の第一線に「復活」したかもしれません。

舛添氏に最後まで徹底すべきだったと言うのは簡単ですが、彼を追い詰めたマスコミの競い合っての狂乱ぶりこそが、そもそも「セコイ追及」のエスカレーションだったことを思えば、問題はそんなに単純ではありません。ナザレのイエスの場合も、ローマの総督ピラトは、公平に見てイエスに非を認められず、無罪放免にしたいと望んだのに、ユダヤ人の嫉妬に狂った扇動者に煽られた群衆の凶暴な叫びに匙を投げて、不本意にもイエスの処刑を許さざるを得なかったことが思い出されます。

それにしても、舛添氏を引きずり降ろした後に、自分たちの品性とモラルのレベルに釣り合った同じ穴の貉(ムジナ)の政治屋を押し立てて、日本型村社会「都庁」の居心地の良さを取り戻そうとした面々の思惑は見事にはずれ、もっと厄介な「リボンの騎士」のまさかの登壇に道を開いてしまいました。自分たちの手でパンドラの箱を開いてしまったのです。

私はむしろ「舛添さん、よくあそこまで耐えた、よく頑張った、ご苦労さん」と言いたい。彼があそこまでやったから、小池百合子都知事が生まれたのだとは言えないでしょうか。舛添を降ろして溜飲を下げた連中は、改めて戦々恐々としながら、早速小池降ろしの秘策を練り始めているかもしれません。

中島氏は「舛添要一前東京都知事の 『あまりによくわかるウソ』と『目に余るセコさ』が目立った」と言い、「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、「それほど『汚い』とも『憎い』とも思いませんでした。」と書いていますが、実はそれを目立たせたのはマスコミ間の「セコイ」競争ではなかったでしょうか。政敵とマスコミと情報機関が挙げて彼の身辺を洗いざらい調べて、湯河原の別荘へ公用車でとか、イタリアレストランでの飲食費15,000~円とか、絵画オークションで何万円とかの「セコい」あらしか見つけられなかったということは、裏を返せば、彼が地位を利用して巨額の公金を着服したというような法に抵触する重大な罪を一件も犯していない稀に見るクリーンな政治家であったことの明白な証拠をマスコミが明らかにしたようなものではなかったでしょうか。その面にこそ私は注目したいと思います。

ところで、このような私の論法を目くじら立てて批判し論難する人には、ご自分が「真理」とも「モラル」とも無縁な「会社」と「官庁」の世界の闇と巨悪を無意識のうちに擁護しておられることにふと気付かれることを願います。

宗教家としての結論として、ロシアにも中国にも日本にも、「本当の生ける神」への信仰が広く人々の間に根付くことなく、この世の唯一最高の「お金の神様」を拝んでいる限り、闇と死の谷をさまよう救いのない運命から逃れ出る道はないと言いたいのです。

私は舛添氏と一面識もないが、氏がこのまま葬り去られることなく、社会の第一線に「復活」を果たし、その卓越した能力と教養を存分に発揮して、社会に大きな貢献をされることを期待してやみません。

このブログを読まれた方は、あらためて4編の「キリストと姦淫の女」シリーズを通してお読みください。最初から舛添さんに触れています。先の3編は:

1)    独裁と魔女狩り? キリストと姦通の女-1

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/e10c32e52536195260de5e653c37cacb

2)    キリストと姦通の女-2 一つ前のブログ「独裁と魔女狩り?」の続き

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/79beed4a90e452f85c9af152a1f4b790

3)   キリストと姦通の女(再び)

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/b22394b8761244f48e9ff69d1e2d0d40

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★ キリストと姦通の女(再び)

2016-11-07 07:47:33 | ★ 聖書のたとえ話

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キリストと姦通の女(再び)

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私は、今年の6月6日と7日に「キリストと姦通の女」をテーマに2度ブログを書きました。しかし、書いたのが舛添都知事の辞職直前と言う最悪のタイミングだったためか、「お前、何馬鹿言ってんの?」みたいなコメントは幾つも戴いたが、賛同し、共感する意見は皆無でした。信念をもって書いた私は、ひどく傷つき、その傷は今もって癒えていません。

私の言いたかったことがようやく理解されたと感じたのは、最近「東洋経済オンライン」に載った中島義道氏の

企業の謝罪会見は『汚い精神』にまみれている

組織の一員として“道徳”とどう向き合うか 

と言う記事に出会った時でした。私はこういう意見をこそ待っていたのです。手っ取り早く中島氏の言葉を拾って、綴り合わせてみましょう。

少年のころから「会社」でだけは働きたくないと思っていた。当時はサラリーマンとは「気楽な家業」というイメージが定着していた。私はその“のんべんだらり”とした村社会的雰囲気を恐れていたのでしょう。(中島氏は「会社」に勤めることに対する恐怖から、えんえん先延ばしして、やっと37歳で大学助手になった、と告白していますが、私も同じ理由で30歳まで中世哲学の研究室でごろごろしていました。)

あらゆるホンネが潰される「会社」 になぜ勤める?

馴れ合いと談合が支配し、個人は「和」の名の下に抹殺され、あらゆるホンネは潰され、あくまでもタテマエがまかり通り…そして、その「日本型村社会」の典型が「会社」であり、「官庁」である。

カントは、道徳的よさは「誠実性=真実性の原則」のみであることを強調する。生命も、愛も、家族も、健康も、精神的陶冶も、芸術も、まして富も、社会的地位も、名声も…これに比べたらクズのようなもの。

会社にとって「道徳的よさ」は無価値だ

 フーコーが発掘したとも言える古典ギリシャ時代の「パレーシア」という概念がわかりやすいでしょう。

 「パレーシア」とは、自分が不利になっても真実を語るか否かという場面で開かれる。たとえ自分がいかなる損害を蒙ろうとも、それが真実であるから尊敬する、そして語るということ。

 まさに、これが「パレーシア」なのですが、これこそ現代社会ではまったく省みられないこと、いや想像さえできないことではないでしょうか? しかも、豊洲問題のみならず、やはり「会社」や「役所」といった組織こそ、際立ってこの原理に従いにくいと言えましょう。

 組織が総がかりで欺瞞の道を歩もうとしているとき、そこに属する個人はどういう態度をとればいいのか、という観点から「道徳的よさ」のすべてを見直すことができるような気がします。

舛添氏より都議会や都庁職員の方がずっと「汚い」

 むしろ、あるきわめて巧妙な仕方で社会的には認められない不正を犯し、しかもそれをひた隠しにし、ついにそれが暴露されたときには、「心からお詫びし、さらに誠意をつくして改善に努める」という姿勢を示す「会社」、ずらっと男たちがテーブルの向こう側に並び頭を深々と下げる光景。われわれが飽きるほど見たあの光景こそが、問題なのです。

 この光景のうちに、現代の会社組織とカントが力説する「真実性=誠実性の原則」との相性の悪さが象徴されている。誰も真実それ自体を尊敬することはなく、もはやここで真実を認めないとさらに自分たちがソンになるからしぶしぶ認めるという「汚い精神」が露出している。隠し通せたとしたら、真実などどこ吹く風で、真顔でウソを突き通し、バレたと思った瞬間にコロっと態度を変える。すべてがソン・トクで動いているだけであり、しかも、「心から反省している」という言葉を吐いても、なんの良心の痛みも覚えないようなのです。

 カントはこれこそ「根本悪」と呼んだのですが、現代日本ではこうした欺瞞があまりにもはびこっているので、誰もが「どこかおかしい」と思いながらも、大いなる怒りさえ覚えなくなってしまっているのではないでしょうか。

 先に取り上げた「舛添問題」では、舛添要一前東京都知事の「あまりによくわかるウソ」と「目に余るセコさ」が目立ったので、世論の怒りが炎上したのですが、私はむしろ「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、それほど「汚い」とも「憎い」とも思いませんでした。むしろ、誰かはすぐわかるので言いませんが、小池百合子現都知事の「小池旋風」がまだ予測のつかないころは、彼女に無礼の限りを尽くしておきながら、敵にしたらヤバイと判断した途端、露骨に擦り寄る都議会議員の面々、広大な地下空間の決定に関与した者は必ずいるはずなのに、絶対に名乗りを上げなかった都庁職員の面々のほうがずっと「汚い」という印象を持ちました。

さて、皆さん。ここでもう一度私の二つのブログ「キリストと姦通の女」を読み直していただけないでしょうか?

私は、出口なし状態の舛添氏を弁明・擁護したくて書いたのではありませんでした。私が「キリストと姦通の女」の聖書のエピソードから疑問を抱き、苦言を呈したのは、連日連夜の番組で舛添氏を血祭りにあげ、世論を煽動したテレビ、マスコミに対して、また都議会の面々に対し、そして、物に憑かれたように舛添氏を火刑台にあげて囃し立て狂乱した大衆に対して、「貴方たちにそんなことをする資格がありますか?」と問うただけのことです。

それなのに、私の主張は「お前は馬鹿か?この期に及んでお前はまだ舛添を擁護するのか?」と言う見当違いの反論とともに、全く無視され不問に付されたのでした。その声は、私には恐ろしいファッショの熱に浮かされた重病人のうわごとのように聞こえました。

ここで聖書のエピソードをもう一度読んでください。

人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8章3節以下)

これを受けて私は書きました。

舛添氏に対するマスコミの質問は悪意の罠に満ちている。具体的に答えなければ、「説明責任を果たしていないから辞めろ」となる。「公私混同がありました、申し訳ありません」、と答えれば、「みずから非を認めたのだから責任を取って辞めろ」。「法に触れるようなことはしていません」、と言えば、「違法性の問題ではない、ここまで世間を騒がせたことに対して責任を取って辞めろ」、となる。何を言っても「辞めろ」言わなくても「辞めろ」の四面楚歌の罠。

では、イエスにならって舛添さんも「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、私に石を投げなさい。」と開き直ってみたらどうか?「ぬすっと猛々しい!」とばかりに、数分後に彼は血だらけの死体になって転がっていたでしょう。現代の日本人には2000年前のユダヤ人社会のようなモラルも抑制心もない。神を畏れることを知らぬ集団はなんと恐ろしいことか!

イエスの時代のユダヤ人と現代の日本人との反応の違いはどこから来るのでしょうか。それは、神が存在する社会神不在の社会の違いではないかと私は思います。

この話はまだ次回に続きます。ここで終わったのでは、私の腹の虫が収まらないからです。乞う、ご期待!

 バラ

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