異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

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【社説】 GDPマイナス 「この道」はどこへ続く (東京新聞)~アベノミクスの失敗を認めて・・・

2015-11-17 16:56:45 | 経済 金融

東京新聞 TOKYO Webhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015111702000158.htmlより転載

【社説】

GDPマイナス 「この道」はどこへ続く

 七~九月期の国内総生産(GDP)が二期連続でマイナス成長になったことは景気後退入りと判断されてもおかしくない。「この道しかない」としていたアベノミクスをこのまま続けていいのか。

 企業収益が上がれば投資や賃金が増え、消費が伸びて経済の好循環が起きる-。安倍晋三首相はアベノミクスこそ日本経済再生の切り札として「この道しかない」と繰り返してきた。

 このフレーズはとみに聞かなくなったが、それはそうだろう。企業は史上空前の最高益を記録しながら設備投資も賃金の伸びも限定的だ。好循環はどこにも起きていない。むしろ賃金が伸びず消費が増えないから投資を控える悪循環に陥っている。

 内閣府が発表した七~九月期の実質GDP(速報値)は、前期比0・2%減、年率換算で0・8%減だった。特に設備投資は企業が示してきた投資計画を先送りする「計画倒れ」に終わり、個人消費や輸出の回復も力強さを欠いた。

 企業の投資意欲が高まらないのは、中国など海外景気の先行き不安もあるが、何より日本経済の成長への期待が乏しいからだろう。なぜ成長期待が膨らまないのか。

 アベノミクスの第三の矢である成長戦略は、法人税減税や派遣法改正、さらに残業代ゼロ制度など経営者寄りの政策ばかり目指している。先の厚生労働省の調査でも明らかになったように、非正規労働は全体の四割を超え、経営者は理由について「賃金節約のため」とする回答が最も多かった。

 要するに低賃金の労働者が増え、その人たちを犠牲に企業や株主ら富裕層が潤う構図である。しかし、上から富が滴り落ちるトリクルダウンは空論にすぎないから、格差拡大が放任され、経済を支えるべき中間層も細る。これでは消費が盛り上がるはずがない。

 第一の矢の異次元緩和で実現し政権が胸を張る円安(円高是正)も、多くの大企業にとって収益を押し上げるが、企業数で九割、従業員数で七割を占める中小企業にとっては逆風である。

 二期連続マイナスは、誤った道を突き進むアベノミクスの当然の帰結である。わかったことは、自民党への企業献金あっせんを再開した経団連が要望する政策では経済は良くならないということだ。

 アベノミクスの失敗を認め、進む道を変える。最低賃金引き上げや、内部留保に課税したり賃上げを促す大胆な法人税改革など、すぐにも実行できる政策はある。

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                                                     テレビ画像by中島 よしふみFB憲法九条の会

 

 

 

 


誰が何を誤解しているのか?~放送と公権力の関係についての私見②~(是枝裕和)

2015-11-17 16:40:24 | 報道

KOREEDA.COMhttp://www.kore-eda.com/message/20151117.html より転載

MESSAGE

誰が何を誤解しているのか?
~放送と公権力の関係についての私見②~

2015年11月17日

倫理規範なのか 法規範なのか?
BPOの意見書発表から10日ほど時間が過ぎ、不当な「介入」「圧力」を指摘された公権力からの反論も一義的にはおおよそ出そろった感があります。
代表的なものをいくつか拾ってみましょう。
BPOが放送法の4条を「倫理規範」としたことに対して異論が目立ちます。
「放送法には規範性があり、違反があれば3ヶ月以内の業務停止命令ができる」(高市総務相)
「単なる倫理規定ではなく法規であり、これに違反しているのだから、担当官庁が法に則って対応するのは当然」「予算を国会で承認する責任がある国会議員が果たして事実を曲げているかどうかについて議論するというのは当然のこと」(10日の予算委員会での安倍首相発言)
「BPOは放送法を誤解している。NHKの調査報告書に放送法に抵触する点があったので必要な対応を行った」(菅官房長官)
お互いの主張は一件平行線をたどっているように見え、日頃あまり放送法について考えたことのない方々にはこうやって切り取られた言葉を「両論併記」されたものを見ているだけだと、どちらの意見が正しいのか、わかりにくかったかも知れません。
「〇〇VS〇〇」と対立を煽るような記事も数多く出ました。
意見書の中の政権の介入を批判した部分がスルーされるのではないか、という僕の危惧は良くも悪くもはずれたことになります。
僕自身は前回の私見をあくまで冷静に、感情ではなく理性に働きかけるようなものとして、誰かへの憎しみや軽蔑ではなく放送への愛を原動力にして書いたつもりでした。
なのでネット上で「抗議」とか「暴露!」などという煽りの見出し付きで紹介されたのはちょっと驚きでした。
今回の私見も又、前回同様の原動力によって書き進めていければと思っていますので、しばらくの間お付き合い下さい。

少しおさらいしてみましょう。
現行の放送法第4条には番組編集に当たっての4つのルールが記されています。

1. 公安及び善良な風俗を害しないこと
2. 政治的に公平であること
3. 報道は事実をまげないですること
4. 意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること

さて、このルールを「倫理規範」と考える態度、解釈は別に、僕やBPOが突然思いついたわけではなく、1950年の放送法制定時から今日までの間に積み重ねられた議論を受けているものです。
これに対し、この4つは法規範であり、放送人の守るべき義務であり違反すれば厳重注意等の罰(行政指導)を与え得る根拠になるのだという考えを持たれる方は菅官房長官はじめ、自民党の中に多くいることは当然知っていますし、その意味では今回の意見書に対する彼らの反応は「想定内」のものではありました。個人的にはさすがに菅さんが「誤解」という言葉を使われたことには驚きましたが。驚いたので私見のタイトルにしてみました。
この「私見」を最後までお読み頂くと、いったいどちらが「誤解」しているのかは、はっきりするのではないでしょうか、と多少挑戦的に前ふりをしておきます。
少なくとも2000年代初頭までは総務省はじめ、政権内でも表向きはおおむね共有されていたであろうこの4条を巡る「解釈」が菅官房長官が総務相時代の2007年あたりから、「あるある大辞典」の問題をきっかけに急に「倫理規定」から「罰則」へ大きくその解釈の舵を切り、監督権の強化を声高に主張し出したわけで、歴史の長さから言っても、主張の太さから言ってもあちらを正論ととらえこちらの「倫理規定」という主張を「誤解」と切って捨てるのはあまりに乱暴ではないかと思いました。
せいぜい頑張って「見解の相違」がいいところでしょう。
首相はともかく、少なくとも菅さんご本人はそのような放送と公権力との間で積み重ねられてきた放送法を巡る長い歴史については熟知された上であえてあのように振る舞っているのだと思います。
その目的は果たしてどこにあり、どこへ向かおうとしているのか?

放送法は憲法違反?
さて。この4条を倫理規定ではなく行政罰(指導)を伴う法規範だとする考えの問題点は、もし、このようなルールが「義務」であり、公権力の介入を正当化する根拠だと捉えた場合、すぐその前の3条に記された番組編成の自由や根本原則として1条に掲げられた表現の自由と齟齬を来すことを避けられない点にあります。
安倍首相は今年3月の衆院予算委員会で自身と自身の政策の放送での取り上げられた方に不満をもらし「不偏不党な放送をしてもらいたいのは当然だ」と述べました。
つまり1条に記された「不偏不党」も又放送局の義務だというお考えなのでしょう。
4条ならまだ準則を巡る解釈の対立ですみますが(もちろんこれはこれで大きな問題ではありますが)1条はこの法律の「目的」ですからね。
誤解のないようにもう一度確認しておきましょう。
「不偏不党」という文言が放送法に登場するのはかなり早く、1948年6月18日に国会に提出された放送法案に既に書かれています。
「放送を自由な表現の場として、その不偏不党、真実及び自律を保障すること」
翌1949年3月1日に再提出された案ではこうです。
自由な表現が行われる場としての放送の不偏不党、真実及び自律を保障すること」
憲法21条の表現の自由を実現する場所としての放送を保障する。
この表現なら、まさか後の時代の政治家も「不偏不党は放送局の義務なんだから~」などとは誤読しなかったと思うのですが。
最終的に閣議決定される段階でなぜかこの「~場として」という表現が削除されてしまったことで誤読を呼び込みやすくしてしまったんですね。
わざとそうしたのかも知れませんが。

しかしこの誤読を認めてしまうとそれこそ放送法自体が憲法違反になってしまいます。
ですから、質問に立つ者は対立するBPOの見解と、政府の反論をただ並列的に「両論併記」するのではなく、もし、4条を「義務」だと考えた場合、3条との又は1条とのそして憲法との整合性はどのように担保されるのかということくらいは重ねて問わないと何ら生産的な議論には発展しないと思われます。
案の定というか、国会での質疑も、いったい何を問いただそうとしているのかがぼんやりしていて、あれではBPOの批判に対して公権力の側に反論の機会を与えているだけのように見えました。
質疑自体がそもそも出来レースで、はじめからそれが目的だったのならともかく、何らかの言致をとろうとしたのなら何の成果もなかったと言わざるを得ません。あれでは放送と公権力を巡る国民のせっかくの関心をもう一歩深い理解へと導くことは出来ない。もったいない。いいチャンスなのに。
そして何よりあの場で語られていた言葉からは「愛」を全く感じませんでした。
放送への愛。
そんなものを求めるほうが間違っているのかも知れませんが、それが哀しくてたまらない気持ちになったことも又、今回もう一度ペンをとろうと思った理由のひとつでした。

政治的に公平かどうかを政治家が判断する?
放送の自由を保障する主体は公権力であり、「不偏不党」を放送側に義務付けるのはむしろ倒錯した態度なのだという認識は、正直もう少し広く共有されている常識だと僕は思っていました。
しかし、放送人の間からも「初めて知った。目からウロコだった」という反響を数多く頂いて(書いて良かったな…)と思う反面(こりゃ公権力につけこまれても仕方ないや)とも思ったのです。

せっかくですから4条についてもう少し考えてみましょうか。
ここは“あえて”政府側の主張に乗っかって4条を法規だという前提に立ってみることにしましょう。あくまで、あえて、ですが。
わかりやすいので先ほど触れた4条の2。「政治的に公平であること」を中心に例にとります。政府が主張するようにもし、この「ルール」が作り手の義務であり、行政指導の根拠になり得るとした場合、一体誰が何を規準にしてこの政治的「公平」をジャッジするのでしょう?
「公平」ですよ。考えてみて下さい。
例えば60キロの制限速度の道路を80キロで走ったらそれはルール違反で罰金をとられても文句は言えないでしょう。しかし「危険だ」という判断は、はなはだ感じる側の主観的な理由を根拠にしており、これで切符を切られたらドライバーはたまったものではないでしょう。
しかもこの放送法の場合本来政治をチェックする使命を担っている放送が政治的に公平であるかどうかを総務相に代表される政治家から判断されるわけです。

ん?政治家が政治的公平を判断するのか?何を基準に?自身の政治信条を?だとすると政権が交代するたびにこの「公平」の基準は変化することになるけれど放送が義務違反にならない為にはその度に時の政権に合わせて政治的なスタンスを修正することになるが、…それで良いのか?
こんな御用聞きのような態度はそれこそ「他律」になってしまうけれどそうすると今度は1条の「自律」に違反することになってしまうが。果たしてそれで良いのだろうか?
これはちょっと考えたらおかしいと思うのが普通です。
現実的にはほとんど政権交代が起きないので表面化していないだけの話です。
僕はやはりおかしいと思ったのです。
1条と4条がひとつの法律の中に共存しているのは。
「法規範」「義務」だと捉えるのは先行する3条や1条や憲法との整合性を考えたら自己矛盾度が高すぎて到底無理ですが、「倫理規範」という考え方だって正直に言えば憲法との整合性を優先したかなり無理筋の解釈だと個人的には感じています。
だからこそ「~と捉えざるを得ない」という文脈にならざるを得ないのです。
だから、調べてみました。
なぜここに「政治的公平」が記されることになったのかを?
さて、ここからが今回の私見の本題になります。

4つの「規律」はどのようなプロセスで決められたのか?
多少、歴史の授業のようになることをお許し下さい。
でもとても面白いです。きっと。

先程ちょっとだけ紹介した1948年の「放送法案」の中でこの「規律」は「原則」として次のように掲げられています。
その一部を紹介します。

一 厳格に真実を守ること。
二 直接であると間接であるとにかかわらず、公安を害するものを含まないこと。
三 事実に基き、且つ、完全に編集者の意見を含まないものであること。
四 何等かの宣伝的意図に合うように着色されないこと。
五 一部分を特に強調して何等かの宣伝的意図を強め、又は展開させないこと。
六 一部の事実又は部分を省略することによってゆがめられないこと。

まだこの中には「政治的な公平」は含まれていません。もう少しお待ち下さい。
驚いたことに、これは当時、GHQが日本の放送を検閲する為に準則にしていた「ラジオコード」のほとんど完全なコピペです。パクリ。
自らが厳しく求められていた不自由さの元凶である占領軍の検閲を転用し、今度は自らの手で放送の自由をしばろうという…吉田茂内閣の目論みはそのGHQ自身によって却下されるという何とも皮肉な結果になります。
その理由は次のようなものです。
面白いのでちょっと長いですが引用します。

この条文には、強く反対する。
何故ならば、それは憲法第二十一条に規定せられている「表現の自由の保証(原文ママ)」と全く相容れないからである。」
現在書かれているままの第四条を適用するとすれば絶えずこの条文に違反しないで放送局を運用することは不可能であろう。
反対の側から言えば、政府にその意志があれば、あらゆる種類の報道の真実あるいは、批評を抑えることに、この条文を利用することができるであろう。
この条文は、戦前の警察国家のもっていた思想統制機構を再現し、放送を権力の宣伝機関としてしまう恐れがある。
――これは、この立法の目的としているところは、正反対である。

(『資料・占領下の放送立法』(東京大学出版会)P.207~「放送法案に対するL.S(G.S)の意見」より)

これは67年も前に書かれたものですが、このGHQの危惧した通り、結果的にこの4条は何度も姿、形を変えながらゾンビのように甦り、放送法の中に確かな地位を占めてしまうことになるんですが、その件に関しては又後で触れます。
こうまでGHQにダメ出しされてさすがにゴリ押し出来なかったのか、ここで一旦、政府は4条を削除します。翌49年10月2日閣議決定されることになる放送法案の総則の中にはありません。
しかし、44条という、日本放送協会、つまりはNHKのみに適用する前提で記された条文の中にこっそり「事実をまげない」という一行を加えるのです。

(放送番組の編集)
第四十四条 協会は、放送番組の編集について、公衆の要望を満たすとともに文化水準の向上に寄興するように、最大の努力を拂わなければならない

2 協会は、公衆の要望を知るため、定期的に、科学的な、世論調査を行い、且つ、その結果を公表しなければならない。
3 協会は、放送番組の編集に当たっては、左の各号の定めるところによらなければならない。

一 公衆に関係がある事項について、事実をまげないで報道すること。
二 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
三 音楽、文学、演芸、娯楽等の分野において、最善の内容を保持すること。

(政治的公平)
第四十五条 協会の放送番組の編集は、政治的に公平でなければならない。

2 協会が公選による、公職の候補者に政見放送その他選挙運動に関する放送をさせた場合において、その選挙における候補者の請求があったときは、同一の放送設備により、同等な条件の時刻において、同一時間の放送をさせなければならない。

引用したこの条文のポイントは3つあります。
1つ目は、これがあくまでNHKに限って定められようとしている準則であるということ。
2つ目はのちに格上げされますが「事実を曲げない」という準則は、「音楽や、娯楽の分野において最善の内容を保持する」という準則と並べられており、これは明らかにこの段階ではとても罰則を伴う法規範ではなく、44条の1に記されている通り「~最大の努力を拂わなければならない」という努力目標、つまりは倫理規範(にすぎないもの)で あった点。
だってこれが罰則で、もし実現できないと放送法違反を問われるのだとしたら、例えばセンスの悪い音楽を流したり、笑えないコントを放送したら処罰されちゃうんですから。
そして、3つ目。
すぐ下の45条にようやく登場する「政治的公平」は、もともとはそのあとに説明されている通りNHKの政見放送を巡って記されたものに過ぎなかったということ。以上です。

1つ目のポイントについて多少補足説明をすると、民放に関してはこれらの準則には全くしばられることがないことになっていて法案担当の電波監理長官だった綱島毅が国会答弁でその理由について次のように説明しています。

「民間放送につきましてはあくまでも自由闊達に、のびのびと事業の運営をやるべきである。
そのほうがわが国における今後の民間放送の発達のために非常に必要であり、またそれが適当であるということからいたしまして、民間放送の発達を考えまして、わざわざ条文において事こまかく書かなかったのであります」

にも、関わらず、この長官の発言からわずか1ヶ月後。1950年の4月になって突然、本当は突然ではなく恐らくこのタイミングを狙っていたのでしょうが、準則は次のように変更されます。

◯放送法案修正案(1950年4月7日)
(第二章 日本放送協会)
第四十四条第三項を次のように改める。
3 協会は、放送番組の編集に当たっては、左の各号に定めるところによらなければならない。
一 公安を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

(第三章 一般放送事業者)
第五十三条
第四十四条第三項の規定は一般放送事業者に準用する。

現行法につながるこの4つの出自をもう一度ここで確認しておきましょう。
1の公安を害しないことはGHQの日本占領政策の検閲として定められたラジオコードであり、GHQに時代錯誤だと一旦却下されたものです。
2の政治的公平は先述した通りNHKの選挙放送のルール。これは、「政治的公平」がこの準則に格上げされると同時に8ページで紹介した第45条の見出しから(政治的公平)が消え(候補者放送)に書き替えられている事実から明らかでしょう。3と4は「センスの良い音楽を流してね」と言った条項と並べられていた努力目標。つまり倫理規定。
どれひとつとってもそれまでに、これを将来的に放送従事者に義務規定として求める前提で議論を重ねたことのない寄せ集めの鬼子のようなものばかりです。
大切なので表にしてみましょう。

1 公安を害しないこと (GHQのラジオコードのパクリ)
2 政治的に公平であること (NHKの政権放送の一般放送へのルールの拡大転用)
3 報道は事実をまげないこと (文化水準の向上に寄興するための努力目標)
4 意見が対立している問題については
  できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること
(同上)

 

今、現在、政府が倫理規範ではなく法規範でありこれに違反したら放送法の義務違反を問い、罰則規定まで求める基準として揚げている規律の出自と実態とはこのようなものです。
しかも、明らかに趣旨が違う、つまり位相の違うこの4つのルールがなぜ一律に並べられているのか国会の場では何ら説明すらされていません。
しかも続く第三章に一言「一般放送事業者に準用する」と書き加え1ヶ月前まではNHKのみに、と説明されていたこれらの準則をここで突然民放にも適用を決定するというだましうちのような展開をみせるのです。

「担当官庁が対応するのが当然」であるという誤解
さらに重要なことがもうひとつあります。
それは、これらの準則含め、放送法によって放送を監督する主体、つまり法案の主語は、この時点では「公権力」ではなかった点です。
前回の私見でもちょっと触れましたが、この1950年に制定された電波関連三法の中には「電波監理委員会設置法」というものがあります。
ご存知の方も多いかも知れませんがあえて説明をすると、やはりこれもGHQの意向を受ける形で「放送」を権力の直接的な影響下から切り離すという日本の民主化の一環として開設された独立行政機関でした。
審議の中で政府委員は、この行政委員会が政府からは独立した組織として提案された理由をこう述べています。

「第1に放送の規律がきわめて公平に行われなければならないこと、
 第2、そのためには一党一派、その他一部の勢力の支配から分離したものでなければならないこと。
 第3にその機関の政策には相当長期にわたって政変等によって容易に変動しない恒久性を持たせるとともに、
 時代の変遷に伴って漸進的に改まって行く改変性をも興え得るように(以下略)。」
(1950年3月8日衆議院電気通信文部委員会連合審査会での電波監理長官 綱島毅の答弁より)

なるほど。昔の人は偉かったな。
これなら僕も半分くらいは納得します。
もちろんこの委員の任命権は議会の承認を受けて総理が行うものでしたが委員会のメンバーからは国会議員や政党役員は排除されるという政治との距離についてはとても厳しいルールを持ったものでした。
しかしよく考えれば当たり前ですよね。だって「政治的公平」を判断する組織なんですから。
つまりこの時点では政府与党に放送局に対する監督権が与えられていたのではないのです。逆です。 
ここは大変重要です。忘れないで下さい。
放送局の監督権つまり現在4条に記されている政治的「公平」を判断する主体からは政治家も政党も厳格に排除されていた。政治家が政治的公平を判断するのは「不公平」だと思われていた。そのほうが当然だったわけです、昔は。恐らく今も、世界では。
これは僕の推測ですが、政府から独立したこの「電波監理委員会」設置と、4条の「規律」条項の実質的復活がバーターとして取り引きされたのではないか。GHQと政府の間で。このあたりの事情については僕の手元にある資料を読んでもよくわからない。すみません。誰か詳しい人がいたら教えて下さい。次の私見に反映させます。
まぁ、そんな僕の憶測はともかく、少なくとも、ここで掲げられた政治的「公平」は仮にこれを倫理規範ではなく義務と捉えるにせよ規律を監督する組織は前提として政府から切り離された第三者委員会だったということです。いいですか?大切なので何度でも繰り返します。
つまり、3条に記されている「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されない」。
これは戦前への反省からもともとは軍部の放送への介入を戒めたものですがここで触れられている干渉したり、規律を求めたりする権限を有していたのは「電波監理委員会」のみだった。だからこそ「電波監理委員会設置法」の4條権限の20に「電波を監視し、及び規律すること」と明文化されているのです。
放送に規律を求めることが出来たのは首相でも大臣でも、官房長官でももちろん一党一派に過ぎない「情報通信戦略調査会」でもなかったという事実は是非覚えておいて下さい。

監督権はどのようにして公権力の手に奪い返されたのか?
にも関わらず、です。2年後、さらに大きな悲劇が放送法を襲います。
ここからが今回の私見の最大のポイントです。1952年。GHQがいなくなると当初からそこまで放送を民主化したくなかった政府はこれ幸いとばかりにGHQのありがたくない置き土産だった電波監理委員会を廃止し、その監督権を政府の手に取り戻すわけです。
つまり、「規律」の内容はそのままに判断の主体だけを政府(郵政省)に置き変えてしまった。
放送という私たちの社会の公共財を公権力の直接的な支配から守るために作られた法律、制度です。
法律の趣旨を踏みにじるというか、180度逆転させてしまうようなそんな書き換えが良く許されたなと正直驚きを禁じ得ません。
まぁ、よっぽど放送というものが他人(国民)の財産になるのが嫌だったんだと思いますが、GHQが目をそらしたすきに、「公安」というキーワードを復活させ、NHKだけだからと嘘をつきながら、政見放送の約束を格上げにし、努力目標を並べたあとに民放へ適用を拡大し、第三者委員会の管理だからと言っておいて2年で反古にする。
これが、公権力が一度手放した放送を巡る権益を、自らの元に取り戻すまでの嘘でぬり固めたプロセス(歴史)です。
これは、解釈とか、誤解などといった批判、反論を挟み込む余地のない歴史的な事実です。
どうでしょうか。少し見え方が変わったでしょうか。
これで放送法にも当然たたえられているはずの憲法の精神や、表現の自由、検閲の禁止と全く相容れない4条の「ルール」が放送法の中で共存してしまった理由に合点がいきましたでしょうか。
このような経緯で手にした権益であることを知ってしまうと「監督官庁ですが何か?」「政治家が公平を判断するのは当然だ」などと澄まし顔をされると、何か皮肉のひとつくらい言ってやりたくなる。
そんな僕の気持ちを少しはご理解いただけるかと思います。

例えは悪いですが火事場泥棒のような?このような姑息で卑怯な詐欺に近い継承の仕方で手にした監督権をあたかもその法律の制定された当初から自明のものとして手にしていた「当然」の権利だと政府は途中から振る舞い始めたわけです。まさにGHQが予言した通り政府が「あらゆる種類の報道の真実あるいは、批評を抑えることに」「この条文を利用」し、「戦前の警察国家の持っていた思想統制機構を再現し、放送を権力の宣伝機関としてしまう恐れ」が今、現実のものになりつつある―――と言ったら言い過ぎでしょうか?

「停波の権限は本当にあるのか?」
「我々には停波の権限がある」と、与党の政治家は声高に主張します。ここでちょっと目先を変えて放送法違反の「罰則」について少し考えてみましょう。当初政府は、のちの4条に記した「公安を害さない」という規律に呼応する形で第6章(罰則)の第88条の3に「第4条3項の規定に違反した者は、五千円以下の罰金に処する」と明確に記していました。 しかし、GHQのダメ出しを受けてこれを削除します。法案制定直前の修正によって「公安」は条項に復活しますが、この罰則は削除されたままになるんです。これは広く知られた事実ですが、放送法には規律準則を巡る53条にNHK職員が職務に関して賄賂を収受した場合等についての罰則は記されていますが、その他には罰則が存在していないんです。
ここからは僕の推論です。専門家の方の助言、批判をお待ちしますが、一応私論を展開しておきますね。
現在政府がしばしば口にする罰則としての「停波」という表現は放送法ではなく電波法76条にこう記されていました。
「電波監理委員会は、免許人がこの法律若しくはこの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは三箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ(以下略)」「その免許を取り消すことが出来る」これが、私見の冒頭で紹介した高市総務相の発言の根拠になっている部分ですね。
これは1993年のいわゆる「テレビ朝日椿発言」事件の時に取り沙汰された「免許取り消し」の根拠にもされた法律です。
しかし、です。遠過ぎませんか?普通に考えて。だって、放送法の4条と電波法の76条ですよ。これが果たして本当にフリとウケのように規律と罰則として呼応しているとは僕には全く思えないんですよ。そもそも放送法は番組の内容に関するソフトを巡る法律で電波法は明らかにハードですよ。周波数がどうしたとか船舶や航空の無線がどうしたとか。ここで取り締まられているのは主には無免許のラジオ放送についてであって、やはりこのハードの罰則をソフトの規律違反に転用しようというのは相当無理筋だと思うんですよ。そうしてでも「椿発言」を何とかこらしめる根拠が欲しかったんだと思いますが。
つまりですね、公権力はいろんな手を使ってメディアコントロールの手がかりになる規律は条文に潜り込ませることに成功したが、残念ながら放送法に規律違反に関する罰則を記せなかった。(自由を保証する主体が公権力だから、当たり前と言えば当たり前)だから、ハードの罰則で対応するしかなかった。
だからこそ、最近になってからの法改正で、この76条の「免許人がこの法律」のあとに「放送法」と3文字書き加え無理矢理「規律」と「罰則」の距離を近づけようとしたんだと思うんです。「規律」の出自がいい加減なのと同じくらいこの「罰則」もかなり怪しいなぁと僕は感じています。

罰則を巡る攻防?暗躍は今も続いています。
2007年に当時総務相だった菅さんを中心にまとめられた放送法改正案が国会に提出されました。
ここには4条の3の「報道は事実をまげないですること」を根拠に、「事実ではない事項を事実であると誤解させるような放送により国民生活に悪影響を及ぼすおそれ等があるものを行ったと認めるとき」は行政処分を行うという新たな案が盛り込まれました。
ここにはドラマやバラエティなどの再現ドラマも対象に含まれると記されています。
しかし、この事実か事実でないかの認定は放送事業者の自己申告を前提にするという条件付きです。
一見「自律」を保障しているようにも読めますが、「自白の強要」のようなことが行われるのではないかという懸念の声が上がって、菅さんも一旦抜きかけた刀をサヤにおさめた形になっています。
ただ、少なくともこの時点までは菅さんをはじめ総務省も、法改正というプロセスを踏まないとこれ以上の規制を放送に加えることは不可能だと思っていたのです。
しかし、ここ数年に渡る現政権の一連の放送への介入はそのプロセスをすっとばし放送法を、その精神を解釈の強引な変更によって押し切ってしまおうという姿勢が顕著です。
つまり、放送法は運用でいくらでもハンドリングできると考え始めた。
どこかで聞いたような手口だとは思いませんか?

隠蔽され、忘却された前史
テレビと公権力の関係は本来どのような形を目指していたのか?
そして、何が間違って今のような歪んだ形になってしまっているのか?という歴史について私たちは知り、その上で未来を考えなくてはいけません。
強引な既成事実の積み重ねによって書き換えられてしまった現行放送法下での表面的な正当性はともかく、彼らが主張する「監督権」とはこのような、正当でも全うでもない出自をその前史として持つものです。そこに目をつぶってしまうと判断を誤ります。
100歩譲って(譲りませんが)「政治的公平」が放送局の義務だとしても、その「公平」を判断する組織が前述した通り政府から独立した第三者機関であるならばまだ理解はできます。
外国の例を見ても日本よりずっと厳しい罰則を伴う契約を放送と非政治的な第三者機関との間で結んでいる例も数多くあるはずです。
だってそもそも、日本の放送法もそのような契約を前提として作られていたはずの法律なんですから。
4条を「倫理規範と捉え、それを理由に行政指導は極力行わない」という珍しく節度ある態度を総務省(郵政省)がとり続けて来たのは、もちろん、放送法1条や憲法との整合性を真摯に検討した結果であると同時にこの、「監督権」を第三者機関から横取りしてしまった歴史に対する「負い目」、「罪の意識」から来ているのではないか?
それを自覚していたからこそ4条というメディアコントロールの手綱を自ら握り直した後もある程度は節度ある対応をしてきたのではないか?と僕はちょっと文学的に考えて来ました。
今、その抑制された自己認識や自省的な歴史認識が公権力の側から急速に失われているのです。
「歴史修正主義」の波が、ここにも押し寄せているということなのでしょう。

野党?の政治家の皆さんは是非このような放送と公権力の歴史的な経緯を踏まえた上で国会での質疑に臨んでもらいたい。あなたたちが、党利党略ではなく、私たちの代表として、私たちの共有財産である放送と、公権力の歪んだ関係を真に憂いてそこに立っているのであれば。

この出自と入籍を巡って放送法が本質的に内包するに至った「ねじれ」を解消する為には、2つの方法が考えられます。
もし、4条をあくまで放送人の義務であり行政指導の根拠だとするのであればやはり1950年当初この法律が計画された通りに主語を当事者である公権力から第三者機関に変え、少なくとも政治的公平性をはじめとする「規律」についての判断は「政府」(政治)からは切り離す形(離婚)に戻すべきです。
もし、そうできないのであれば政府自らが適切とは言えない形で手にした権限の行使は最小限にひかえ、放送局の自主自律にゆだねる(別居)―――という以前の態度に戻るべきです。
つまり、公権力と放送の適切な距離を65年前のように物理的に離すか、法解釈によって従来の距離感を保つのか。
ふたつにひとつなのではないでしょうか。そのように「公権力」と「放送」がお互いを牽制し合いながらしっかりと対峙することこそ、「健全な民主主義の発達に資する」という放送法1条の目的に合致する姿だと思います。

放送についての「誤解」
ここ数年の公権力と放送の不適切な関係を真近で見ていて思うのは放送は一体誰のものなのだろうか?ということです。
政府は明らかにNHKをはじめとする放送を自分たちに都合の悪い情報を排除した公報機関に位置付け、公共(パブリック)から国家(ナショナル)へ取り戻そうとしていますし、一部の放送局も又、(本当に情けないですが)そのような関係の押しつけを自ら進んで、もしくは「免許事業だから」といった言い訳とともに甘んじて受け入れているように思います。
今回のBPOの意見書を巡って繰り広げられている議論があくまで新聞中心であり、多くのテレビは当事者意識の欠如した沈黙を、この期に及んでも守っている(スルーしている)ように感じるのは僕だけではないはずです。
11月10日に開かれた民間放送全国大会で民放連会長がその挨拶の中でBPOの意義について触れていただいたのは心強いですが、本来であれば自らの「自主自律」を脅かすような発言が異例な頻度で繰り返されていることに対して、NHKと民放連、もしくは全国の民放各社の連名で公権力に対して抗議の声明をとっくに出していてしかるべきだと思っています。
メディアスクラムとは、誰もが当然叩いていいと思っているような相手に対してではなく、こういう時にこそ組まれるべきものなのではないですか?
今回のやりとりの中で、政府関係者の中からあたかも放送が我々公権力の所有物であるとでも言うかのように「権限」という言葉が繰り返し使われました。
「みなさまの大切な電波(放送)を預かっている」といった、昔はよく耳にしたフレーズを最近聞かなくなったのは僕の耳が遠くなったからではないでしょう。ここには公権力の側にそして放送(局)の側にも放送という社会の共有財を巡っての大きな「誤解」があるのではないかと思います。
「放送」は私たち主権者のそして私たちの社会の「共有財」です。
この認識がないがしろにされてはいないでしょうか?
これが「放送」を巡る最大の誤解だと思います。

今回の私見も先行する多くの研究者や放送人の真撃な努力の上にのっからせていただいて、ここまで書いて来ました。そんな先輩たちに心から感謝します。
あと、忘れてならないのはこの私見の為の資料集めと、たび重なる書き直しに惜しみない協力をしてくれた「分福」スタッフのみなさま。ありがとうございました。
時期は定かではありませんが、恐らくこの私見は、今後も続いていく事になるだろうと思います。
自分を育ててくれたテレビを僕はまだ諦めてはいないので。

恐らく僕のペンが次に向かうのは少なくともこのような形で「不偏不党」を保障されて「自主自律」を求められていながらその厳しさを受けとめることも出来ず、考え続けることを停止し、自ら萎縮し、他律を求め始めている「放送」そのものに向かわざるを得ないでしょう。
そこにはテレビを主に表現の場と生活の糧にして来た僕自身をも含まれるべきだと考えています。(もちろんBPOも!)
放送への愛が強過ぎて当初の予定よりかなり長くなってしまいました。
最後まで読んでいただいた皆さま、ありがとうございました。
テレビのことは忘れませんがしばらくの間本業である映画監督の仕事へ戻ります。
また。

是枝裕和

参考資料)
「「電波監理委員会」はなぜ葬られたのか!?」 松田浩(「GALAC」2000年10月号)
「GHQ放送政策裏面史」内川芳美(同上)
「放送法「番組準則」の形成過程」村上聖一(「放送研究と調査」2008年4月号)
「すべてを疑え!! 放送の歴史「放送法制定までの経緯」1945~50 坂本衛   他

 

≪関連≫

BPO副委員長として、是枝裕和監督の渾身の投稿 「放送」と「公権力」の関係について~公表を受けての私見

 

 

 

 


安倍首相が臨時国会召集見送り。都合が悪いと憲法違反、国会無視 !!

2015-11-17 15:33:20 | ご案内

※もう独裁制性の先取りだ!憲法も国会も無視する安倍首相!!

Everyone says I love you !

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/97392cf2772e3f99e1b40143d123d7d6 より転載

安倍首相が臨時国会召集見送り。都合が悪いと憲法違反。枝野幹事長の「どこの独裁国家だ」は正しい。

2015年11月17日 | 安倍自民党の危険性

 

 安倍首相が2016年11月16日、G20で訪れていたトルコで記者団、野党側が求めている臨時国会の召集を見送ることを表明しました。

すみません、本題と全く関係ないんですが、また隅っこに写ってるのが「日本のゲッペルス」こと世耕弘成内閣官房副長官。「安倍 背後霊」でググるとずら~~っと画像が出てきます(笑)。

自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC ネトサポ)のネット世論誘導 ネトウヨその世界5


この記事の写真でも背後霊していたのが猛烈に気になっていたのに突っ込めなかったので、あえて今回やっと(笑)。

20151023004504iuou4.jpg

安倍首相、憲法には「臨時国会を召集しなければならない」と書いてあるのに、何を与党と相談するのですか?



 これに対して、民主党の枝野幹事長が

「安保法案に続いて、2度目の憲法違反であるし、国会を召集しないという憲法違反は、どこの独裁国家だ」

と突っ込んだのには、不覚にも虚をつかれました。

 都合が悪いと、臨時国会の召集を決定しなければならないと規定している憲法も無視して、国会を開かない。

 確かにこれは民主主義国家ではありえない、どっかの悪い独裁国家しかやらないことです。

 今までは。

憲法第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

 

 

 安倍首相は臨時国会を開かない理由として

「経済をしっかりと成長させていくために、早期に補正予算案を国会に提出し成立を図る必要がある。

 しかし、今月末からパリで開かれる地球温暖化対策を話し合う国連の会議、COP21への出席など、今後の外交日程、来年度の税制改正、ならびに補正予算案や来年度予算案の編成作業を考えると、年内の国会召集は事実上困難であると判断せざるをえない」

と言ったというのですが、補正予算案なんて毎年毎年出しているものですよ。それを理由にしたら臨時国会なんて今までも絶対に開けてこなかったはずじゃないですか。

 臨時国会を開いたら、補正予算案や来年度の予算案を作れないのだとしたら、それは無能の証明であって、臨時国会を開かない言い訳になんてなりません。

本音はこれでしょ!

 

 また、確かに予算作成は内閣の権限ですが、憲法は第73条5号でこう規定しています。

第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。

5 予算を作成して国会に提出すること

 そして、第60条で予算は国会で審議し、議決されなければならないとされています。

 安倍政権は、臨時国会を開かない理由に外交日程を挙げていますが、同じく憲法73条は第2号、3号でこう規定しています。

2 外交関係を処理すること。

3 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。

本会議が開けず、法案・予算案・条約などの採決ができない閉会中審査は、憲法上はもちろん実質的にも臨時国会の代わりにはならない。

 

 

 このように、パリで開かれる地球温暖化対策を話し合う国連の会議であるCOP21でなんらかの条約が締結されても、条約・協定は国会が承認して初めて発効するのです。

 なぜなら、国会は国民代表機関で、国権の最高機関だからです。

第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。

 

国会軽視は、憲法の3大原理である国民主権にも反する。

 

  予算や外交を理由に国会をおざなりにしていいわけがないのです。TPPも甘利経済再生担当相が行っていたでしょ。COP21は環境大臣が、APECは外務大臣が行ったらいいんです。

 とにかく、国会は、民主主義国家においては、時の政権の都合に合わせて開いたり開かなかったりして良いものではないのです。

 しかも、安倍内閣が来年の通常国会を早めに開く理由は

「通常国会の会期は150日間で、来年6月1日が会期末。この場合、来夏の参院選の投開票日程は、公選法の規定で「6月9日公示、同26日投開票」から「7月7日公示、同24日投開票」まで五つの日程を選べる。参院選日程などで選択肢を確保しておく狙いがある。衆参同日選の可能性も視野に入れていると見られる。」(毎日新聞

 結局、自分の選挙対策じゃないですか。

安倍政権にとってはやりたくないことかもしれないけれど、これだけ議論しなければならないことが山積なんです。

 

 

 これほどまでにご都合主義で、国会軽視の政権は日本国憲法史上初めて。

 なにしろ、1年間に臨時国会も特別国会もなく、通常国会しか行わない内閣は、戦後初めてです。

 つまり、こんなに憲法無視で、こんなに働かない内閣は今までなかったんです!

 こんなことでいいと思いますか、皆さん。

臨時国会招集を要求しないおおさか維新、次世代、元気、新党改革は自民・公明と共に議員歳費を返上すべき

安保法案審議の際にも、まだ法案が国会に提出される前から防衛省が自衛隊運用計画を立てていたことが判明し、国会軽視も甚だしいと大問題に。

自衛隊の統合幕僚監部が、中谷防衛相も知らない間に、戦争法案成立を前提に自衛隊運用計画を立てていた!

 

 

安倍首相のヤジ将軍ぶりも、安倍首相の国会審議軽視の現れ。

「自民の党と安倍晋三と不愉快な仲間たち」の戦争法案暴言・珍言・迷場面集。

 

 

関連記事

産経新聞、内閣法制局長官が「臨時国会召集しなくても違憲でない」と答弁している、と「誤報」。

 

つまり、安倍首相のあり方、やり方が全部立憲主義破壊なんですね。

 

 


特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に 哲学者・西谷修さん(毎日新聞)

2015-11-17 15:22:56 | 平和 戦争 自衛隊

特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に 哲学者・西谷修さん

毎日新聞 2015年06月04日 東京夕刊

 

 ◇隷従を拒み「非戦」貫け

 「私のところに来るなんて、何か間違えたのかな?」。「座敷ろう」と自ら呼ぶ細長い研究室で顔を合わせた途端、いたずらっぽい笑みを浮かべた。謙遜か、それとも「私の言葉を活字にするだけの気概を持っているか」と問いかけるジャブか。

 のっけから厳しい政権評は、どうも後者らしいと思わせるに十分だった。「犬について議論をする時、『それは犬だ』という共通認識がない限り、コミュニケーションは成立しません。だが彼らは『明日からは猫だ』と言う。これは解釈ではなく、意味の取り換えです。そうやって憲法を無視しても、それを止める方法はないと見切ったうえで、ぬけぬけと一線を越えている。これまでのどの自民党政権もやらなかったことです」

 集団的自衛権(日本と関係の深い国が攻撃された時に反撃する権利)の行使を禁じていた憲法9条の「解釈変更」しかり。国是の「専守防衛」についても「相手から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使する」とした従来の定義に対し、安倍晋三首相は「我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険。これを防衛するのは、まさに専守防衛だ」と主張し始めた。

 それもこれも「切れ目のない安全保障体制」を構築するためだという。西谷さんには「亡国の道」にしか見えない。

 「テクノロジーの発展とグローバル化の中、利害が複雑に絡み合った大国同士の戦争は起きにくい。米国が求めているのはテロとの戦いを手伝ってくれる国です」。国家間の戦争ならば、お互いの行為に責任を持つ一応のルールがある。それは無秩序な暴力を抑制する知恵だ。

 しかし、対テロ戦争はその仕組みを壊して始まった。自国兵士の犠牲を減らすために無人機が使われ、1人のテロリストを殺すために周囲の人たちを巻き込む「コラテラル・ダメージ(戦闘による民間人被害)」が頻発している。攻撃する側は無人機の映像を見るだけだが、煙の下では地獄絵図が展開する。生き残った人々は米国を憎み、新たなテロリストが生まれる。「対テロ戦争には停戦も和平もない。やればやるほど泥沼化し、日本もそこに巻き込まれる」

 それは国家も汚染する。米本土は爆弾テロにおびえ、国民への監視を強める。「テロリストは撲滅すべき存在であり、何をしても許される。気に入らない、邪魔なやつをテロリストと呼ぶようになる。国会前で特定秘密保護法反対を訴える人たちを『テロと変わらない』とブログに書いた石破茂氏のように」

 「田舎者」と自称する。愛知県の中山間部で育ち、東京大法学部に入ったものの、明治以来の近代日本の学問を引っ張った中江兆民や、坂口安吾、大江健三郎につながる仏文学の潮流にひかれ、卒業後に東京教育大仏文科に入り直した。しかし、仏文のいわゆるハイカラな空気になじめず、仏政府の留学試験を受けてパリ第8大学へ。帰国後は週刊誌のアルバイトなどを経て、大学で仏文学や思想哲学を教えるようになった。

 「世界戦争の時代の人間の条件」や「死」をテーマとする20世紀の仏思想を土台にテロや戦争、沖縄、原発問題などを論じてきた。国会前の集会や、学者の集まりである「立憲デモクラシーの会」「普天間・辺野古問題を考える会」にも参加する。その中で16世紀仏の人文学者、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530〜63年)の「自発的隷従論」の重要性に気づき、2013年11月発行の、ちくま学芸文庫(山上浩嗣訳)で監修を担当した。圧政は支配する側の力で維持されるのではなく、むしろ支配される側の自発的な隷従によって支えられるとする小論だ。「この論の肝は、権力構造の秘密は近代以前も以降も基本的に同じだと言い当てたことです。戦後日本への理解を深めるために、ぜひ出したかった」

 一人の最高権力者に対して、取り巻きがこびへつらい、歓心をかうことで、権威と権力を借りて他の者たちを圧迫しようとする。その取り巻きをさらに取り巻きが囲む。圧政に寄生し、利益を得る無数の隷従者に支えられたシステムである。戦後、日本の統治者たちも、米国にいち早く「隷従」することで身の安泰を確保してきた。その代表例として、A級戦犯容疑者でありながら巣鴨プリズンから解放されて首相になり、新日米安保条約を成立させた安倍首相の祖父・岸信介氏を挙げる。

 近年、中国の台頭を受け、ますます米国に頼らざるをえない状況が生まれている。今また岸氏の孫の安倍首相が、米国の言うままに医療や農業の市場開放を図り、自衛隊の海外派兵を進めるとみる。「4月の米国議会の安倍首相の演説が評価されたのは、安保関連法案成立の約束と環太平洋パートナーシップ協定(TPP)参加の土産を持参したから。これこそ自発的隷従です。祖父から2代、3代を経て隷従は無意識化し、自らは米国に厚遇される一方、国民には『奉仕』を強いる構図が定着してしまっている」

 そんな「自発的隷従」に反旗を翻したのが、沖縄・米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対する沖縄だという。「沖縄は、自発的どころか強制的に土地を奪われた。この闘いは民主主義、自治を獲得するためだと頑張っているわけです。そんな沖縄の取り組みを我々がどう支えていけるか。それ次第で、この国のあり方が変わると思うのです」

 巨大与党による強行採決が頭をかすめる。「本当は、まだ言いたくないんだけど……。安保関連法が成立した後の日本に向き合うことも考えなければいけない」と表情を曇らせた。向き合うとは? 「違憲裁判。合法的な支えは司法しかない」

 では、ほかにできることはないのか。「今、考えつくのは、ざわざわと騒ぐこと。一人でも気付いて声を上げる。効果はあるはずです。もしないとしたら……」。言葉を切り、疑念を振り払うかのように「うん、必ず効果はあると思います」とうなずいた。

 「平和主義」という言葉は、使いたくないという。平和とは、ある状態であって、受け身の感じがするから。「政治意思に基づくものなら、はっきりと日本は『非戦』をとると言わなければいけない」。そして、テーブルをたたくまねをする。思いがあふれる。「世界中が戦争をやって当然という国々ばかりの中で『非戦』を掲げる国がある。その国が繁栄している。素晴らしいことじゃないですか。非戦とは『戦争はしない』と言って闘うことなんですよ」

 カメラマンが撮影しようとすると、「いつまでたっても偉そうに見えないんだよ」と照れた。そばの本棚には、黒いサングラスを掛け、大型バイクにまたがる西谷さんの写真が。行動する哲学者らしい1枚だと思った。【石塚孝志】

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 ■人物略歴

 ◇にしたに・おさむ

 1950年生まれ。立教大特任教授。専門は仏文学・思想、比較文明学。「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人。「<テロル>との戦争」「理性の探求」「破局のプリズム」など著書多数。

 

 

 

 


従来の自民党政府ならば、日本はテロとは無縁の国。愚かな安倍違憲政権の恐ろしさ(思索の日記)

2015-11-17 15:14:45 | IS  中東

思索の日記  http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/4f8fb4637df5ef6cbf156210862ef373 より転載

従来の自民党政府ならば、日本はテロとは無縁の国。愚かな安倍違憲政権の恐ろしさ。

武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室客員)
 

 小泉政権から変わりだし、安倍政権で大きく右に傾いたわが日本は、テロを心配しなくてはならない国になりました。

親アラブで、アメリカとはその点で距離を取り、独自外交をしてきた旧自民党時代ではありえなかった事態になったのです。

イスラム国のテロ行為は許しがたいものですが、その原因つくり培養したのは、イラクでのアメリカ軍を中心とする無差別の空爆=巨大な暴力行使であることは確かです。

人質事件の真っ最中にイスラエルを訪れ、武力主義の首相=ネタニヤフと握手し、テロとの戦いを宣言した安倍首相は、過激派だけでなく一般のアラブ人までにも悪感情を植え付けました。

これほどまでに愚かな政策を実行してきた背景には、戦前の大日本への回帰を希求する「日本会議」のウヨク思想がありますが、日本国家主義のイデオロギーに囚われると、現実的に国民が損害を受けるだけでなく、その歪んだ想念に支配され、人間的自由や幸福が奪われていきます。

実に愚かで、危険です。得も徳も失います。

安倍首相の罪は計り知れないほど大きなもの。