:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇暗殺 (完)-改訂補足版

2011-06-06 17:30:46 | ★ 教皇暗殺事件

 

 

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教皇暗殺事件 (完)

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一枚の写真に端を発して、実に長く続いたこのテーマ。無理やりねじ伏せて、今回できっぱり終わりとします。今度は本当です。ご安心ください。

 

最終回は、かいつまんで最後に残った4つの問題点をざっと処理します。 

 

    あの写真は本物か?

    巨大な嘘と小さな嘘

    ファティマの予言は完結したか?

    では秋田の聖母のメッセージは?

 福島原発と関係があるのか、ないのか?

 

 私は今、ドイツはデュッセルドルフの空港ターミナルビルにつながったマリティムホテルの広々としたロビーのソファーに腰を下ろし、耳に優しいBGMを聞きながら、黒ビールを片手にこれを書きはじめている。

 実は、昨日の午後エアーベルリンの格安切符でロ―マに飛ぶはずだった。ところが、チェックインの手続きがなかなか進まない。やっと電話を置いたカウンターのお姉さん。済みません「ダブルブッキング」が発生しました。本機はあいにくすでに満席です。まことに残念ながらお乗せすることが出来ません。

被る不利益をひとしきりアピールするのを聴き終わった彼女は、迷惑料として100ユーロお支払いする。食事つきの5つ星ホテルも用意した。これで赦してくれないか、と条件交渉に出た。

現役の銀行マン時代なら、他社便を乗り継いででも今夜中にローマに飛ばせろと言っただろうが、今は貧しい優しい神父さん。これも格安切符に伴うリスクのうちか、とあっさりと妥協した。一日遅れにはなるが、結果的に100ユーロ以下でローマまで飛べて、おまけにタダ飯付き豪華ホテルでゆっくり休めるのもまんざら悪くない。

今朝はバスタブにたっぷり熱いお湯をはり、くつろいだ。何しろ、温泉好きが、ローマの神学校では何カ月もシャワーだけの生活に甘んじているのだから、まずは極楽だ。

 

しかし、何故デュッセルドルフへ?それは次のブログで。だから、今は内緒! どうぞ、お楽しみに。

 

   

ホテルのロビーから勤務に向かうクルー達              エアーベルリンの主翼のフィン    

 

とにかく、上の4つの点に短く答えて、教皇暗殺のテーマときっぱりお別れしなければならない。

 

   あの写真は本物か?

私は「断固偽物、合成写真」だとして譲らない。フォトショップのソフトなどをうまく使えば簡単に出来そうな気がするからだけではない。

 

自分のカトリックの信仰の中に、世の低俗な心霊写真の次元を持ち込みたくないという思いも確かにある。しかし、何よりも、私が日ごろお付き合い申し上げている神様やマリア様がそのような悪趣味のお方たちでないということをよく知っているからだ。

 

   巨大な嘘と小さな嘘

世の中には我々貧しい庶民を虫けらぐらいにしか思っていない一握りの人間たちがいる。私は国際金融マン時代に彼らと非常に近い距離にいた。そいつらは時として-いやしょっちゅう-とんでもない巨悪を行い、平気で大ウソをつく。

 たとえば、ドイツでは、市電やバスや地下鉄には日本のような自動改札機がない。ただ乗りしようと思えばやり放題だ。ところが、たまに抜き打ち検札員が突然乗り込んでくる。現行犯は、過去数週間、いや、数カ月の得した分を全部吐き出すほどの罰金を取られたうえ、公衆の面前でこっぴどく辱めを受ける。だから身に沁みて、もうやめようと思うのである。

ところが、巨悪がやらかす犯罪行為は、電車のただ乗りのようなかわいらしいものではない。しかも、でかいほどやり得の上、お咎めが全くない。人一人殺せば、時効まで怯えて逃げ回らねばならないし、捕まれば死刑か無期が待っている。ところが、何千人、何万人を殺せば、英雄として讃えられる。戦争が終わっても、裁かれるのは負けた方の指導者だけで、勝った方は同じようなこと、いや、もっとひどいことをやらかしても決して裁かれることがない。だから戦争はやる以上は絶対に勝たなければならないのだ。

 ケネディーを暗殺して歴史の流れを変え、自分は信じられないほどの利益を手にしながら、オズワルド独りに罪を着せて大ウソをついて口を拭っている巨悪がいた。

最新の電子誘導技術と全米の航空管制システムを巻き込んで歴史に残る一大惨劇を演出しておきながら、それを一握りのアラブゲリラのハイジャック事件と言う大ウソで幕引きを謀り、おまけに反国際テロの戦いという大義名分を国民から白紙委任で取り付けて、イラク、アフガニスタンへと進攻した巨悪に対しても、不思議なことに表立って疑問の声が上がらないのはなぜか。

 

教皇が暗殺され、奇跡的に一命を取り留めたことが世界の記憶に残らず、その背景も深く追究されずにあっさりと歴史的過去に葬られようとしている。

 


世界の大衆、庶民を私は決して馬鹿だとは思わない。彼らは、巨悪の存在を動物的嗅覚でうすうす感じとっている。それが、しょっちゅうとんでもない見え透いた大嘘をつくことも知らないわけではない。福島原発事故に関する東電や政府の嘘も、可愛いいながらその系列に属する。しかし、庶民、大衆はなぜかその巨悪の吐く嘘を甘んじて受け入れ、進んでそれを信じるそぶりをして見せる。嘘に騙されそれに酔うことに心地よさと安ど感を得ているようにさえ思われる。

 それは、自分たちも小さいは小さいなりに薄汚れていて、叩けばホコリがいっぱい出ることを知っているからだ。巨悪をまかり通らせてやろう、そのかわり自分の小悪もお目こぼし願いたい。あれに比べれば自分なんて善良なものさ、と言って自分を慰め居直るための必要悪なのだろうか。

例外的に、真実を求め、正義を要求する変わり者が現れると、みんな「お願いだから面倒を起こさないでくれ、騒ぎを始めないでくれ。お前のような存在はかえって迷惑なんだよな」と言って押さえにかかる。

それでも頑張る馬鹿がいると、民衆は彼を権力者に売り渡し排除する方向に走る。少なくとも、私は知りません、関係ありませんという態度をとる。一方、大真面目に立ち上がった正義漢も、民衆はついてこない、とても勝ち目はないと悟ると、いつの間にか大人しくなる。やり過ぎて消され犬死した先例からも学んで賢くもなるだろう。

人類の歴史の中に、たった一人、とんでもない大馬鹿がいた。2000年前のパレスチナに生きた歴史上の人物、ナザレのイエスがその人だ。彼は、当時の同胞ユダヤ人の偽善と諸悪を向こうに回しただけではない。地中海世界の覇者であったローマ帝国の政治的、社会的、道徳的悪を全部向こうに回しただけでもない。誇大妄想もそこまで行くかとあきれるほど、人類の最初の人間から、歴史の終焉を目撃するであろう最後の人間たちに至るまで、生きとし生ける全ての個人と集団の外面的、内面的一切の悪を根源的に正し、罪を償い、神と和解させ、罪の結果歴史に入った死を打ち倒し、復活と永遠の命を回復しようという狂気の野心に燃えて、一人立ち上がった。さっそうと舞台に登場し、救世主の魅力で民衆を引きつけ、この世の悪の根源に毅然と立ち向かった。しかし、その過激さに肉親は彼を狂人と思い、世俗的見返りを期待して追随した弟子たちも、そのあまりの純粋さの前に引けてしまって、最後には皆彼から離反した。孤立し、結局は十字架の上で想像を絶する苦しみの中で哀れな最後を遂げ、全ては失敗に終わった。

彼を信じて彼の真似をする者は、みな彼と同じ運命を辿る。復活を永遠の喜びを信じることの出来た人は幸いだ。

【補足】

私はこのブログの主たるターゲットとして、キリスト教徒でない人、特にカトリック信者でない人に、自分の信仰の世界がどれぐらい共感を呼び得るかということを試すこと、を置いている。だから、こういう書き方になる。しかし、現実には、クリスチャンの方々も結構見ておられることを感じる。その方々は、上のような突き放した終わり方では物足りないというか、不満を持たれているようだ。カトリックの神父ともあろうものが・・・と言う非難も招きかねないことを承知している。そこで、多少それを和らげるために、1-2 付言したい。

第一は、キリストは確かに失敗者としての姿を持って生涯をおえた。釈迦牟尼やマホメッド(ムハンマド)のように、一大宗教の教祖、開祖として、弟子たちに囲まれて大往生を遂げることは無かった。それなのに、一旦は散り散りになった弟子たちが、キリストは復活した、死に打ち勝った、永遠の命が我々にも与えられたと言い出して、激しい迫害にも沢山の殉教者の血を流しながら耐え、貧しい人たちを中心に広まり、4世紀初めにはローマ帝国の事実上の国教の地位に着き、以来今日まで綿々と続いている。その人口も今日現在:

キリスト教全体  19.0億

回教        10.3億

ヒンズー教     7.6億

仏教         3.4億

と言う順番だ。敗者の宗教のパラドックスを私はそこに見る。

第二は、キリスト教を信じることのなかった人も、キリスト教の説く永遠の救いに与る豊かなチャンスがある、ということ。

こう書けば、キリスト者も不満をひっこめてくれるだろうか。だからどうした、と言う問いはすぐ出るだろうが・・・

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地中から掘り出され6年ぶりに地上の空気に触れた

福者ヨハネ・パウロ2世教皇の棺

 

    

     ファティマのマリア像の冠にはめ込まれた

     教皇を撃った銃弾

    ファティマの予言は完結したか?

教皇ヨハネ・パウロ2世は、ファティマの予言通り、凶弾に斃れ、しかし奇跡的に助かった。バチカンは、これをもってファティマの予言は完結し、過去のものとなったという「公式見解」で幕引きをしたがっているように見受けられる。

バチカンの中の巨悪と戦おうとしたヨハネ・パウロ1世は即位33日目に謎に満ちた死を遂げた。しかし暗殺の噂が消えない。ヨハネ・パウロ2世は予言通り銃弾を受けた。彼の歴史的な役割を思えば、KGBの犯行説も頷ける。

では、ヨハネ・パウロ2世ほどの歴史的インパクトをもった教皇が再び現れたとしたらどうだろう。私は、歴史は繰り返すと思う。

教皇が、巨悪に対して、信仰と道徳の立場から一歩も引かぬ姿勢を貫いたら、同じ運命を辿らないと誰が保証出来るだろうか。

反対もまた真実かもしれない。第二次世界大戦中教皇であったピオ12世のことを、ヒットラーのナチスに対して対応が十分厳しく無かったと言って非難する人がいる。600万人のユダヤ人の虐殺や、広島・長崎の原爆を回避する鍵を彼は確かに握っていたはずだった。かれは殺されなかった。

カトリックの教会の内部にいるいわゆる進歩派の中には、避妊や少子化に対すて教会の従来の厳しい妥協のない教えを和らげたり、司祭の妻帯や女性司祭に対して道を開こうとしたり、あらゆる世俗化の現象に水面下で妥協を図ろうとするような動きがある。それに対して、保守頑迷のレッテルをはられることを恐れず、毅然として立ち向かう教皇に対しては、巨悪による排除の理論が教会の内部からも働く可能性は常にある。教皇ヨハネ・パウロ1世の無念の死はその例ではなかったのか。

私は、現教皇ベネディクト16世が公衆の面前に身をさらす時にふと見せる、固い身のこなしや、何処となく怯えたような彼の目付き(少なくとも私にはそう見える)を見る時、彼自身もいつやられるかわからないという思いを抱いているのではないかと余計な想像をしてしまう。彼の身辺のセキュリティーがなりふり構わず厳重であることと合わせて、そう思うのである。


まだ気になることがある。、ヨハネ・パウロ2世に対してはアリが一人で2発のピストルの弾を発射したが、ファティマの第3の予言の終わりの部分をよく読むと、「一団の兵士が」「何発もの銃弾を」と言う言葉がある。これはまだ実現していないのではないか。同じような悲劇がこれからもまだあるという意味ではないか。

 

    では秋田の聖母のメッセージは?

 福島原発と関係があるのか、ないのか?

  私がまだドイツの銀行で働いていた頃、秋田市郊外の湯沢台で、身の丈せいぜい60センチほどの白木のマリア像が100回あまり涙を流したという出来事があった。私も、日本に帰国した折に、予告なしに雪道を訪ねて行ったことがある。修道院に至る最後の急な坂でタクシーがスリップして、進まなくなり、20~30分時間をロスして辿りつくと、2-3人のシスターと数人の敬虔な婦人たちが祈っていた。異口同音にたった今までマリア像は泣いておられました。ほら見てくださいという。

  見ると、顎から胸、足もとまで濡れた跡があり、水を吸った像の木肌が変色していた。この素朴な人たちが、不意の訪問者の前で口裏を合わせて狂言をしているとは思えなかった。その意味で、私もその涙の半目撃証人の一人だと言っていいだろう。

  大切なのは、不思議な出来事そのものではない。その出来ごとに伴って与えられた聖母マリアからのメッセージである。今ローマに居て詳しい資料は手元にないが、要は、耳が聞こえなくて重度の障害者手帳を持っていたシスターSに「世界がこのまま罪深い生活を続けるなら、災いが来る。そうならないように、悔い改めて回心の業に励みなさい。」と言う趣旨のメッセージであったと記憶する。これは、特に戦後の日本のなりふり構わぬ拝金主義、享楽主義に向けられた一種の警告ではなかっただろうか。日本のカトリック教会の中枢部は、一度は一連の不思議な出来事とメッセージを、シスターS個人の「超能力」によるもとして公式に否定した。(超能力なんてカトリックの神学概念にあっただろうか?)自ら涙の目撃者であり、その結論に満足しなかった地元の司教様が、自分の良心かけて独自に再調査し、教会の信仰と道徳に反しないと結論付けて今日に至っている。

  私は、当時そのようなメッセージに大した注意を払っていなかった。ただ、そのメッセージを受けたシスターSが、重度の障害にも関わらず、底抜けに明るい健康な精神の持ち主であったことと、何度かの訪問を通して、私の心病んだ妹に対して常に優しく、妹も非常になついていたことを懐かしく思い出す。彼女は、勘のいい人で、人の唇を読むことに長けていたから、一対一で顔を見合わせている時は、普通の人のように会話が出来る。しかし、後ろから声をかけても全く気付かない。

  そんな彼女が、マリア様からあらかじめ告げられていた通り、ある日ミサの中で聴力を回復した。祭壇で鳴らされた鈴の音を聞いたのをきっかけに、奇跡的に治った。彼女は、その後正直にも、感謝しながら保健所に長年所持していた障害者手帳を返しに行った。私は、以前には全く不可能だったこと、つまり遠隔の地にあって彼女と電話で話すことを、その後何度もしたのだった。

  福島の原発事故が、マリア様の予告した「災い」と関連付けて考えることは不自然だろうか。不謹慎だろうか。私たちは真剣に悔い改め、回心しなければならないのではないだろうか。

 

 

本当にこのテーマはこれでお終い!

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★ 教皇暗殺事件-5(完結編)その-5

2011-05-30 17:47:56 | ★ 教皇暗殺事件

「ガリラヤの風」については、あと2回分ほどの材料があるのだが、ひとまず区切りをつけて、教皇の話に戻りたい。


教皇暗殺事件-5(完結編)その-5 

 

「あなたはなぜ死ななかったのか?」 

 

教皇が訪れたとき、獄中の狙撃犯メハメット・アリ・アグサが口にした最初の言葉はこれだった。

アリは、プロの仕事人として、自分の撃った相手が確実に死ぬことを信じて疑わなかった。彼は鍛え抜かれた殺人マシーンで、これまで一度も仕事に失敗したことは無かった。今回も全く手落ちは無かった。自分が狙った相手が生き延びる可能性は自然的に考えて、絶対にゼロのはずだった。

1983年12月27日、牢獄に彼を見舞い、人間として理解し合い、自分の赦しを彼が受け入れるかもしれない、という教皇の期待を、この最初の質問が完全に打ち砕いた。

和解などキリスト教を信じない彼の眼中になかった。アリの思考の全てを支配し、アリを悩ませ続けてきた唯一の点は、なぜ絶対に不可能なはずのこと、つまり、相手が死を免れて生き延びること、が実際に起こり得たのかと言う謎であった。

教皇はもちろんキリスト教が説く全能の父なる神の存在を信じているが、回教徒のアリもアラーの神を信じている。両者とも超自然的な意思や力の存在を信じて疑わない人種に属する。

その点では、このブログの読者の大部分のような神を信じない人が「不思議」な出来事を前にしたときに、自然現象の範囲内で「偶然」とか「確率」とかいう言葉を駆使して何とか説明し切ろうとするような、そのような無駄な努力を二人ともしない。

自然には起こり得ないはずの「不思議な」出来事を前にして、教皇もアリも、それぞれの世界観、信仰の次元でではあるが、「超自然的な」意思と力の介入があったことをすんなり認めるのである。

教皇の場合は、極めて自然にファティマの予言の時に羊飼いの子供たちに現れたマリア様が介入したと思うのだが、アリの場合はそれとは全く違う力の介入を探したに違いない。

回教の教祖マホメッドにファティマと言う名前の娘がいる。しかし、今回、必殺の銃弾を無力化したのは、マホメッドの娘のファティマではあり得ない。キリスト教の世界には、同じファティマの名で呼ばれ、マホメッドの娘よりも強力な霊能を発揮するもうひとりの「女神=ファティマ」がいるとアリは考えざるを得なかったのだろう。超自然的な力を発揮するファティマという名のキリスト教の「女神」の奇跡的介入によって、彼の完璧な仕事は失敗に終わった。そして、彼はその「力」を前にして恐怖に怯えた。

何故アラーの神より、キリスト教の女神の方が強かったのか?これはアリの頭には何時までも答えの出ない謎のまま残るだろう。

結果として、彼は自分を雇った依頼人から受けた任務の遂行に失敗した。

教皇の側からすれば、ポルトガルのファティマという地名で呼ばれる寒村の無学な牧童に現れたキリストの母マリアに護られ、奇跡的に死を免れたた事は疑う余地のない事実だったのだが・・・。

ではアリ・アグサを雇ったのは誰か?一体何のために?

 

この問いに答えを出さなければ、一枚の写真に発したこの長い考察は終わらない。



J.F. ケネディー を撃ったのはオズワルドではない。あるいはオズワルド独りではない。ケネディーを殺したのは巨大な闇の組織の意思であったことは、今や世界の常識だろう。オズワルドを至近距離から射殺したジャック・ルビーも必殺の一発を彼の腹部を狙って命中させている。アリ・アグサと同じプロの仕業だとわかる。横隔膜から下の腹部の内臓を複雑に損傷すると人間の命は助からない。日本の切腹が確かに死を意図したものであると解されるのもそのためだろう。しかも、ご丁寧なことに、オズワルドを撃ったルビーもその後まもなく不可解な病死を遂げている。もはや死人に口無しである。

そして、いわゆる「ウオーレン報告書」の「公式見解」によれば、ケネディー暗殺はあくまでオズワルドの単独犯となっている。

今日では、ユーチューブで誰でも何時でも何度でも見られるのだが、ケネディーの頭部を砕いた銃弾は顔の前から入って、脳味噌は後頭部からオープンカーの後部座席の後ろに飛び散った。ジャックリーヌが車の後ろに這い登ってそれを手でかき集める姿は痛ましい。

 


オズワルドが陣取った教科書ビルの窓からは、遠ざかっていくケネディーの後頭部がライフルのスコープに見えていたはずだ。彼の発した銃弾は一旦車をやり過ごしてUターンしてケネディーの顔面を前から直撃したとでも言うつもりだろうか。

ウオーレン報告は半世紀もしないうちに、世界中の人が自由にその瞬間の映像動画を見て自分で判断できる時代が来るとは夢にも予測せず、あのようなでたらめを書いたとしか思えない。


9.11 の場合だっておかしい。アメリカ政府の「公式見解」の通り、プロペラ機の操縦を何十時間か習っただけのアラブの「神風」ゲリラたちが、乗っ取ったばかりの最新式のジェット旅客機操縦席の計器を初めて前にして、それを手動で操縦してツインタワーに確実に突っ込むことは、常識的には不可能に近いというベテランパイロットの証言がある。私もセスナの操縦かんを握ったことがあるが、あの数倍のスピードでワールドトレードセンタービルの真ん中に、左に逸れれば右にかじを切り、切りすぎたら戻し、高度が下がれば機首を引き上げ、忙しく右往左往しながら、結果的に運良くぴったりのところで突っ込むのは、近眼が眼鏡なしに針の耳に糸を通そうとするようなものではないか。

 


しかし、空軍基地の滑走路に高速グライダーのようなスペースシャトルを無事帰還させ(宇宙飛行士はベテランのパイロットとは限らない)、霧の空港に大型旅客機を安全に着陸させる電子誘導装置を使えば、失敗なく正確に衝突されることは容易に出来ただろう。しかし、アフガンの山岳奇襲には抜群にたけていても、そのような大がかりな最新鋭の電子的仕掛けをニューヨークのマンハッタンのど真ん中に用意することは、オサマ・ビン・ラーディン一派には絶対に不可能なことだ。実際には、その背後に全く別個の巨悪の意思と巨大な最新鋭のシステムが存在したことを我々が知る日絶対に来ないとは限らない。

ところで、不思議なことに、教皇暗殺(未遂)事件に関しては、それを狂信者アリ・アグサの個人的犯行であるという公式見解で事件の幕引きを図ろうとする「当局」のキャンペーンそのものが存在しない。変ではないか?

いや、変ではない。今回に限って言えば、誰かが「公式見解」を発表したら、その主体自体が疑われることが目に見えているからではないか。だから、関係者総すくみで、組織の「犯行声明」も出なければ、「単独犯行」との決めつけも何処からも敢えて出て来ないのだ。

何はともあれ、あれをアリ・アグサが一人で思いついて、一人でやったというようなことは、客観的に考えて、全くあり得ない。

だとすれば、一体誰が世界の平和を説く宗教家である教皇を殺そうと考えるだろうか。

教皇の生涯にわたる秘書のスタニスラオ枢機卿の回想録によれば、結論から言うと、それは「KGB」以外にあり得ない、と書かれている。以下、同回想録の記述を抄訳する。

アリ・アグサは完ぺきなキラーだった。彼は教皇が危険で面倒な存在だと判断した者たちによって差し向けられた。ヨハネ・パウロ2世を恐れた者によって送りこまれたのだ。ポーランド人が教皇に選ばれた事が発表された瞬間から、ギクリとし、恐怖の戦慄を覚えた者たちによって・・・。

枢機卿カルロ・ヴォイティワが教皇に選ばれた事実は、東欧各国の首都で、互いに相反する混乱を呼び醒ましたことは間違いない。3週間後には、共産主義諸国において生じうる影響に関する最初の分析が出来ていたと思われる。1年を経過すると、ソ連共産党の理論家ススロフの署名による、「ポーランド人教皇の国際的影響に対抗するための具体的対策」を記した「極秘文書」が、ゴルバチョフを含む中央委員会書記局の全員の承認を得ている。

その後で、ブレジネフ書記長が個人的に最後まで阻止しようと努力して成功しなかったヨハネ・パウロ2世の最初のポーランド訪問が実現した。その1年後に共産主義帝国における最初の労働者による大革命とも言うべき「連帯労組」がポーランドに誕生した。すでに、1981年には、「連帯」は単にその存在自体によってマルクス主義イデオロギーに一連の致命的打撃を与え続けたのみならず、その中のより過激なグループは、強烈な反ソビエト的姿勢を示した。

そこには、共産主義の指導者たちの恐れを増幅するのに十分すぎるほどの理由があった。従って、秘密諜報機関の内部では(少なくともそうした機関の狂信的な下部要員の間では)、必要とあれば人を雇ってでもポーランド人教皇を抹殺するという決定に到達することは十分考えられることであった。

このようなシナリオを描くには、関連する全ての要素を考慮にいれる必要がある。クレムリンに嫌われた教皇の選出、彼の初めての祖国訪問、「連帯労組」の爆発。その他にも、ちょうどこのとき、ポーランドの教会は、すでに生涯を閉じようとしていた偉大な最長老のヴィシンスキー枢機卿を失おうとしていたことを忘れてはいけない。これら全ては、KGBの犯行に結び付かないだろうか?

さらに、もしあの5月13日にブローニング・カリバー9から発射された2発の銃弾が「標的」を倒していたら何が起こりえたか、と言うことも考えてみなければならない。

 


 

もし聖母マリアの手が弾を逸らさなかったら、世界の未来はどうなっていたであろうか。ポーランド人の教皇の精神的後ろ盾を失ったら、「連帯労組」の革命路線が生きながらえることは殆ど不可能だっただろう。「連帯」は血なまぐさい弾圧の後に完全に制圧されて行ったに違いない。その結果、中東ヨーロッパの歴史は恐らく全く違う方向に展開しただろう。

教皇が生きながらえたのは運命(信仰者はそれを奇跡的な「神の摂理」と呼ぶだろうが)だったのだ。だから、アリ・アグサは自分が殺すために撃った相手に「いったいなぜあなたは死ななかったのか」と問わなければならなかったのだ。

アリは教皇に赦しを願わなかった。それより先に、ヨハネ・パウロ2世は一通の手紙を書いていた。その中に「親愛なる兄弟よ、もしこの世で互いに赦しあわなければ、我々はどうして神の前に立つことが出来ようか?」と言うくだりがある。しかし、この手紙は結局彼に送られることはなかった。アリ・アグサがそれを自分に都合よく利用する恐れがあったからだ。教皇はむしろ直接彼に会う道を選んだ。自分の赦しの意思を伝え、自分を撃ったその手を握り締めるために。

しかし、彼は全く教皇の思いに応えなかった。彼の興味を引いた唯一のことは、ファティマの啓示のことだった。誰が何故この男を殺すことを妨げたのか、そのことだけに興味があった。赦しを求めることなど、全く関心の外だった。

アリ・アグサが1981年5月13日ファティマの聖母の祝日にヨハネ・パウロ2世野暗殺に成功し、ポーランド人の教皇が死んでいたら、連帯労組は血なまぐさい弾圧のもとにあえなく壊滅していただろう。ポーランドの民主化が失敗に終わっていたら、ベルリンの壁は崩壊しなかっただろう。ソビエト連邦と中・東欧社会主義諸国も生きながらえ、冷戦はさらに継続しただろう。核の使用も除外されない東西間の戦争が起こり得たかも知れない。多くの人々が再び戦争の惨禍で殺され、或いは悲惨な苦しみを味わうことになったかもしれなかったのだ。

この歴史を分ける重大な事件において、決定的な役割を演じたのは何か。それは、神を信じない日本のインテリが頼りにする「確率」の問題や「偶然」の仕業では決して説明がつかない、自然的には絶対に起こり得ないはずの不思議な出来事だった。繰り返して言うが、超自然的な意思と力の介入によると確信する点において、ヨハネ・パウロ2世もアリ・アグサ自身も期せずして意見の一致をみるのであるが、違いは、それを教皇は「聖母マリアの手」の働きと理解し、アリ・アグサは恐ろしいキリスト教の「ファティマの女神」の力と理解した点にある。

神は、一般論としては、人類の歴史を人間の自由な選択に委ねられた。しかし、神は人類の歴史の展開について、全く無関心に放任されているわけではない。

人間の自由意思の邪悪な濫用が、人類に過大な悲惨を呼び寄せ、あまりにも多くの無垢な魂が苦しみを負わされることに神は耐えられない。神は、よほどの場合には、人間の歴史のコースに対して超自然的、直接的介入を行い、それを矯正する自由を常に留保している。

一連の歴史的出来事に先立って、ファティマの寒村の無学な牧童達にマリア様が現れ、歴史の未来について予言を行い、その予言の通りにその後に歴史が導かれていったのがその具体的な実例である。

ファティマの第3の秘密では、教皇が銃弾で斃されるとあった。そして、予言通り事件が起きた。しかし、そのぎりぎりのところで、ファティマの聖母は教皇を死から奇跡的に救い、それを通して歴所を明るい方向に展開されたと私は考える。そして、10億の信者を擁するカトリック教会は考える。

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★ 教皇暗殺事件-5(完結編)その-3

2011-03-18 19:10:43 | ★ 教皇暗殺事件

ローマの新聞に出た福島の原子力発電所第3号基の爆発の瞬間の写真。

わたしは同様の映像をNHKのインターネットニュース速報でも、日本の新聞の記事の中でも

見なかった。これを見て私はショックを受けた。最初に頭に浮かんだのはニューヨークの9.11の

世界貿易センタービルの姿、ついで広島の原爆のきのこ雲だった。

これがただの水素爆発?

 

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教皇暗殺事件-5(完結編)その-3

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突然の大地震、続く大津波、さらに、まるでとどめを刺すかのような深刻な原発事故・・・。海外にいながら、日々のルーティーンを上の空でこなす他は何も手につかず、ひたすらインターネット版NHKニュースやイタリアの新聞に釘付けになって、茫然自失していました。自分のブログが実にチンケなものに見えて、書く手が萎えていました。今ごろになって、ようやくのろのろとキーボードに向かう次第です。さて: 

ファティマにおいて1917年7月17日に明らかにされた秘密の第3部は、教皇庁教理省の「最終公文書」に記載されている1944年1月3日付けの「ルチアの手記」によれば次の通りでした: 

「既に述べたあの二つの啓示のあと、わたしたちは、マリアの左側の少し高い所に、火の剣を左手に持った一人の天使を見ました。この剣は、まるで世界を火で焼き尽くさんばかりに、火花を散らして光り輝いていました。天使は、右手で地を指しながら大声で叫びました。『悔い改め、悔い改め、悔い改め』。それからわたしたちには、はかりしれない光-それは神です-の中に、『なにか鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って見えるような感じで』白い衣をまとった一人の司教が見えました。『それは教皇だという感じでした。』そのほかに幾人もの司教と司祭、修道士と修道女が、険しい山を登っていました。その頂上には、粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇は、そこに到達なさる前に、半ば廃墟と化した大きな町を、苦痛と悲しみにあえぎながら震える足取りでお通りになり、通りすがりに出会う死者の魂のために祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到達し、大十字架のもとにひざまづいてひれ伏されたとき、一団の兵士たちによって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました。同様に、他の司教、司祭、修道士、修道女、さらにさまざまな地位や立場にある多くの信徒たちが、次々に殺されていきました。 

 これが1917年5月13日に10歳のルチアに聖母マリアから託されたメッセージの第三部の核心部分です。 

第二のメッセージに第一次大戦の終結が予言されていましたが、予言通り、その翌年1918年に終結しました。 

しかし、その予言の中では、「もう一つのもっとひどい戦争」、つまり、第二次世界大戦の勃発と、その予兆として不思議な光の現象に言及されていました。そして、予言の通り、「1938年1月26日夜9-11時にかけ、西ヨーロッパ全域において異常なオーロラに似た色光が輝きました。これは説明のつかない現象として、当時のヨーロッパ諸国の新聞にも大きく報じられた」と言う記録もあります。 

その翌年の1939年に、ヒトラーのポーランド侵攻とともに第二次世界大戦は始まり、世界中を悲惨な戦乱に巻き込んだ後、1945年に広島と長崎の二発の原爆の悲劇でようやく幕を閉じました。 

さらに、第二の予言はロシアの問題に及んでいます。

ファティマの予言があったのと同じ年、ロシアでは2月革命と10月革命が起こっていましたが、1922年の内戦終結とともに、ソビエト社会主義共和国連邦が樹立されました。

1945年に第二次世界大戦が終わるやいなや、戦後処理を巡って東西が対立し、いわゆる「冷戦」(武力衝突を伴わない戦争)に突入した。それは核軍拡競争と大陸間弾道ミサイルの開発、核戦争のための宇宙開発にまで発展しました。冷戦は1989年のマルタ島におけるブッシュとゴルバチョフによる終結宣言までつづきます。

ウイキぺディアの記述によれば、「教皇ヨハネ・パウロ2世は、2005年4に発表された遺言において核戦争なしに冷戦が終結したことを神の摂理として感謝している。」また、「2006年1月に機密解除されたポーランド政府の秘密文書によると、1960年代から1980年代にかけて、ソ連とその同盟国は西ドイツやオランダを大量の核兵器で攻撃する態勢にあった。犠牲者は、ポーランドだけでも最大200万人と試算されていた」と言う話もあります。

ファティマの第二の予言の末尾には、「もし、わたしのこの要請を受け入れるなら、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。さもなければ、ロシアは、戦争と教会への迫害を推し進めながら、自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ、多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は、ロシアを私に奉献し、ロシアは回心し、世界に平和の時が与えられるでしょう」。と言うマリア様の言葉がありました。 

 

大規模な核戦争が回避され、冷戦が無事終結した陰には、教皇ヨハネ・パウロ2世の熱い祈りと、無数の隠れた小さい魂たちの祈りと犠牲があったと考えるべきでしょう。また、それと同時に、ポーランド出身の教皇の卓越した人柄と手腕に負うところが大きかったと思われます。 

ここまで、前置きが実に長くなってしまいました。いよいよ問題の核心に入ります。それは、ファティマの第三の予言と教皇暗殺未遂事件との関係をどう理解するべきかと言う点です。 

教皇狙撃事件の9年後の2000年4月19日に、教皇ヨハネ・パウロ2世は第3の秘密に関して、その秘密を書き残したシスター・ルチアに幾つかの質問をするために、ベルトーネ大司教(現在の国務長官ベルトーネ枢機卿)を送りました。 

「第三部の中心人物は教皇ですか」と言う質問に対して、シスター・ルチアは「はい」と答えました。ルチアは続いて、「教皇の名前は分かりませんでした。マリアは、教皇の名前をおっしゃいませんでした。ベネディクト15世カ、ピオ12世か、パウロ6世か、ヨハネ・パウロ2世か、わたしたちには分かりませんでした。しかし、自ら非常に苦しみ、わたしたちをも苦しみに誘うのは教皇でした」と説明しています。また、こうも付け加えました。「わたしは、見たことを書いたまでです。解釈するのはわたしではなく教皇です。」と。 

(つづく) 

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★ 教皇暗殺事件-5 (完結編)その-4

2011-03-18 19:08:56 | ★ 教皇暗殺事件

(つづき) 

その教皇たち。ルチアがマリアのお告げを受けた時既に教皇であったベネディクト15世から、ピオ11世、ピオ12世、ヨハネス23世までは、教皇が生命を狙われたというような記録はありません。 

第3の秘密の封印が解かれた1960年後に教皇になったパウロ6世は、その秘密を読んで「内容の重大さにショックを受けて卒倒し、『これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持って行く』と言って、発表を差し止めてしまった」と言うような話がありますが、もしそうだとすれば、パウロ6世教皇は、自分が暗殺の犠牲者だと早飲込みして、自分の殺される時にこの秘密を一緒に葬ろうと考えたとも受け止められます。しかし、当の教皇は81歳まで在位して何事もなく亡くなり、第3の予言はそのままバチカンの奥に保管されたまま残りました。 

その次に教皇に選ばれたのが、ヨハネ・パウロ1世でした。彼は教皇在位33日目に突然不審の死を遂げます。第二バチカン公会議の決議事項の実施やマネーロンダリングの温床と目されたいわゆる「バチカン銀行」の改革などで、大幅な人事異動を発表する前夜に死亡したということで、司法解剖もせずそそくさと葬ったリして、謀殺説や証拠隠滅の疑いが囁かれています。これは、ファティマの第3の予言と無関係だったでしょうか。 

無念の死を遂げたヨハネ・パウロ1世の遺志を継ぐかのように、ヨハネ・パウロ2世は、東欧の民主化、反共のために働くとともに、回勅で妊娠中絶や安楽死を「死の文化」と呼び、それに対して「生命の文化」を提唱するなど、世俗化した現代社会に対して厳しく警鐘を鳴らしました。彼は、2005年2月23日に著作「記憶とアイデンティティー」においてファティマのメッセージの全容に関する解釈を開示し、「1981年5月13日の狙撃事件の背後には、20世紀に生まれた暴力的なイデオロギーに属するしっかりした組織があった」と述べていますが、具体的には、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャを使ったKGBによる組織的犯行だったとされています。

教皇庁の「最終公文書」によれば、当時の国務省長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿はその声明のなかで、教皇の暗殺未遂事件とファティマの予言との関係について、「ファティマの『秘密』の第3部に関わると思われるいろいろな出来事は、もはや過去のことに思える」と語っています。

果たしてそうなのでしょうか。

 ルチアの設けた1960年までと言う封印期限が過ぎて初めて読んだパウロ6世は、予言通り死ぬ運命にある教皇は自分だと思い込んだふしがあるが、実際には何も起きませんでした。

謀殺された可能性が高いヨハネ・パウロ1世は、ルチアの予言にあるように銃弾によるものではなく、毒殺の可能性が指摘されています。しかし、「白い衣を着た司教」(教皇)が殺されたのだとしたら、ファチマの予言と無関係とは言えないのではないでしょうか。

2発の銃弾を受けて致死的重傷を負ったヨハネ・パウロ2世は、奇跡的に一命を取り留めました。狙撃事件のあと、ジェメリ病院に入院中だった教皇自身が、「瀕死の教皇が死の際に」とどまるよう、「銃弾の軌道を導く母の手」のあったことを認めました。一命を取り留めたということは、別の見方をすれば「未遂」に終わったということでもあります。未遂なら、まだこれからもあるかも知れないでしょう。現に、あまり知られていないようですが、狙撃事件から満一年目の1982年5月、ファティマの記念日にその地を訪れたヨハネ・パウロ2世は、再び刃物で襲われて怪我を負っています。

前述の国務省長官ソダーノ枢機卿の表現を注意して読むと、「1989年に相次いで起きた事件(注:ペルリンの壁崩壊など)は、ソビエト連邦においても東欧諸国においても、無神論を標榜していた共産主義体制の崩壊をもたらしました。このためにも教皇は、心の底から聖なる乙女マリアに感謝しておられます。しかし、世界の他の地域における、苦しみの重荷を負う教会とキリスト者に対する攻撃は、残念ながらまだ終わっていません。ファティマの『秘密』の第三部に関わると思われるいろいろな出来事は、最早過去のことに思えるとしても、聖母マリアから20世紀の初めに呼びかけられた回心と償いへの招きは、今日もなお時代性と緊急性を残しています。」と記されています。

 と言うことは、状況はまだ変わっていない、第3に秘密は今も有効であるということではないでしょうか。ソダーノ枢機卿は「教皇たちに導かれた一つの終わりのない『十字架の道』です」と言う表現を使っていますが、それも同じ解釈に道を開くものではないのでしょうか。聖ペトロ広場でのヨハネ・パウロ2世の狙撃事件は、背後に大組織があったことは知られていますが、撃ったのは一人のテロリストで、発射された銃弾は2発だけでしたが、ルチアの「秘密」によれば、教皇は「一団の兵士たちによって殺され」、「彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました」とある。これはあくまで象徴的なヴィジョンであって、殺されるのがどの教皇か特定されていないように、犯人は一人か、複数か、ピストルかライフルか、また2発だけか多数の銃弾か、ナイフか矢か・・・、はたまた毒殺か、などの詳細も示されていないのかもしれません。既に二人の教皇が標的になり、一人は実際に殺された、とすれば、3人目は絶対に無いと、誰が断言し切れるでしょうか。

 わたしは、この2年余りの間ローマにいて、何度も教皇ベネディクト16世の姿を間近に見る機会に恵まれてきましたが、ブログにそのことを報告する時は、ほとんど毎回、教皇の警備が目立って厳しくなっていることを指摘し続けてきました。それぞれの教皇の個人的んキャラクターの違いによる面もあるでしょうが、ヨハネ・パウロ2世の場合は、全く無防備と言ってもいいほど群衆に身をさらし、人々に積極的に近づき、セキュリティーの人間がめざわりになることもなかったのに、今の教皇の場合は、もうなりふり構わず安全第一主義の警備体制をひいています。まず、謁見の会場のみならず、聖ペトロ大聖堂に入るためだけにも空港並みにX線による所持品チェック、ボディーチェックに始まり、教皇が大勢の人に接する場所には何十人のボディーガード、セキュリティーマンが、ダークスーツに身を固め、湧きの下にはピストル、耳にはイヤホーン、袖口には隠しマイクを忍ばせたいかつい男たちが、実に目障りなほどうようよしています。

新しいパパモビレ。秘書などの側近は乗せず、運転手は低い位置に。その周りを、大勢のセキュティーが取り囲んでいる。

 膨大な経費のかかるこのような警護は、1981年5月13日にヨハネ・パウロ2世を襲った狙撃事件を上回る攻撃を想定してのことでなければほとんど説明がつきません。

 第三の「秘密」の「最終公文書」の半分近いページ数を費やして、当時教理省長官だったラッツィンガー枢機卿(現教皇)自らが、ファティマの出来事に関する「神学的考察」を書いていますが、そのことからも、同教皇が如何にこのファティマの秘密を重く真面目に受け止めているかを示しているものとわたしは考えています。

そして、教皇になった今、恐らく彼は自分自身が次のターゲットであることを強く意識しているのではないかとわたしは考えています。

近くに彼を見、また遠くから彼の表情をカメラの望遠レンズにとらえて見る度に、わたしはついそのような想念の虜になるのです。

だからと言って、現教皇が襲われ、死ぬと断言しているわけではありません。そんなことがあってはならないし、避けることも可能でしょう。避けるためには、マリア様の警告を自分に向けられたものとして真摯に受け止めて、各自が、そして全ての信仰者が、回心に努め、償いの技に励む以外に無いでしょう。歴史のコースは人間が選ぶもので、人間はそれを変えることができる。

  (おわり)

    

教皇ヨハネ・パウロ2世の脇腹を貫通しジープの床にころがった銃弾は、ファティマのマリア像の冠の中に埋めこまれた。水色の玉の下に見えるのがそれだろうか。

 

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★ 教皇暗殺事件 (完結編)その-2

2011-03-09 23:15:32 | ★ 教皇暗殺事件

 

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教皇暗殺事件 (完結編)その-2

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前回、話しの落ちを期待して読まれた方には、とんだ肩透かしになってしまって申し訳ありませんでした。でも、大分煮詰まってきた感があります。 

いわゆる「ファチマの予言」と呼ばれるものについて、インターネット上では日本語だけでも様々な情報があふれています。  

例えば: 1917年、ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の幼女の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
  第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
  そこで人々は、第三の予言の発表を待ち望んだ。なぜかこの予言だけは、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
  だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
  第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。
  その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、今も厳重に秘匿されており、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれている。 

などという、如何にもジャーナリスティックな記事がありますが、これなども、事実と筆者の自由な解釈が混在する恣意的な作文であった、とても額面通りに全てを受け取るわけにはいきません。

 教皇ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件の真相を彼の秘書のスタニスラオ枢機卿の記録に求めたように、ファティマの秘密についても、信用できる原資料によらなければ、説得力のある話にはならないのです。そこで私は以下の文献に専ら依拠することにしました。



写真は、教皇庁発表によるファティマ「第三の秘密」に関する最終公文書の表紙です。

私は、この一連のブログの結論をこの資料を参照しながら書きたいと思います。

 

 その資料によれば、「秘密」の第一部及び第二部の核心は以下の通りです(ルチアの書いたことばの文字通りの引用。ただし、原文はポルトガル語で、日本語の訳される段階で既に多少のバイアスがかかっていることは避けられませんが):

 

第一は、地獄のビジョンでした。

マリアは、私たちに広大な火の海をお見せになりました。それはまさに、地の下にあるもののようでした。この火の中に、サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。この魂は、透き通るように燃え上がる燃えさしのようで、全ては黒く、あるいは光り輝く青銅色をしていて、大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって、巨大な煙の雲と共に空中に吹き上げられ、ぞっとするような、しかも恐怖に震えあがるような苦痛と失望の悲鳴とうめき声を上げながら、重さもバランスも失って、火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。サタンは、見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが、戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており、透明で黒い色をしていました。このビジョンは、本の一瞬の間続いただけでした。天の母マリアが、最初のご出現の時に私たちを天に連れていくことを前もって約束してくださっていたことに、私たちはどれほど感謝したことでしょう。もしそうでなければ、わたしたちは恐怖のあまり死んでしまったと思います。

第二は、いわゆる予言の部分です。

その後、マリアに目を上げると、優しいけれど悲しそうに、こうおっしゃいました。

「あなたたちは、あわれな罪人の魂が落ちていく地獄を見ました。罪人を救うために、神は、わたしの汚れない心に対する信心を世に定着させるよう望んでおられます。もし、私があなたたちに言うことを人々が実行するなら、多くの魂は救われ、平和を得るでしょう。戦争がもうすぐ終わろうとしています。しかし、もし人々が神に背くのをやめないなら、ピオ十一世が教皇である間に、もう一つの、もっとひどい戦争が始まるでしょう。ある夜、まだ見たこともない光が闇を照らすのを見たなら、それは、戦争や飢餓、教会と教皇に対する迫害による世の罪のために今まさに神が、世を滅ぼそうとしておられる大いなるしるしであると悟りなさい。それを防ぐために、私の汚れない心にロシアを奉献することと、償いのために毎月初めの土曜日に聖体拝領をするよう、わたしはお願いにまいります。もし、わたしのこの要請を受け入れるなら、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。さもなければ、ロシアは、戦争と教会への迫害を推し進めながら、自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ、多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は、ロシアを私に奉献し、ロシアは回心し、世界に平和の時が与えられるでしょう」。

引用が十分長くなりました。不本意ながら、またここで一休みです。

一つだけ注意を喚起しておきたいことがあります。それは、これが、10歳の時、ルチアが見、理解したことそのままだということです。地獄のヴィジョンは、見たのなら見た通り彼女らの素朴な語彙を駆使して描写することはそれほど難しくないかもしれません。しかし、ロシアという国があるのか、何処にあるのかも知るはずのない田舎の無知な牧童が、貴婦人から告げられなければ、どうしてそれについて語ることができたでしょうか。第一次世界大戦が起こっていたということすら知る由もなかった素朴な子供たちが、どうしてその終結や、その後の世界情勢について語り得たでしょうか。人々が神に背くとか、罪と滅びの関係とか、宗教的、神学的概念が羊の後を追うこと以外に何も知らない牧童の頭に如何して勝手に浮かぶことがあり得たでしょうか。また、ヒットラーのナチスが戦争に突入する前夜に、ヨーロッパ中に不思議な光が夜空を照らした現象は、どうやら客観的史実であるらしいことをどう説明したらいいでしょうか。

冒頭の三人の牧童の写真をもう一度見ながら、よく考えて見て下さい。また、いわゆる「予言」の部分は、ジャーナリスティックに書きたてられているものとはかなり趣を異にしていると思いませんか。

次回は、一回分のスペースで、第三の秘密の原文と私の結論をカバーできることを期待しつつ、ひとまずここで区切ります。 (つづく)

 

 

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★ 教皇暗殺事件-5 (完結編)

2011-03-06 21:57:26 | ★ 教皇暗殺事件

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教皇暗殺事件-5 (完結編)

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この出来事の私なりのコメントをどう締めくくればいいものか苦慮しています。あらかじめ、一つのはっきりした結論があります。しかし、そこへどう辿っていけばいいのか悩んでいるのです。 

前回は、ヨハネ・パウロ2世がファティマの秘密に拘った話で終わっています。このブログを読む方のうちの、カトリックでない現代日本人の皆さんには、なんの話だか全く馴染みがないかもしれませんので、かいつまんで申しましょう。


その全ては、この3人のポルトガルの片田舎の牧童たちから始まります。1917年ごろの写真です。時代がかった写真の空気から、小学校もまともに行っていないような全く無名の無知で純朴な子供たちが、世界を震撼とさせるような大きな出来事の主人公となったのです。カメラの前で眉根を寄せて固まっている子供たち、服装も100年前のもの、日本では大正8年のことです。当時の、鉄道も通わぬ東北のド田舎の鼻たれ小僧たちを想像して見て下さい。 

真ん中の9歳のフランシスコと右側の一番小さいヤチンタは間もなく病気で夭逝しています。しかし、その二人は教皇ヨハネ・パウロ2世によって2000年に列福されました。当時10歳だった左側のルチア・ドス・サントスは、後にカルメル会の修道女となり、2005年2月13日に97歳の高齢で死去しています。ルチアのその後の生涯はひとまずおくとして、100年前のポルトガルの片田舎の幼い無名の牧童達が、その後の世界史の重大な出来事に決定的な関わりを持ったという異常な事態を、まず頭にしっかり刻んで頂きたいと思います。 

 そして何が起こったのか? 

 これについては、ローマにいて、私がかつて読んだ日本語の信頼できる文献が手元にないので、ちょっと手抜きの感を免れませんが、インターネットで検索して得た資料の中から、私の記憶とあまりかけ離れていない記事を借用して紹介したいと思います。

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事件の発端は、ヨーロッパの西、ポルトガルの真ん中にある小さな村ファティマ。主役は羊飼いの家の末娘で、10歳になった女の子。名をルシアという。脇役はルシアのいとこにあたる9歳のフランシスコとヤシンタ。とりたてて特徴のある子たちではない。

事件は1917年5月13日、快晴の昼日中に起こった。ルシアたち3人は羊を連れて、村から2キロ先のコバ・ダ・イリアという窪地にやって来た。正午を過ぎたころ、突如、空中に強烈な閃光がきらめいた。少女たちは輝く光にとらえられ、目がくらみそうになった。

光の中心に、小さな美しい貴婦人が出現した。彼女は子供たちに、毎月13日のこの時刻に、6回続けてこの場所に来るように告げられた。

3人は秘密にすることを約束したが、一番小さなヤシンタは母親に問い詰められて話してしまった。そのため3人は村中の笑い者になった。

2回目の6月13日には、それでも噂を聞いた村人が6~70名現場に来た。彼らはルシアが目に見えない存在に話しかけている様子を、まるで別の世界に引き込まれて行くような気持ちで観察した。

ブーンという蜂の羽音のようなものが聞こえた者もいた。


ルシアの対話が終わったとき、目撃者全員が爆発音を聞き、小さな雲がヒイラギの木のそばから昇って行くのを目にした。
3回目の7月13日には、目撃者は5千人にふくれあがった。この3度目のコンタクトでは、時期が来るまでは口外してはならないという命令とともに、重要なメッセージが預言された。

内容は25年後に、バチカン当局から次のように発表された。

1 第一次大戦は終わりに近づいたが、このままでは次の法王(ピオ11世)のときに大きな不幸が起こる。
2 次の大きな不幸の前に、夜間に不思議な光が見える。これは神の警告のしるしである。
3 ロシアは誤りを世界にまき散らし、戦争をあおりたて、多くの国が滅びる(この後に重要な「第三の予言」が続くのだが、徹底した秘密となっている)。

第二の予言は、1938年1月26日の夜9~11時にかけ、西ヨーロッパ全域において異常なオーロラに似た色光が輝いた。これは説明つかない現象として、当時のヨーロッパ諸国の新聞にも大きく報じられた。
この不気味な光に呼応するかのように、ドイツではヒトラーが台頭し、まもなく第二次世界大戦の火ぶたが切られた。…4回目の8月13日、今度は2万人の群衆が現場に集まった。しかし、ルシアたち3人は姿を見せなかった。世間を惑わすという理由で、官憲によって投獄されていたからだ。

だが、子供たちの不在のまま、雷鳴がとどろき、閃光がきらめき、ヒイラギの木のそばに小さな白雲が出現、数分後青空に上昇して溶け去った。

5回目になると、群衆は3万人にふくれあがった。その中には、奇跡をあばこうと目を光らせている3人のカソリック司祭もいた。

正午、明るく輝いていた太陽が急に光を失い、周囲は黄金色に包まれた。青空のかなたから銀白色に輝く卵型の物体が現れ、ゆっくり東から西へと飛びながら、子供たちのいるヒイラギの木の上に静止すると、白雲が生じて物体を包みこんで見えなくなった。

人々がこの奇妙な光景に目をこらしていると、白い綿状のものが空から降ってきた。人々が手を伸ばしてつかんだり、帽子で受けると溶け去ってしまった。

貴婦人とルシアの間で会話が始まり、10月13日の奇跡の再現が繰り返された。15分後、「お帰りです」というルシアの声が響いたとたん、また銀白色の卵型物体が出現し、青空にゆっくりと上昇して消えていった。
一部始終を目撃した司祭は、銀白色の球体を「あれは天国の乗り物で、聖母を王座からこの荒野に運んできた」と語った。以来、貴婦人を「聖母マリア」、卵型物体は「聖母の乗り物」といわれるようになった。

最後の6回目の出現は、予告どおり10月13日に起こった。その日は老若男女、あらゆる階層の人々が現地につめかけ、その数は7万から10万人に達したという。中にはヨーロッパの主要新聞の記者や科学者なども含まれていた。その日の奇跡現象は今も語り継がれるように、さすがに凄い。

聖母の出現に先立って閃光がきらめき、付近一帯にはバラの花のような不思議な甘い芳香がただよった。子供たちとの対話が始まったが、群衆には聖母の姿は見えず、声も聞こえなかった。ただ、子供たちの顔が、うっとりとなっていく変化を目にしただけだった。

聖母が子供たちと話し終え、コバ・ダ・イリアを去って行くとき、予告されていた奇跡現象が起こった。その日は、あいにくの土砂降りの雨だったが、突然ピタリと止み、厚い黒い雲が割れて青空が見えた。と、そこから銀色に輝く見慣れぬ太陽が出現したのである。周囲にはさまざまな色光が放射され、火の車のように回転している。

かがやく太陽のようなものは回転を中止すると、水平に移動、また元の位置に戻ると再び回転を始め、凄まじい色光を発する、という行動を3回くりかえした。

と、突如として赤く輝いたと思うと、今度は群衆の図上に稲妻のようにジグザグに落下してきた。群衆は恐れおののき、ほとんどの人は最後の時がきたと思い込み、自分の犯した罪状を告白し始めた。しかし、太陽は再びジグザグに上昇し、青空に納まって行った。

見慣れぬ太陽が消え去り、本物の太陽が輝き始め、我に返った群衆は仰天した。自分たちの衣服をはじめ、木々も地面も完全に乾燥していることに気づいたからである。

この奇跡は、ファティマから数10キロ離れた場所でも大勢の人に観察された。

ともかく予告どおりに大奇跡は起こり、事件はポルトガルだけではなく、全ヨーロッパに大反響を巻き起こした。日本(大正8年)の新聞にも、ヨーロッパにマリア様が出現して大奇跡が起こったと報道されている。

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私が50年前にこのような記事を読んだ時は、このような大袈裟な異常現象の記述は、私の若いころの理性偏重の信仰とは全く調和しない迷惑千万な雑音としか思えなかった。いま突然、私がこのような記事を引用しても、ツイッターで私のブログを知った大方の皆さんも、真偽の判断のしようもない厄介な話としか映らなくてむしろ当然、それが健全な反応だと私は思います。

私はこの話を信じて下さいとは言いません。むしろ、こんな話がなかったらどんなに気が楽かと自分でも思います。しかし、10キロ離れたところからも異常現象は目撃されたとか、無神論者も懐疑主義者も科学者もいる目の前の天空で、極端な異常現象が7万から10万の人々に同じように目撃され、世界中の新聞に大きく書きたてられ、大正時代の新聞が今も見られるなら、日本のマスコミにも取り上げられた事実があったということだけは、どうか心に留めて頂きたいと思います。

これだけの規模で人々を集団催眠にかけることは、現代の技術をもってしても不可能であるに違いない、そういう意味で客観的事実と言わざるを得ないのではないでしょうか。

私は教皇暗殺事件を今回で締めくくるつもりでいましたが、不本意にも前置きが長くなりすぎました。そこで、ひとまずここで区切って、次につなげたいと思います。

 

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★ 教皇暗殺事件-4

2011-03-01 23:48:48 | ★ 教皇暗殺事件

 

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教皇暗殺事件-4

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 前回、私はスタニスラオ枢機卿の教皇暗殺事件に関する記事の前半を紹介しました。ここに後半の全文を記載します。原資料を共有したうえで、この事件をどう受け止めるべきかを、ご一緒に考えて行きたいと思います。




 約5時間半後、誰か-それが誰であったかもはや顔を思い出せないのだが言葉ははっきりと覚えている-その誰かがやって来て、手術は終わった、全てうまくいった、だから生存の可能性は高まった、と言った。 

 集中蘇生室に移された。教皇は次の日の未明に麻酔の眠りから醒めた。目を開くと、まるで私が誰であるかを思い出すのに難儀しているかのようにゆっくりと私を眺めた。そして、言葉少なに「痛い・・・、喉が渇いた・・・」と話した。そして「バケレットのように・・・」と言った。明らかに、一年前に赤い旅団によって殺害されたヴィットリオ・バケレット教授の身に起こったこととの間に、何らかの類似性を思ったようであった。 

 短くまどろんだ後、教皇は朝方に目を覚まし、あらためて私を見た。今度ははっきりとわかった。信じられないことには、「私は終課の祈りを唱えたか?」と私に聞いた。まだ513日のうちにいると信じていたようだった。 

 最初の3日間は実にひどいものだった。教皇は絶え間なく祈っていたが、非常に、非常に苦しんでいた。しかも、自分のこと以上にヴィシンスキー枢機卿(訳注:共産政権下で捕らえられ、長年獄中生活を強いられた)の差し迫った死を思って苦しんでいた。それは、内面的な、過ぎ去ることのない深い苦しみだった。 

 私は、事件の2日前、ワルシャワの館に重病のためにもう寝たきり状態になっていた枢機卿を訪ねた。教皇が私にわざわざ彼を訪問させたのだった。枢機卿はもう自分の最期が近付いていることを知っていた。しかし彼は落ち着いていた。彼は神のみ旨に完全に自分を委ねていた。私たちは長く話し合った。彼は、自分の最後の望みを教皇に伝えるようにと願った、そして教皇に宛てて一通の手紙を書いた。 

 ところが、事件のことと、教皇が死ぬかも知れないことを知らされると、彼は-何と言ったらいいか-急に生きることに執着しはじめた。彼は、成り行きを確かに見届けるまでは死ぬことを拒んだ・・・そして、その為になんと3週間にもわたる悲痛な断末魔の苦しみに耐えた。教皇が死の危険から脱したという確かな報せを受けて初めて、彼は永遠の安息に入るために目を閉じた。 

 私は死に瀕した枢機卿とまだ回復期の弱々しい教皇との間の最後の極めて短い電話の会話を深い感動と共に思い出す。「苦しみが私たちを結びつけていますね・・・。しかし、あなたは助かりますよ」そして、「教皇様、私を祝福して下さい。」ボイティワ(教皇)はもう決定的な永遠の別れであることを知りながら、それについて触れるのを望まれず、「はい、はい、あなたの口を祝福します・・・、あなたの手を祝福します・・・」と言った。 

 しかしヨハネ・パウロ2世に関して言えば、まだそれで終わりではなかった。バチカンに帰ってから、全般的な健康障害とますますひどくなるばかりの痛みを伴った発熱におそわれた。ジェメッリ病院に再入院した後、やっとそれがチトメガロヴィールスと言う呪われたヴィールスのせいであることが分かった。感染症を克服すると、さらに結腸人工肛門を付けずに済むようにするための二度目の手術をする必要があった。今回は万事うまくいった。何も難しい問題は突発しなかった。814日マリア様の被昇天の祝日の前日には、教皇は最終的に自分の居所に戻ることができた。

 さて、経過についてはひとまず話をおいて、私は、ここでファティマとの関連について話さなければならないと思う・・・。

 本当のところ、教皇は事件の直後の日々には、ファティマのことなど全く考えてもいなかったらしい。後になって、少し容体がよくなり、多少とも力が湧いてきてから、初めて、あのいささか不可思議な偶然の一致について思いめぐらし始めた。なぜか、何時も513日なのだ!ファティマでの聖母の最初の出現の日が1917513日、そして、同じ513日に彼の殺害が企てられた。

 とうとう、教皇は心を決めた。教理省の文書庫に厳重に保管されていた第三の「秘密」を見ることを彼は求めた。私の記憶違いでなければ、718日に当時その省の長官だったフランジョ・セペール枢機卿が二つの封筒-ひとつにはシスター・ルチアがポルトガル語で書いたオリジナルが、そしてもう一つにはイタリア語に訳されたものが入っていた-を、国務長官代理のエドゥアルド・マルティネス・ソラノ大司教に渡し、彼がジェメッリ病院に運んできた。

 それは、二回目の入院の頃だった。教皇はそこで「秘密」を読んだが、一度読めば最早疑う余地はなかった。この「ビジョン」の中に、彼は自分の運命を知った。彼の命が救われた、と言うよりも、彼に新たに命が与えられたのは、聖母の介入と、彼女のご保護のお蔭であったと確信した。

確かに、シスター・ルチアが言った通り「白い衣服をまとった司教」は殺された。ところが、ヨハネ・パウロ2世はほぼ確実なはずの死を免れた。と言うことは?いったいこれをどう説明すればいいのか?歴史の中で、人間的実存の世界において、運命的にあらかじめ定められた力と言うものが存在するのだろうか?もしかして、神の摂理と言うようなものが存在するのではないだろうか?自分のピストルで確実に殺せるように狙いを定めた男に、敢えてそれを「失敗」をさせることができるような「母の手」の介入がありうるのだろうか?

一つの手が撃って、もう一つの手が「弾丸」を導いた、と教皇は言った。

今日、永遠に「無害」のままに終わった弾丸は、ファティマの聖母の像の冠に嵌めこまれている。




如何でしたか? 教皇は事実上死ぬはずだった。死んで当然の出来事に巻き込まれた。腹部を近距離からピストルで撃たれ、貫通し、結腸に穴があき、小腸の複数個所もずたずたにされ重大な損傷を受けた。

日本で侍が切腹すると、腸を傷つける。現代のような外科手術や輸血が無かった時代には、それは確実な死を意味した。

搬送に手間取り、出血多量で血圧と心拍数が危険なレベルに落ちた。最初の輸血に失敗した。

教皇の場合、手術をしながら医者自身が助かる見込みがあると信じていなかった。そして、死にゆく人に授ける病者の塗油(昔は「終油の秘跡」と言った)をするよう求めた。

 術後、ヴィールス性の感染症にかかった。Etc. etc.

それなのに、人口肛門を付ける必要もないまでに、奇跡的に九死に一生を得た。

 高速で飛来する弾丸が、教皇の体を貫通する間に、臓器に致命傷を与えないように微妙にコースを変えながら飛んで行ったなどと言う不自然な仮定をするまでもなく、この事件全体が自然的に説明がつかないほどの不思議な形で、教皇を死から護って終わった。

 それに微妙に絡んでくる1917年のファティマの予言の第3の「秘密」。聖母マリアの介入をほのめかす教皇自身の言葉。

 次回はこのテーマの最終回として、この出来事の歴史的意味について考えてみたいと思います。 (つづく)

 

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★ 「2発の銃声」 (教皇暗殺事件-3)

2011-02-26 22:56:17 | ★ 教皇暗殺事件

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 教皇暗殺事件-3

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わたしは前回このテーマで書いた時、次のように結びました。

ではこれで一件落着でしょうか?

 ① 仮に、わたしの好奇心をいたく刺激したこの写真が、偽物、贋作であるとしても、ではあの写真の不思議な(ある意味で怪しい)魅力は一体どこから来るのでしょうか。まずこの点に対して答えを出さなければなりません。

② 次に、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの狙撃事件を機に封印が解かれ、発表に踏み切られた「ファティマの第三の予言」が、既に成就し、本当に過去のものとなってしまったのかどうかにつても、答えなければなりません。

わたしは ① と ② の二つの疑問に挑戦する前に、まずあの日、つまり1981年5月13日に本当は何が起こったのか、どう展開したのかを、伝聞でもなく、断片的報道を総合した推察でもなく、ぜひとも事件の第一資料から検証したいと思いました。そこで、バチカンの傍の一番大きい本屋さんに行って、資料を探し始めた。書店に備え付けの端末にかじりついて、色んな角度から検索しましたが、教皇狙撃事件それ自体を直接取り扱った独立した資料にはついに辿りつくことができませんでした。ちょっと不思議な気がしたし、また腑に落ちませんでした。そこで、いろいろ観点を変えて、探りを入れて行く中で、「あっ!これだ!」と思わず叫んでしまうような材料に辿りつきました。冷静に考えれば、それは当然あるべき場所にあったと言えるでしょう。

「カルロと共に生きた生涯」(スタニスラオ・ジヴィツ著) 19章 「あの2発の弾丸」(P.117~122)

スタニスラオ・ジヴィツと言えば、教皇と同じポーランド人で、教皇の秘書として、教皇の在位中最も密接に彼に寄り添ってきた人です。狙撃事件の時ももちろん同じジープに乗っていたし、手術にもその後の回復期にも誰よりも近く長く彼とともに居ました。あの忘れようとしても忘れ得ぬ出来事について何も書き遺していないはずはなかったのです。

初め、私はこの教皇暗殺のテーマをこの回でまとめ上げようと考えていました。しかし、その準備として問題の記事を読み進むうち、気が変わりました。1億2700万の日本人の中で、私がようやく探し当てたこの本に出くわす人は皆無に等しいでしょう。仮にたまたま出くわしたとしても、それを読みこなせる人はさらに少ないことでしょう。そうならば、この事件に関する貴重な第一資料を、まず皆さんに生で接して頂いて、それから結論に向かっても、決して無益な試みではないと思うに至ったのです。

それで、原文で6ページの章を2回に分けて、原文に沿ってご紹介いたしましょう。

 

スタニスラオ枢機卿の著書 「カルロとの生涯」

 

 

《2発の銃声》

 

 あの日の事を思い起こすたびに、私は何時も同じ思いに浸る。一瞬一瞬が、最初から生々しくよみがえる。今だに、どうしてあのようなことが起こり得たのか信じることができない。教皇を殺そうとなどと、それもあの教皇、ヨハネ・パウロ2世を、あのキリスト教の中心的な場所において・・・

 あの日、ジープは聖ペトロ広場の二周目を終わろうとしていた。青銅の門に終わる右側の柱列のところだった。教皇は彼に向って差し出された金髪の赤ん坊に向かって車から身を乗り出していた。その子の名前はサラと言った。やっと二歳になったばかりだった。彼女は色風船の糸をしっかりと握っていた。彼はその子を両腕に抱き取り、みんなに見せるかのように空中に持ち上げ、その子にキスをして、微笑みながら両親に返そうとしていた。 

 あとから再確認したところによれば、それは1719分、素晴らしい天気に恵まれた水曜日の午後、屋外の一般謁見のあいだの出来事だった。そして、日付は1981513日だった。 

 私は母親と父親の手が、このバラ色のぽっちゃりした子を受け取ろうと差し伸べられている光景に魅了されていた。 

 一発目の銃声が聞こえた。それと同時に、数百羽のハトが突然舞い上がり、驚いたように飛び去っていった。 

 そして、すぐその後で二発目の銃声が響いた。その時、教皇が私に向かって横向きにへなへなと倒れこんでくるのを感じた。 

 私はと言えば、-それは後で写真やテレビの映像で見て知ったことだが-本能的に銃弾が発射された場所に目をやっていた。そこには大混乱があった。色の浅黒い青年が身をくねらせていた。後で分かったところによれば、それがトルコ人の犯人、メハメット・アリ・アグサだった。

 今にして思えば、あの場所からあの大混乱に目をやったのは、起こった恐ろしい出来事に対する、見たくない、受け止めたくないという私の思いの産物だったのではないだろうか。しかし、私の両腕はその現実をしっかりと「感じて」いた。

 私は彼を、教皇を支えようと努めた。しかし、彼はまるでなるがままに任せようとしているようだった。優しく。彼は痛みに顔をゆがめていた。にもかかわらず安らかだった。私は尋ねた「どのあたり?」「腹をやられた」と彼は答えた。「痛みますか?」「痛む」と答えた。一発目の弾はかれの腹部を台無しにした。結腸に穴を開け、小腸の複数個所をずたずたに引き裂き、貫通してジープの床に転がった。二発目の弾丸は、右肘を傷つけ、左手の人差し指を骨折させ、二人のアメリカ人観光客を傷つけた。

 誰かが「救急車に向かえ」と叫んだ。しかし、救急車は広場の反対側にあった。ジープは全速力で鐘楼の門を通り、フォンダメンタ通りを通って、大聖堂の内陣の外側を迂回して、バチカンの救急隊の待機する場所に向かった。そこには連絡を受けた教皇の侍医のレナート・ブッッオネッティ博士がすでに待機していた。

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★ 教皇暗殺未遂事件-2

2011-02-09 07:03:18 | ★ 教皇暗殺事件

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教皇暗殺未遂事件-2

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まずこの二つの写真を見比べて頂きたい。左は問題の不思議な写真。右は、それからインスピレーションを得て創られたステンドグラスの写真。何か共通の特徴に気付かれませんでしたでしょうか?

そうです。よく目ざとく気付かれましたね。他の方も、聖母の向かって左側の頬の下の方をよく見て下さい。左の写真では教皇の首筋に殆ど隠れていて分かりにくいのですがステンドグラスでははっきりと斜めに濃い二本の線が見えませんか。これは明らかに、ポーランドの巡礼地、チェスとコーヴァの、いわゆるブラックマドンナの絵の顔にある傷を指しています。下の、私が苦労して遠くから隠し撮りした)本物のマドンナの絵の写真の部分を拡大したものと比べて見れば一目瞭然です。


 

 

これは、回教徒が東から侵略してきた時、この聖堂にまでなだれ込んだ兵士ひとりが、槍で二度マリア様の顔を突いた時の傷だと言われています。そして、回教徒のポーランドへの侵略は、マリア様のお陰でこの場所で止まった史実があります。教皇ヨハネ・パウロ2世は、この聖母の絵に深い信心をもち、教皇に選ばれた後、まずここに巡礼されたと聞いています。本物はご覧の通り金銀宝石の装飾で飾られていて絵がよく見えないほどですが、飾りの下は上の写真のように頭から青いヴェールを被っているはずです。つまり、あのふしぎな写真で教皇を抱いている婦人は、チェストコーバのブラックマドンナとして描かれた人物、つまり聖母マリアを指していると見て間違いありません。 


 

暗殺未遂事件とは直接関係がありませんが、ちょっと下の写真を見て下さい。教皇がクラカウの街をパレードしている時のものです。色とりどりの生花で作られたフラワーラインの上をオープンカーが進んでいくところです。ケネディー暗殺の時と同様、銃弾に対しては全く無防備であることが分かるでしょう?

 

では、暗殺未遂事件の時はどうだったのでしょうか。その時も同じようにジープ型のオープンカーでした。下のは犯行直後の写真です。この位置から写真を撮れるのは明らかにセキュリティーの人間だけです。つまり、群衆の一人ではありえないということです。手前の後ろ向きの男性はシークレットサービスの一人でしょうか。この写真の1~2秒前には教皇はこの男性の腕の中だったかもしれなません。だから、反対側からカメラを構えれば、問題の怪しげな写真の構図と同じような形も考えられなくもないのです。教皇の頭の後ろに顔が半分隠れていて教皇の肩のところに手が見えるのが、同じポーランド人で教皇の秘書、現在のクラカウのスタニスラウス枢機卿ではないかと思います?

 

 

ローマの病院ポリクリニック「ジェメッリ」で回復を待つ教皇ヨハネ・パウロ2世。

 

今日は、二つの点についてだけ述べて、このブログを終わろうと思います。そして、同じテーマの次のブログで、わたしの神学的考察をもって結論といたします。

第一の点: 問題の写真は、素材としては、教皇を写した写真と、チェストコーバのマドンナの絵にヒントを得て描かれた画像の合成物だということは見た通り一目瞭然で、疑う余地はありません。それがどうして一枚の画像になったかが問題ですが、それはとにかくとして、技術的には二つの元の画像さえあれば、素人でも持っている画像編集ソフト、例えばアドビーのフォトショップなど、で画像処理すれば、割合に簡単に作れそうな合成写真です。それを、信仰深い個人がやったか、あるいは天使がやったか、マリア様がやったか、それは大した問題ではありません。それを、オカルト信仰の人がよくやるように、背後霊や祖先の霊が写っていたという類の合成写真と一緒にして、不思議な写真、「奇跡」的な写真ともてはやすのは、場合によっては大変危険なことであるとは思いませんか。

第二の点: あの写真に添えられた言葉に信ぴょう性があるかどうかです。私のツイッターにはこのようなコメントが入りました: 《  tatakaigokko @  世間に流布されている諸々の噂話の真偽を確かめる以下のサイトでは引用のホアキン・ナヴァロ・ヴァルス氏に直接コンタクトし問題の写真が撮られた事もヴァチカンから公表された事もないとの証言を得たとの事。 

これは決定的だと思いませんか。目的がどうであれ、人を欺く嘘はいけません。このサイトの内容の信ぴょう性自体も、実は疑問視することもできますが、そうしていてはきりがありません。わたしは、このような裏付けを頂く前から、あの文章は眉唾ものだと直感していました。もう十分でしょう。

ではこれで一件落着でしょうか。 仮に、わたしの好奇心をいたく刺激したこの写真が、偽物、贋作であるとしても、ではあの写真の不思議な(ある意味で怪しい)魅力は一体どこから来るのでしょうか。まずこの点に対して答えを出さなければなりません。

また、次に、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの狙撃事件を機に封印を破り、発表に踏み切った「ファティマの第三の予言」が既に成就し、本当に過去のものとなってしまったのかどうかにつても、答えなければなりません。

この最後に残された二つの疑問についての答えは次回に譲り、今日はひとまずここで締めくくりたいと思います。




 



 

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★ 「奇跡?」 ヨハネ・パウロ2世教皇の暗殺未遂事件

2008-10-09 14:37:39 | ★ 教皇暗殺事件

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「奇跡?」 ヨハネ・パウロ2世教皇の暗殺未遂事件

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一人のスペイン人の神父が、クリスマス休暇で帰っていたグラナダから、奇妙な写真と記事を持って戻ってきた。その写真は、日本語に訳すると、以下のような文章と共にあった。それは私の好奇心と、猜疑心と、批判精神を刺激する上でまたとない格好の材料だった。

まずは、先入観なしにそれを読んで頂きたい。なお、写真はコンピューターのデーター操作で直接ブログに貼り付けようとしたが出来なかった (どうやら絵のように最初からアナログデータだったらしい) ので、一度ワードのファイルに移し、それを光沢紙にプリントして、さらに私のカメラで撮影して、出来たデジタルデーターをブログに貼り付けるという厄介な手順を踏んだので、下のものは質がかなり落ちていることを念頭においていただきたい。(以下、記事の内容。赤の波線以下は全て記事のとおり。

 

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下の写真を見て下さい、感動的でしょう。 

 

このメッセージと祈りの力を感じ取るために別にカトリック信者である必要はありません 

 

 

 

ヨハネ・パウロ2世教皇が何故何年もこの写真を隠していたのかわたしたちは知りません。バチカンは最近になって初めてこの写真を公表しました。この写真は教皇が襲われパパモビレ(教皇の車)の中に倒れこもうとしたちょうどその瞬間、一人の警護官によって撮られたものです。彼の表情には苦痛を見とることができます。 

上の写真をよく見て下さい。1981513日に狙撃されたとき、聖母マリアヨハネ・パウロ2を腕に抱いているのが見られます。教皇ヨハネ・パウロ2世は、聖ペトロ広場に集まった人々に話しかけるために到着した時に撃たれました。彼は撃たれたとき、何時もたずさえているロザリオを手に持っていました。彼が倒れようとしたとき、何処からともなく一人の婦人が急いで彼の傍に現れ、彼を抱きとめました。上の写真がそれです。写真は、自分のカメラで教皇のスナップを撮るのに夢中になっていた群衆の一人が撮影したものだと言われていました。婦人は現れた時と同じようにすばやく姿を消しました。 

狙撃者は広場で逮捕され、終身禁固刑を言い渡されました。教皇は致命傷を負いましたが、手術を受け、長い療養のすえに一命をとりとめました。驚いたことに、発射された全て弾丸は、いずれも彼の生命に関わる内臓組織の全てを避けて貫通したことです。やっと完治した時、彼が最初に探し求めたのは彼のロザリオでした。彼がそれを手にしたとき、おん母マリアは、弾丸(複数)が彼の体をうまく通り抜けるようにその弾道を逸らされたのを感じた、と語りました。確かに、ヨハネ・パウロ2世は何時も規則正しくロザリオを唱えることを習慣としていた。ある時彼は、私の一番好きな祈りはロザリオだと語りました。

 

バチカンのホアキン・ナヴァロ・ヴァルス報道官は、この信じがたい写真についてバチカンが何年もかけて膨大な検討を重ねたと語りました。もちろん、写真の現像の質についても研究した。なぜなら、現像された時は、像がはっきりしていなかったので、誰もよく見ることは出来なかったからだ。写真映像の(世界中の)多くのエキスパートたちの綿密な観察とチェックを経て、彼らはその中に全く何のトリックもなかったと結論付け、この神の母からの素晴らしい贈り物をわたしたちに与えた。神の母がヨハネ・パウロ2世を抱いているのが見えます。素晴らしいではありませんか? 

あなたがお信じになるかどうか知りません。しかし多くの人が信じています・・・そして信じている人たちの間には、フロリダのレジデンスにガラス絵の窓に写真を再現したトーマス・ヴェンスキー司教もいます。下にそれを見ることができます。 

 

 

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= ここからは再び私の言葉です =

この写真は、痛く私の好奇心を刺激しました。実は、二枚目の写真の後に「メッセージと祈りの言葉」が続いているのですが、それはありきたりの信者さん向けの信心臭いもので、しかも私の関心外の冗長なものだったので、省略してあります。

この写真のことをめぐって、目下、詳細に、かつ批判的に検討中。近々なにかご報告できると思います。 請う、ご期待!

 

コメント (11)
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