異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

ガルトゥング博士が来日 60年代に「積極的平和」提唱~9条の理念 全世界に

2015-08-20 15:08:45 | 平和 戦争 自衛隊

博士は、貧困や差別などを構造的な暴力ととらえ、これらのない社会状況を「積極的平和(positive peace)」と定義した。博士の定義はその後、世界の平和研究に大きな影響を与え、平和学の確立につながった。

東京新聞 TOKYO WEB

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015082002000125.html

ガルトゥング博士が来日 60年代に「積極的平和」提唱

田原総一朗さん(左)との対談に臨むヨハン・ガルトゥング博士=19日、東京・六本木で(淡路久喜撮影)

写真

 平和学の第一人者で「積極的平和」を提唱したノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥング博士(84)が十九日に来日し、本紙のインタビューに答えた。博士は憲法九条を持つ日本に以前から関心を寄せており、安倍晋三首相が「積極的平和主義」との言葉を繰り返し使っていることに「おそらく安倍首相の言う『積極的平和主義』は日米の軍事的な同盟をベースとしており、日本が米国の戦争を一緒に戦うことになる。私の『積極的平和』と中身は違う」と懸念を示した。 

 博士は一九六九年の論文で単純に戦争のない状態を「消極的平和」とする一方、貧困や差別などを構造的な暴力ととらえ、これらのない社会状況を「積極的平和(positive peace)」と定義した。博士の定義はその後、世界の平和研究に大きな影響を与え、平和学の確立につながった。日本政府は「積極的平和主義」をproactive contribution to peaceと英語訳している。

 福岡市の映画配給会社「ユナイテッドピープル」の社長関根健次さん(39)が、戦後七十年の節目の年に安倍首相が安全保障関連法案の成立を目指していることに危機感を覚え、招いたのに応じて来日した。十九日に東京都港区で開かれた講演会でジャーナリスト田原総一朗さん(81)と対談。二十一日には横浜市での講演会と学生を交えたワークショップに出席する。

<ヨハン・ガルトゥング> 1930年、ノルウェー・オスロ生まれ。オスロ大で数学と社会学の博士号を取得。59年にオスロ国際平和研究所を設立。69年に論文の中で「積極的平和」を提唱した。世界各地の紛争の仲介者としても活動している。87年、もう一つのノーベル賞と呼ばれる「ライト・ライブリフッド賞」を受賞。邦訳著書に「構造的暴力と平和」(中央大学出版部)、「平和を創る発想術」(岩波書店)など多数。

 

    

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若者憲法集会&デモ@wakamono_kenpou 16 時間16 時間前

積極的平和主義の提唱者であるヨハン・ガルトゥング博士が来日し、安倍政権を「軍事同盟が入る余地はない」と批判。そして・憲法9条1項の堅持・専守防衛に専念・東北アジア共同体の設立を提案。

 
 
 
 
 

イラク派遣隊員29人が自殺 PTSDの恐怖 /群衆が自衛隊包囲 撃てば戦闘…サマワの恐怖

2015-08-20 14:17:43 | 平和 戦争 自衛隊

銃声、群衆が陸自包囲 撃てば戦闘…サマワ駐留隊員恐怖(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース 

 自衛隊初の「戦地派遣」となったイラクで、隊員たちは危険と隣り合わせの活動を強い - Yahoo!ニュース(朝日新聞デジタル)
headlines.yahoo.co.jp
 
 
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http://dot.asahi.com/wa/2015081900059.html

イラク派遣隊員29人が自殺 帰還隊員らが語ったPTSDの恐怖

(更新 2015/8/20 07:00)

 

サマワの宿営地に入る自衛隊員(2004年) (c)朝日新聞社 

サマワの宿営地に入る自衛隊員(2004年) (c)朝日新聞社 

 

 

 2016年2月に安保法制が施行され、南スーダンPKOで自衛隊の武器使用が拡大──。安倍政権が描く青写真が国会で暴露され、衝撃が走った。イラクへの派遣で自衛隊の自殺者は29人にのぼる。その上、武器使用解禁で死のリスクも増し、「捨て駒にされる」と隊員らは訴える。

 イラク戦争では、政府はサマワ地域を「非戦闘地域」とし、復興支援活動に03年から09年まで自衛隊を派遣。自衛官に死者は出なかったものの、帰国後に精神面で変調をきたし、自殺した例が多数報告されている。

 6月5日、民主党の阿部知子衆院議員が提出した質問主意書への回答で、政府はイラク特措法に基づいて派遣された約5600人の陸上自衛隊員のうち21人、約3600人の航空自衛隊員のうち8人が、在職中に自ら命を絶っていたことを明らかにした。

 10万人当たりで換算すると、陸上自衛隊のイラク帰還隊員の自殺者数は38.3人。これは、一般職の国家公務員の21.5人、自衛官全体の33.7人(いずれも13年度)に比べても高い値だ。過去に自衛隊員のメンタルヘルスを担当した防衛省関係者はこう話す。

「派遣前に精神面で問題なしとして選抜された隊員がこれほど自殺しているというのは、かなり高い数字。しかも、これは氷山の一角で、自殺にいたらないまでも、精神面で問題を抱えている隊員が多くいるはず」

 その詳細は公表されていないが、29人の自殺者の中には、幹部らも含まれることが、関係者の証言で明らかになっている。

 一人は04年から05年までイラクに派遣された、当時40代の衛生隊長(2佐)だ。家族の反対があったものの、医師として現地に赴き、自衛隊員の治療だけでなく、現地で病院の運営も手伝い、時には徹夜の作業が続くこともあった。

 それが、イラクから帰還した後にうつ病を発症。やがて自殺願望が出るようになった。首をくくって自殺未遂をしたこともあった。

 治療のために入院もしたが病状は改善せず、最期は自らの太ももの付け根をメスで切り、自殺した。遺書はなかったという。

 そして当時30代の警備中隊長(3佐)は、05年に妻子を残したまま、車内に練炭を持ち込み、自殺した。警備中隊長は百数十人の警備要員を束ね、指揮官を支える役割で、この中隊長の部隊はロケット弾、迫撃砲などの攻撃を数回受けたほか、市街地を車両で移動中、部下の隊員が米兵から誤射されそうになったこともあったという。

 中隊長は帰国後、日米共同訓練の最中に、「彼ら(米兵)と一緒にいると殺されてしまう」と騒ぎ出したこともあったという。

 第1次カンボジア派遣施設大隊長を務めた元東北方面総監の渡邊隆氏は言う。

「カンボジアへの派遣以降、海外に派遣された自衛隊員で自殺をした人は59人います。PTSD(心的外傷後ストレス障害)は個人個人に影響があると考えないといけない。『弱い』と言ってしまったら、そこで終わってしまうのです」

(本誌・西岡千史、長倉克枝/今西憲之、横田一)

週刊朝日 2015年8月28日号より抜粋

 

 


沖縄の叫びが聞こえませんか! 那覇バプテスト教会主任牧師 国吉守

2015-08-20 06:20:02 | 沖縄

Christian Today, Japan

http://www.christiantoday.co.jp/articles/16641/20150815/kuniyoshi-mamoru.htm

沖縄の叫びが聞こえませんか! 那覇バプテスト教会主任牧師 国吉守

2015年8月15日09時52分
国吉守

国吉守(くによし・まもる)

 

 

はじめに

沖縄の歴史を知ることなしに、日本の歴史を正しく理解することは困難です。沖縄の差別と苦難の歴史を学ぶことによって、私たちは日本が歩んできた道を知ることができます。沖縄の過去の事実と現状を知り、沖縄から日本、世界を見ることが、日本人にとって、特に教会人にとって、今必要なことです。なぜなら日本の歴史は沖縄との関係において最もよく現れているからです。1609年の「薩摩の侵略」以来、1872年の「琉球処分」、戦時の捨て石政策と続き、今日の辺野古へと連動しています。

 

「敗戦」の事実を真摯(しんし)に受け止めよう

8月15日は「終戦記念日」です。事実は敗戦ですが、事実がどうであっても、日本の国は自国の「非」や「負」の歴史を明らかにすることなく、常に国の正当性を主張します。太平洋戦争は本当に正しかったのか、間違ってはいなかったのかを深く吟味、反省することもなく、戦後も国は絶対に正しく、皇軍は間違ったことはしないという固定観念で進んでいます。

 

「皇民化教育」は戦後も続いている

戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952(昭和27)年4月1日より適用)という法律があります。一般住民の死者がこの援護法の適用を受けようとする場合、遺族は市町村役場を通して「戦闘参加申立書」を県の援護課に提出します。その場合、関係者の現認証明書を「死の状況」として添付するのですが、援護金を受給できるようにするためには、事実はどうであれ、「皇軍に協力」したという形式を取るのです。たとえば、日本軍によって壕(ごう)を追い出されて死んだ者は「壕提供」、食料を奪われて餓死した者は「食料提供」をしたとします。このように事実を曲げても皇民化政策が優先し、大本営発表によって、事実は日本軍が負け続けている戦闘も、勝ち続けていると報道し、一億国民を騙(だま)し続けたのです。このようなことは2度と繰り返さない、繰り返させないと一人一人が決断することが、戦後70年の意味です。

 

「屈辱の日」に耐える県民の心情

1951年9月8日、敗戦国日本は連合国(48カ国)とサンフランシスコ平和条約(対日講和条約)を結びました。この条約によって日本は、被占領状態から抜け出して主権を回復しました。しかし、この条約の第3条によって沖縄と日本の行政は分離され、日本は独立しましたが、沖縄は引き続き米国の直接統治に置かれる捨て石となりました。1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、米国の沖縄統治が始まったのです。この条約が日本の国会で承認されたとき、沖縄からの議員は一人もいませんでした。沖縄の意思は全く無視されて、この条約は締結されたのです。それ故、沖縄では1952年以降4月28日は「屈辱の日」としています。

 

「本土復帰」の実現を目指す県民

この屈辱は27年間も続き、県民も「なぜ沖縄だけがこのような差別と苦難を受け続けるのか。これは決して平等ではない」との怒りと自覚が次第に強まり、法の下の平等を求め、本土復帰の希望に目覚め、「復帰運動」は大きなうねりとなりました。そして、日米政府の合意によってついに1972年、「沖縄の本土復帰」は実現しました。しかし、「核抜き、本土並み」の平和国家の夢は崩され、軍事基地はそのまま残り、県民は復帰後も「日米地位協定」によって基地被害を受け続けています。このように県民の平和憲法への復帰の期待は裏切られています。

 

『標的の村』が示す基地拡大の現状

三上智恵監督のドキュメンタリー映画『標的の村』は、沖縄北部東村(ひがしそん)の高江集落の周りに、オスプレイのヘリパッドの基地を造りつつある現状を取材した映画です。この映画を見た女学生たちの涙ながらの叫びを、沖縄国際大学の前泊博盛教授は次のようにまとめています。

「どこまで虐げられ続けるんですか」
「なぜ止められないんですか」
「国民の命よりも大切な安保っておかしくないですか」
「どうしてこんなことが許されるんですか」
「どうしていつも沖縄なんですか」
「この国って何ですか」

 

「これからの日本」に開かれた道

「敗戦」という歴史的な事実と真摯に向き合うとき、①軍国主義国家権力からの解放、②人類絶滅の危機をもたらす核兵器からの解放、③人類最大・最後の敵である戦争からの解放という未来が見えてきます。敗戦というピンチを、日本は「国際平和のリーダー国」としてのチャンスに変えるよう、神に選ばれているのではないでしょうか。日本人は知的、精神的、道徳面において優れた民族であり、世界に平和を拡大する国として神も期待しておられると思います。それは、日本には、①世界唯一の平和憲法があり、②世界唯一の原爆の被爆国であり、③世界唯一の「平和の礎(いしじ)」があるからです。

「平和の礎」には沖縄戦で犠牲になった24万人余りの名前が大理石に刻銘されています。そこには軍人と住民との差別、男と女の差別、日本人と外国人の差別、敵と味方の差別さえなく、皆等しく「沖縄戦の犠牲者」として刻銘されています。それは、外国人や異民族が敵ではなく、地球より重い、尊い人間の命を平気で殺す「戦争」こそ、人類共通の敵である事実を今に語り、未来に伝えています。

 

「憲法9条」を再確認し、死守しよう

今年は戦後70年の節目に当たる年であり、イスラエル民族が70年間のバビロン捕囚から解放されたように、日本も戦争から解放され、平和外交に徹する恒久平和国家として新しく出発する時です。沖縄地上戦で見えたものは「軍隊は住民を守らなかった。基地は住民の命を危険にさらした」ということです。

慶良間(けらま)諸島の前島という小さな島に日本軍が陣地を造ろうとしたとき、当時の小学校の分校長が反対して基地を造らせなかったのです。間もなく米軍がやってきて、島に軍隊も基地もないことが分かると、そのまま通り過ぎていきました。そして、隣の渡嘉敷(とかしき)島に向かったのですが、そこには軍隊がいて、基地があったので多くの尊い命が奪われただけではなく、あの「集団自決」(強制集団死)という恐ろしい悲劇が起きたのです。

 

「平和をつくる」使命が日本国民にある

戦争推進のためにいかなる大義名分を設けても、戦争の実態は人間同士の殺し合いであり、最悪の悲劇です。かつての同盟国であったドイツは、過去の戦争を深く反省し、悔い改め、国旗も国家も変え、新生ドイツとなりました。現在、日本も憲法9条によって軍隊を保持しない平和国家であると世界に宣言しています。ですから日本は、米国に追従して戦争を世界に拡大せず、主体的に9条を盾に平和を世界に拡大する国家的器となるのです。それが、かつて琉球王国が旨とした「万国津梁(ばんこくしんりょう)」の魂であり、今日の沖縄県民の心です。全ては憲法9条が根拠です。ですから、この9条を変えようとする動きが強くなりつつある現状は、日本の危機です。この正念場に私たちは今一度ニーメラー牧師の叫びを聞きたいと思います。

 

マルティン・ニーメラーの言葉

ナチスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧したとき、私は不安に駆られたが、
自分はコミュニストではなかったので、何の行動も起こさなかった。
その次、ナチスはソーシャリスト(社会主義者、労働組合員)を弾圧した。
私はさらに不安を感じたが、自分はソーシャリストではないので、何の抗議もしなかった。
それからナチスは学生、新聞人、ユダヤ人と、順次弾圧の輪を広げていき、
そのたびに私の不安は増大したが、それでも私は行動に出なかった。
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。
そして私は牧師だった。
だから行動に立ち上がったが、その時は、全てがあまりに遅過ぎた。

 

国吉守(くによし・まもる)

1933年沖縄県に生まれる。沖縄戦で両親を失い戦争孤児となる。戦争体験を通してキリスト教に興味を持ち、教会に導かれ入信する。その後、献身し日本基督神学校(後に東京基督神学校)卒業。現在、那覇バプテスト教会主任牧師、善隣幼稚園園長、沖縄聖書学園理事長、「沖縄いのちの電話」理事長、特別養護老人ホーム「愛の村」理事長。


「命どぅ宝だよ」 知花くららの祖父に残る日本兵への怒り

2015-08-20 06:19:40 | 平和 戦争 自衛隊

 

 

「命どぅ宝だよ」 知花くららの祖父に残る日本兵への怒り

更新 2015/8/15 11:30

 

※イメージ

※イメージ

 終戦から70年が経ち、減っていく戦争経験者たち。モデルで国連WFP日本大使の知花くららさん(33)の祖父、中村茂さん(86)は、沖縄戦で米軍の捕虜となったひとりだ。当時、住民は「捕虜になるのは恥」だと教えられていたため、集団自決をしようとしたが、中村さんは生き残ったのだ。かつて戦場だった森の中を歩いていたとき、知花さんの背後で突然立ち止まって「生き残って申し訳なかったなあ」と言ったという。その意味とは。

*  *  *
 死ぬために逃げ惑った地獄から解放されホッとしたのだろうか、祖父ははじめて空腹に気づいた。そのとき米軍からもらったチョコレートの味が、今でも忘れられないという。

 これまで食べたことのない、ぜいたくな甘さが、空腹にしみた。15歳の少年の心は、揺れた。

「このチョコレートも缶詰も、自決してしまった親戚や友だちはもう食べることができない。同じように、おなかをすかしていたはずなのに」と。

「今でも、おいしいものを食べるたびに、分けてあげたかったなあと思うんじゃよ」

 祖父のその言葉を聞いて、私の中で長年思っていた、心のわだかまりがすっと消えてなくなった。「生き残って申し訳なかった」という、数年前に聞いた祖父の言葉は、自分こそ死ねばよかったという呵責(かしゃく)の念からではなかった。生きていることを今、後悔しているからでもない。

 戦争終結から70年経って平和に暮らしている自分。そしてあのとき亡くなった人たちの、あまりに短かった人生を思い、「自分たちだけ、本当にすまないね」と、祖父は心の中で手を合わせているのだ。魂が安らかにあるように、と。祖父は今も、むごい光景と、無念にも亡くなっていった魂とともに生きている。

 大きく一息ついて、祖父はまた、語り始めた。

「どうしてあのときあの日本兵たちは『死ぬなよ』と、ひとこと言ってくれなかったんじゃろうか」

 いつも穏やかな祖父が、珍しく怒っている。運命をともにする同志とさえ思っていた。戦争が始まるまでは、ときに言葉をかけあい、弁当を一緒に食べたこともあった。

 けれど、いざ米軍の攻撃が始まっても、日本兵の姿は見えず、いつの間にか住民に何も告げずにいなくなってしまったのだ。せめて一言、軍人としてではなく、同じ人間として「今、死んではだめだ」と言ってくれていたら。そうすれば、罪のない住民が自決で命を落とす必要などなかった。

 戦争の犠牲になった命は、もう戻ってはこない。怒りに見え隠れする深い悲しみは、きっとこれからも消えることはない。

「命(ぬち)どぅ宝だよ、くらら」

 祖父母はいつもそう言っていた。命こそいちばん大切な宝もの。今なら、その言葉の本当の意味が分かる気がする。祖父が、心の痛みを抱えながらも、つないでくれたこの命がいとおしい。

 二度と同じ過ちを繰り返さないために、今度は私たちの世代が語る番だ。70年前に起こった悲惨な歴史を、そして平和への思いを。

週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋

 

 


「バンザイクリフ」から女性が飛び降りる、しかし、その前に母親が自分の赤ん坊を海に投げるシーンが・・・

2015-08-20 06:19:23 | 平和 戦争 自衛隊

NEWSポストセブン

http://www.news-postseven.com/archives/20150817_342763.html?PAGE=2

「戦後70年の夏「2本のNスペが劇的な印象残した」と女性作家」より、引用

 

 8月7日、NHKスペシャルで放映された『憎しみはこうして激化した ~戦争とプロパガンダ~』。

 サイパン島でアメリカ軍に追い詰められた日本人女性が、高い崖から海へと、赤ん坊を放り投げる。その後続くように、自分も身投げする。画面が切り替わると、海面にはうつぶせになった赤ん坊が黒い固まりのようになって浮かんでいる。

「バンザイクリフ」から女性が飛び降りるそのシーンは、実はこれまで何度か見たことがあった。

 しかし、その前に母親が自分の赤ん坊を投げるシーンが存在していたことを、初めて知った。水面に赤ん坊が浮かぶ映像も、初めて見た。映像から受ける衝撃が一段と大きくなった。


2015/06/11 に公開

1944年7月の初頭、戦いは終わりに近づいていた。日本の女性は避難していた洞窟か­ら出始める。少数の兵士が降伏しながらも大多数は最後まで戦っていた。日本人はアメリ­カ兵に投降することを選ばず名誉ある死を選ぶことが好ましいとされていた。その結果、­民間人の多くが崖から飛び降りた。そのうちほとんどが女性だった。これは海兵隊によっ­て撮影されたその際の映像である。

 

 

画像byShoichiro IkenagaさんFB