マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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千股・ささいわ祭の山の神

2018年06月01日 08時56分48秒 | 吉野町へ
大宇陀野依、栗野に吉野町の小名を探訪してからの帰路の道をどこにするか。

小名から吉野町の佐々羅に下って新鹿路トンネルと思って車を走らせていた。

ふと思い出した明日香村桧前(ひのくま)。

Ⅴ章の年中行事の章に「5月8日、桧前のウヅキヨウカは花より団子といってツツジやカヤを括って竿を立てたら、鼻の高い子ができる」と書いてあったのは、昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』である。

調査および報告、発刊したのは飛鳥民俗調査会。

名の有る執筆陣であるが、そのことは今でもしているのかどうかは伺わしい。

というのも奈良県内で、ウヅキヨウカのテントバナをしていることは考え難いのである。

コイノボリは揚がっているが、テントバナはいわゆる旧態に属する民俗。

あれば奇跡的・・だと思うのであるが、念のためのと思って明日香村桧前を目指す。

セットしたカーナビゲーションシステムが誤解したのかどうか、わからないが新鹿路の道はなぜか案内せずにこれまで行ったことのない道を誘導する。

こうなれば試したい気持ちが強くなる。

さて、ここを行けばどこに着くか、である。

走っている道はなんとなく旧道のように思える。

集落を抜けたそこ、に・・。

川を挟んだ向こう岸に小祠がある。

その祠の前に注連縄のような祭具が見えた。

太い注連縄が崩れたような形になったモノがぶら下がっている。

ここはどこなのだ。

カーナビゲーションシステムが表示する地域名は吉野町の千股(ちまた)であった。

車を停めて向こう岸に歩いていった。

小祠の向こうにあるのは立岩。

そこに文字があったからわかった山の神さんである。

小祠の前にぶら下がっていた藁製の祭具は一体何であろうか。

ぶら下がる太い部分内部に何かがあるような気がする。

その横にもぶら下がる藁細工。

モノは小さいが草鞋のように思える祭具。

丸っこい草鞋で思い出すのは牛の草鞋。

御所市鴨神・大西垣内の申講の山の神行事である。

牛の草鞋事例はもう一つ。

桜井市笠・牛頭天王宮の「テンノオイシキ」の祭りにあった牛の草鞋は鳥居にかけていた。

2例の事例より想定した千股の藁作り祭具である。

このことについて早急に調べたくなって集落に戻ってみる。

それほど離れていない場に散歩休憩中の二人の男女が椅子に腰かけていた。

先ほど見てきた藁飾りの祭具がご存じであれば、と思って声をかけたら、詳しいことはすぐ近くにすむNさんが一番だという。

何故ならその藁細工はNさんが作っているというのだ。

その作り方は難しく、若い者にはまだ伝授されていない、というから、先にある行方が見えてくるのが怖い。

訪ねた家におられた男性は少し耳が聞き取り難いという昭和3年生まれのNさん。

この年が89歳のNさんは、よくぞここを訪ねてくれたと喜んでくれる。

奥にいた奥さんも玄関土間にやってきた。

足が不自由な奥さんも喜んでくれて、冷たい飲み物でもてなしてくれた。

Nさんが云うには、祭りの日までに作っておくという。



あの太くなったところには12粒の小豆を入れているという藁棒。

牛の草鞋だと推定した藁細工はナベツカミだというNさんの説に、なんとなくそう見えないこともないが・・・。

現在は10月末の日曜に移したというささいわ祭りである。

旧暦の9月晦日にしていたささいわ祭りはやがて固定化されて10月30日に移して継承してきたが、近年になって村の人が集まりやすい10月末の日曜に移したという。

山の神の地はささいわ祭りの出発地。

火を点けた松明を翳して下流に向かう。

その在り方はまるで田の虫送りに似ているが、時期は雲霞の発生する時期とはずいぶん離れているから虫送りとの関連性は極めて薄いと思える。

昔、子どもが多くいたころは二手に分かれてしていた村行事。

西と東に分かれている地区ごとに出発する。

以前は山の神の地であったが、今はもっと下った地からようだ。

西と東の地区の子どもたちが松明を振り翳しながら、向こう岸にいる子どもたちに悪態を囃し立てる。

かつては石を投げ合ったというから印地(いんじ)争い、若しくは印地打ちのような様相である。

今ではそうすることなく松明を翳して下流で合流する。

それで終わりでなく、出発前に山の神に供えたセキハンのにぎりめしを食べているという。

帰宅してわかった千股で行われている「ささいわ」という行事。

数年前に知人のHさんが史料として送ってくれた昭和28年刊の『奈良縣綜合文化調査報告書-吉野川龍門地区-』が詳しい。

一般的に米を挽いて粉にしたものを水か湯で練ったシトギと同音語のシトギがある。

千股では藁細工したモノをシトギと呼ぶらしく、を千股集落ではこれを“ホデ”であると書いてあった。

ぶら下げていた太めの藁細工は“シトギ”であるが、他村で見られる山の神に奉る藁細工は“ホデ”の呼び名というのも面白い。

私が牛の草鞋と推定した藁細工は“ミミツカミ”とある。

その説明に「鍋の耳を掴む道具」とあるから、家庭的民具のナベツカミ道具と思いこんだような気がする。

何故ならナベツカミには曲がりのない構造。

平たい構造である。

ところが牛の草鞋は牛の足に履けるように曲げをつけて細工している。

シトギと呼ぶホデやミミツカミに注連縄も作る。

12粒の小豆を入れるシトギ。

閏年は13粒にするそうだ。注連縄とともに山の神の祠の側にある木に掛ける。

ミミツカミと箕は握り飯と一緒に山の神に供える。

また、竹の“ゴー”を二つ作ってお神酒を入れてぶら下げる。

さて、“ゴー”とは何である、だ。

県内事例からいえば“ゴー”は竹を割って作る“ゴンゴ”の神酒入れである。

平成21年12月19日に拝見した奈良市柳生町・山脇垣内の山の神に割った竹を2本挟んだ道具は神酒入れ。

これを“ごんご”と呼んでいたことを思い出す。

山脇垣内の山の神にバランの葉に載せてトンド火で焼く“シトギ”がある。

山脇垣内でのシトギはまさに米粒から挽いて作る食べ物である。

こうした疑似例から推測するに、千股でもかつては食べる“シトギ”があったと思われるのである。

いつしかシトギ作りが廃れてしまって“ホデ”がシトギの名に転じた、と思われるのである。

現在はお米と12粒の小豆(閏年は13粒)を入れているということから、米粒はかつてシトギであったと想定できる。

いつしか内部に入れていたシトギが米粒に替わった。

米粒になったが、藁で作った本体のホデをシトギと言い表すようになったと考えられるのである。

今年の10月の最終日曜

それまで元気にしていてくださいと声をかけてN家を出た直後である。

注連縄もそうであるが、若い者が作れなくなってきたので、例年ともNさんにお願いして草鞋一足も作ってもらっていると、N家を出てからお会いした同家北にお住まいのN家の婦人もそういっていた。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)