マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

松尾の宵宮当家

2011年11月20日 07時53分21秒 | 山添村へ
奈良県東部の東山中辺りでは田楽などの神事芸能を奉納されている地区が数々ある。

山添村では室津の戸隠神社のウタヨミ、桐山の戸隠神社のウタヨミとオドリコミ、峰寺の六所神社の神拝奉殿楽、北野の天神社の豊田楽、中峯山の神波多神社のデンデン。

奈良市では柳生町の八坂神社のササラとスモウとヨーガ、阪原町の長尾神社の田楽舞、邑地町の水越神社のジンパイとスモウ、大保町の八坂神社の三角跳びと横跳び、水間町の八幡神社の田楽、大柳生町の夜支布山口神社のガクウチ、下狭川の九頭神社のバタラン・ピッピラとタチハイ、コハイ、スモウ、北野山町の戸隠神社のウタヨミなど多種多様なな田楽芸能でそれぞれに微妙な違いがある。

さて、峰寺の六所神社といえば峰寺、的野、松尾の三カ大字で毎年交替して行われているのである。

一昨年が峰寺で昨年は的野だったことから今年は松尾が奉納される。

三年に一度が当番となる大字である。

早朝から当家に集まってきた渡り衆。

当地ではその人たちのことを要人(ようじん)と呼んでいる。

午前中は竹笛(軸竹)を作っていた。

その笛はその都度作り替える。

指で押さえる穴は三つで吹く口は一つ。

それが上手く鳴るように穴位置を調整して開ける。

一本の裂いた竹がある。

それをヒワヒワと呼ぶ。

古くから使っている竹の束はガシャガシャと呼ぶ。

鳴り物となる道具には太鼓と鼓がある。

会食を済ませて衣装に着替えた要人たち。

当家の座敷に座って練習をする。

二人の年長者が持つヒワヒワと呼ばれる「弓」、ガシャガシャと笛吹きが二人で太鼓と年少者があたる鼓は一人ずつ。

この年はヒワヒワの一人が当家であった。

始めに座敷の中央に現れたる要人はヒワヒワを持っている。

ピロピロピロ・・・の音のように聞こえた笛吹きの合図。

文字に表せば「ピ、ピ、ヒゥ」である。

それが出番の合図。

扇は右手、左手にヒワヒワを持って神さんに向かって座る。

座前にヒワヒワを置いて拝礼。

ヒワヒワを手にして三役の音色でそれを緩く曲げる所作。

太鼓、鼓を三打ちして曲げ所作を終える。

ヒワヒワを衣装に仕舞って演者は立つ。

「ピ、ピ、ヒゥ」の合図に扇を広げて時計回りに丸く回る。

それは三回も所作される。

扇は円の中心部を煽ぐように回る。



二回目の回りの太鼓は「トントントン」で三回目は「ドン」。

これは周回の数を演者に教えているのだ。

一旦拝礼してヒワヒワを座前に置く。

今度は反時計回りに三べん回る。

そしてヒワヒワを手に持って曲げる所作をする。

これで一連の作法を終える。

次に登場するのはガシャガシャのササラ役。

ヒワヒワと同じ所作をするが、倒れやすいガシャガシャは倒れないように立てることが肝心だという。

いずれも笛吹き、太鼓、鼓の奏者が音を奏でて囃す。

最後に鼓役が登場する。

鼓を立ててこの所作をする。

披露したのはこの三役たちだった。

こうして本番さながら出発前の練習を終えた。

稽古ともいわれる練習の際には長老が細かい動作を指導する。

神さんへの奉納が間違った所作をされないように勤めているのだ。

(H23.10.14 EOS40D撮影)

めぐみの郷

2011年11月19日 08時34分11秒 | 食事が主な周辺をお散歩
昨今、産地直送を掲げた直売店が増えているそうだ。

「めぐみの郷」もその一つで斑鳩にある。

昨年の秋に開店したことは知っていたが足は向かなかった。

県内には葛城新庄や田原本町にもあるそうだ。

この夏から度々目にする斑鳩店。

ここを通る度に入ってみたいという欲望が湧き出る。

室生で出会った男性は仕事の関係でこの店に品物を卸していると聞いた。

それも知りたくて入店してみた。

店内の様子といえばまるで道の駅のような売り場。

ありとあらゆる野菜が並べられている。

普段は見かけないものもある。

それはスーパーで売っている野菜とは違った。

瑞々しい野菜は買ってほしいと願っているようだ。

付近の生産者が丹精こめて作った野菜たち。

そんなに多くは買えない。

何がほしいかはかーさんに聞かねばなるまい。

売り場状況を伝えるケータイ電話。

今夜はこれでいいと数種類の野菜を買った。

野菜と言えば天候不順で高値になっている。

それがなんと・・。安いのである。

もちろんスーパーで売っているような値段もある。

それは手にせず安価なものばかりを買った。

食べてみれば好評であった。

この店ではなにも野菜ばかりではない。

近くにあるトーフ屋さんもあれば醤油屋も。

魚はないが肉屋はある。

仏さんに供える仏花もある。

収穫した新米もある。

おふくろは米がないから持ってきてほしいと言っていた。

お米は重たい。

買っても4階の住宅へ上がるにはきつい。

年寄りだけにそれは辛い。

それならば買っていこうと二人で寄ってみた。

そうして買ったお米は大阪に送りたいと申し出た。

それは可能だと宅急便の送り状をもってきた店の人。

応対も優しい。

時間は夕刻で既に集配は終わっていたから翌々日になるといっていたが、翌朝に着いた。

嬉しい電話をかけてきたおふくろ。

喜ぶ顔が目に浮かぶめぐみの郷。

農家にとっては販路を見いだせるし、消費者にとれば新鮮で美味しい食事が摂れる。

ありがたい地産地消のシステムだ。

おそらく次々と展開されることだろうと思っていれば、市内郡山でも産直市場が開店近く建築が進んでいた。

(H23.10.13 SB932SH撮影)

上深川八柱神社題目立

2011年11月18日 08時23分23秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
例年行われている題目立の演目は「厳島」だった奈良市都祁上深川の八柱神社の宵宮祭り。

安芸の国の厳島を訪れた平清盛が弁財天から「節刀」という天下を治める長刀を授けられる語りもの。

氏神さんのゾーク(造営)があるときに奉納される演目で三年間奉納され続ける。

「厳島」を荘厳して供養するといった祝言の意味がある。

平成4年、6年に大仏供養を奉納されてからは専ら厳島の演目であった。

上演時間はおよそ1時間40分。

演者が立ったまま語りをすすめる厳島は長丁場の演目だ。

ところが久しぶりにこの年に行われた「大仏供養」はもっと長い曲だ。

2時間を超えて語る大仏供養は二十六番の厳島に比べて本文の長さがかなりある。

平家の残党である平景清が東大寺の大仏供養に下向した源頼朝の命を狙ったが、三度ともしくじって果たせなかったという語りものである。

大仏供養に登場する人物は(源)頼朝、梶原平蔵、はたけやま(畠山)、和田の吉盛、ほうせう(北条)、泉の小次郎、井原佐衛門、佐々木四郎、(平)景清の9人。

曲目といえば、とふ(どう)音に頼朝と梶原の入句を入れて三十八番まである。

ちなみに登場する語りの数が一番多いのがはたけやまで8曲。

次が景清の7曲。

その次は5曲の泉の小次郎で、3曲の梶原平蔵、和田の吉盛、ほうせう、井原佐衛門。

2曲が頼朝と佐々木四郎である。

ベテランは何度も登場するが入りたての若者は数曲。

とはいっても頼朝や梶原平蔵の台詞が長い。

短い台詞の3倍もある。

佐々木四郎もそうだ。

はたけやまと景清なんぞは曲数も多いし長丁場の語りもこなす。

「みちびき」の歌を歌いながら楽屋の元薬寺を出た若者たち。

弓を手にした姿は立烏帽子を被ったソー衣装。

ソーは素襖小袴だ。

上着の白い筋は肩に沿って両袖口の特徴ある衣装で、烏帽子下には白い細長鉢巻で押さえ後ろで結ぶ。

結び残りは背中まで垂らしている。

足は白足袋に草履を履いている。

ただ、頼朝の装束だけは皆と異なる。

麻地に水色の小紋が入った素襖小袴である。



竹柵で囲った舞台に入場する演者たち。

先頭はローソクに火を持つ長老だ。

演者が所定の位置について長老は奉燃八王子大明神と記された燈籠にみちびきの火を遷す。



氏神さんに向かって拝礼。

すぐさま白衣浄衣姿の番帳さしと呼ばれる呼出役から「一番、頼朝」と声が掛った。

「わーれーはこれー せぇーいーわーてーんのうのー じゅぅだーいーなーりー・・・」と長丁場の演目が始まった。

場を清めるような謡いぶりだ。

耳を澄ませなくとも大きな謡いの声が奉納されていく。

一番、二番、三番だけでも15分かかる長回しの台詞に息をひそめる。

題目立の起源は明らかになっていないが、保存されている題目立「大仏供養」の一冊にある「番長并立所」によれば「享保十八年(1733)二月吉日、古本之三通者及百九年見ヘ兼亦ハ堅かなにて読にくきとて御望故今ひらかなにて直置申候御稽古のためともなら・・・云々」とある。

元薬寺の僧であった野州沙門教智寛海の筆による記述から享保十八年を遡ること寛永元年(1624)ごろには古本が三通(厳島、大仏供養、石橋山であろう)あり、江戸時代初期には題目立が演じられていたと思われる。

その本は稽古のためにカタカナからひらがなに書き改めたのであった。

独特の台詞回しの祭後も特徴がある。

例えば一番頼朝の「・・・こーとーことくもーーようし そうーろうえやー やっ」に二番梶原平蔵の「・・・じゅうーろーくーまん はーせんきーにーて そうろうなりぃ いっ」と気合が入った言葉が付く。

それはその番の終わりを示す言葉尻であろうか、それを聞いて次の三番はたけやまが謡い始める。



こうして延々と謡い続けた大仏供養は既に2時間も経っていたころ。

三十七番に続いて演じられるふしょ舞は「そーよーやーよろこびに そーよーやーよろこびに よろこびに またよろこびをかさぬれば もんどに やりきに やりこどんど」の目出度い台詞の「よろこび歌」に合わせて所作をする。

これまでは延々と「静」かなる所作だった。

動きといえば口だけだ。

真正面を見据えて謡う演者たち。

それが、唯一動きがあるふしょ舞に転じる。



扇を手にした和田の吉盛が舞台に移動する。

手を広げて動き出す。

持った扇を広げて上方に差し出す。

上体も反らして顔は天に届くような所作を繰り返す。

それを終えて最後の三十八番は入句。

祝言の唱和は全員で「・・・あっぱれーめんでー たーかりけるはー とうしやのみよにてー とどめたーり」と。

そして長老のみちびきですべての演目を終えた演者は再び元薬寺に戻っていった。

宵宮はこのあと直会に移る。

演者を慰労する場でもある。

席についた男子の顔つき昨夜と違っていた。

昨夜のナラシではまだ不安な表情だった演者たち。

一夜にして大役をこなし自信に溢れた表情になった。

演目をやりきった成(青)年男子の顔つきは室町時代から続く伝統行事を繋ぐ一員でもあった。

満月の夜はこうして終えた題目立。

「石橋山」は百年前の明治時代に演じていない。

演じた人がいなくなり、それを知る人もない幻の曲となっている。

八柱神社には座講、氏神講、オトナ講と呼ばれる家筋からなる宮座があった。

数え17歳になり、名付けと呼ばれる座入り(村入りとも)を経て奉納してきた題目立。

かつては家筋の長男がそれを演じていた。

その後の明治21年ころには村座に改められて村人すべてが座につくようになった。

(H23.10.12 EOS40D撮影)

ナラシ題目立

2011年11月17日 06時45分24秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
毎年10月12日に題目立が行われている奈良市都祁上深川の八柱神社。

他にあまり類例をみない題目立の伝承芸能である。

もとは旧暦9月9日に奉納されていた題目立。

上深川の氏神さんの八柱神社下の庭に竹柵で囲んだ方形の舞台で演じられる。

そこで登場する弓を持って装束を身につけた若者たち。

名乗りをして物語をすすめていく形式は動きがほとんどなく、特有の抑揚で語りをする。

まさに語りものの演劇なのである。

演者は数え年17歳の若者で題目立を奉納し終えることで一人前の成人として認められた。

いわゆる元服であって、子供から成人への通過儀礼の意味をもつ神事芸能だとされている。

かつては祭りを終えれば村公認で酒を飲めるという具合だった。

この夜は翌日の祭りに奉納するにあたって最後の練習日となった「ナラシ」。

ナラシの名は慣れるとか馴染む意味だそうだ。

ナラシは7日、9日、11日の三日間をそう呼んでいる日で、れっきとした祭りに属する日である。

区長、題目立保存会、垣内の組頭や三役に演者の指導員、年寄にお茶をだすなど賄い当番のドウゲらがナラシの席につく。

それまでの演者といえば家で練習を続けてきた。

聞くとところによれば8月から毎週のように練習していたそうだ。

家でもそれをしていた。

題目立を覚えるには相当な日数がかかっているのだ。

演者が一同に揃って合同で練習するのがナラシの日である。



場の傍らには明日の晩に設営される燈籠がある。

それには「奉燃所者八王子大明神宝前 右者村中安全祈願 敬白」と墨書されている。

かつては八王子社と呼ばれていた八柱神社だ。

題目立の配役決めには特に決まりはない。

演者の希望や指導者の助言によって配役されるという。

かつては本人が自ら手をあげたりすることもあったそうだ。

先輩の意向を聞いたりして演者の仲間内で決めていたと話す経験者。

この年に演者となったのは高校1年2人、高校2年1人、高校3年1人、社会人1人、大学生4人の9人だ。

本来は数え年の17歳男子と決まっていた。

それが可能だったのはそれだけ子供がたくさんいた時代だ。

少子化に伴ってそれを維持することができなくなって卒業した社会人や大学生も加わらなければならない。

地元を離れた子供も戻ってこなければ人数も揃わない。

この年は17年ぶり(平成4年、6年に大仏供養を)に奉納される大仏供養であった。

この演目をするには9人を要する。

それが難しかったことから8人で務める例年の「厳島」だった。

この年は新しく新高校生が二人も入ってくれたからできるのだと目を細めて話す村の人たち。

最後の夜となったナラシは厳しい目で題本に目を落とす。

詠み間違いがないかどうか、抑揚はどうか、謡いの区切り方など台本を見ずに一人一人が練習舞台に立って語る一字一句の演者の声が響き渡る。

最後の夜だから見ずにといってもなかなかそういうわけにはいかない。

ときおり目を落とす若者たち。

「ところかれおーのー かんじんによりー ともにいー だいぶつをーこんりゅうしー くようーのべんとー ありしかー けんきゅうろくねんー じょうろくつかまつりー だいぶつくよう あるべきなりー」と独特の抑揚で語る。

かつて役目を担った男性は「長老から厳しく指導された」ことを思い出す。

何年間も厳島を演じてきた男子はさすがに節回しも発声も堂にいっている。

初めて体験する男子はまだそこまで至っていない。

何年間もすることで身体で覚えていく語りもの。

学校を終えた大学生は夜遅くに戻ってきた。

早速、一番を語っていく。

(H23.10.11 EOS40D撮影)

北村町戸隠神社氏神祭りの相撲

2011年11月16日 06時44分57秒 | 奈良市(東部)へ
今座の人たちの話によれば神主が居る場合は行司と大(お)ずも(相撲)を担う。

いない場合は小(こ)ずも(相撲)となる。

また、警護の弓持ちは大座から一人で今座若しくは千座から一人となる。

相撲の場の蓆両側には「ワキ(脇)」と呼ばれる二人が立つ。

その人たちは紋付の羽織袴姿で登場する。

その選出は弓持ちと同じであって弓持ち、ワキ(脇)ともに2年間勤める。

行司、小ずも、大ずもら5人の演者が揃うと行事を先頭に古墳とされる山ノ神へ参る。

一人はセキハンを中に入れたスグリワラを手にする。

その後に続く人は細かくしたモチ片とセキハンを手にする。

その後ろにもスグリワラを持った人が続く。

式次第を詠みあげる人も後続につく。



山ノ神のお供えを持った人たちだ。

頂上が山ノ神とされる岩。

そこで時計回りにぐるぐると三周する。

そしてモチ片とセキハンをその岩に置かれて一同は拝礼して下っていった。



神主は御幣を手にして階段に立つ。

その前に立ったのが二人の弓持ち。

弓を射る格好で立つが矢は放たない。

真新しい狛犬を挟むように蓆(ムシロ)を敷いた。

その両側に立ったのが脇の殿(千座は脇の当と呼ぶ)。

そうして始まった氏神さんに奉納する相撲。

北村町ではそれを「小ずも」、「大ずも」と呼んでいる。

両ずもの所作には式次第がある。

それに沿って力士が相撲の役目を担う。

最初の是よりすもうの次第とあり、「行司壱人、すもうとり 四人共、土俵へ入り致す 神主、脇の殿(千座は脇の当と呼ぶ) 御前にて、三べん回る 一礼致して楽屋へ引く」所作は行司、小ずも、大ずもが土俵に出てそれをする。

いわゆる土俵入りの儀であろう。



第壱番は「小ずも、手を振り出る 礼を致し 行司共かけ声の次第 手を組み よいよい やーやーと致し楽屋へ引く」とあり、そのように所作をする。

第弐番の次第では小ずもが登場して「太刀をかたげ出る 脇の殿の前にて、腰より抜く手品にて、脇の殿の前に置く 三足後へ引く 神主の右の者かしこまり 左の者まいったと申し肩を壱打つ 相方一礼を致し、手を組み よいよい やーやーと申し 太刀をかたげて楽屋へ引く」とあり、そのように所作をする。



第参番の次第では小ずもが登場して「行司すもうとり 小矢をかみ(神であろう)に差し出る その時、脇の殿 扇を広げ前に置く すもうとり かみにさしたる小矢を 脇の殿 扇に打ち立つ 三足後へ引く 左の者かしこまり まいったと申し 右の者より、背を一つ打ち 一礼を致し 手を組み よいよい やーやーと申し楽屋へ引く」とあり、この次第の通りに小ずもの所作をする。



続いて大ずもの二人が手を振って登場する。

行司のかけ声で手を組んで「よいよい やーやー」の掛け声。

一旦楽屋へ引いて弐番の所作が始まる。

太刀をかたげて出てきた大ずもは腰より抜いて脇の殿の前に置く。

右の者はかしこまり、左の者が負ったと申して肩を打つ。

今度も手を組んで「よいよい やーやー」と申して楽屋へ引く。



なんとも不思議な勝ち負けの動作である。

参番は小矢を耳に挟んで土俵入りする大ずも。

「かみに差し出る」というからに紙ではなく神さんのことであろうか。

扇を蓆に広げて小矢を投げ入れる。



またもや勝負がついて、今度は左の者が畏まり負ったと申して肩を打つ。

そして三度目の「よいよい やーやー」と申して楽屋へ引く大ずもの所作であった。

式次第に書かれていた「これにてすもうの次第 打ち止めといたす」は詠まれなかったが、一連の所作を滞りなく北村町戸隠神社秋の氏神祭りの奉納相撲を終えた。

このように蓆に扇を置いて矢羽根を投げつける所作は奈良市西九条町の倭文(しずり)神社で行われる「角力の矢相撲」と同じような所作と思えた。

また、小ずも、大ずもとも紙片を右耳に挟む所作は奈良市下狭川の九頭神社で行われる「タチハイ(太刀拝)」や同市誓多林町の八柱神社での秋祭宵宮に奉納される相撲と同じようである。

ちなみにそれぞれの座には当屋が決められている。

今座では家の順で決められているものの12月に行われる霜月座でその引き継ぎがあるようだ。

大座帳によればそのときの座の膳はすき焼きに寿司、吸い物がだされる。

そこにはサバの祝い鉢があるらしい。

大座も順は決まっているが家並びでなく不規則だという。

千座といえば2軒しかないことから引き継ぎというよりも毎年交替というわけだ。

なお、座入用帳を判読したが山ノ神に参る件が見られなかった。

また、所作では使われなかった古い鉦と太鼓もそうだ。

これはどういうことなのだろうか。

大座の人の話では昭和四十二年に新調された入用帳とは別にボロボロになったもっと古い文書があるという。

もう少し北村の祭りのことを調べなくてはならない。

(H23.10.10 EOS40D撮影)

北村町戸隠神社氏神祭り

2011年11月15日 08時30分15秒 | 奈良市(東部)へ
セキハン(若しくはモッソ)と呼ばれる氏神祭りの御供は本殿、若宮神社、白山神社、山ノ神へ供えられる。

本殿には大座(中央)が2膳で今座(左)、千座(右)とともに1膳ずつ。

若宮神社へはそれぞれの座(左から今、大、千座)が1膳ずつ。

白山神社は大座(左)、今座(右)ともに1膳ずつで山ノ神が大座であった。

ヒトシオサバとも呼ばれる生サバはそれぞれ2尾ずつ本殿に吊り下げる。

大座ではこれを「掛魚」と称していた。

そして2年任期の村の神主が本殿に登って神事を始められた。



三座の人たちや村の人も参列されての氏神祭りは村の五穀豊穣を願う祝詞を奏上されて終えた時間帯は丁度昼時。

三つの座中はそれぞれの仮屋で会食をする。

いわゆる直会である。

今座の人に聞いた話では当屋(当家とも)は豆、ゴボウ、コンニャクを炊いた三種とパック詰め料理を出す。



数年前まではサバ寿司と巻き寿司もだしていたそうだ。

汁ものはトーフ汁と決まっている。

それらの膳の料理を肴にお酒など酌み交わしてしばらくは座中の憩いの場。

それぞれの座中の語らいが1時間ほど営まれる。

それぞれの座中には座中記録帳がある。

年号の古いものから順に今座の「今座入用帳 天保十二年(1841)九月吉日祭座」、千座の「千座講中簿 昭和十六年(1941)新調」、大座の「奈良市北村町 大座帳 昭和四十二年(1966)十月新調」とある。

今座入用帳には「神宮様 もそ三枚 酒三合 かます二枚・・・」、「若宮様 もそ二枚 なすび いも」、「神様御でま志」、「加ん○志」などの文字が記されている。

どうやら祭典の在り方や御供の内容が書かれているようだ。

それには「十一月座」とあり「大座と當屋分」の文字があることから両座で営まれていたようだ。

また、「おかぐら」の文字もあることから神楽舞がされていたようだ。

安政二年(1855)、四年・・・文久元年(1861)、二年・・・における当屋氏名とか「ヤト」の文字もある。

「まつりとや」とか「まつり座をつとめる」とあるから、当時は当屋の家が「ヤド」となって営みをしていたようだ。

その今座入用帳の中には「天保十年(1839)八月 加利やたて」があることからその時期に仮屋(千座入用帳では籠所)が建てられたようだ。

昭和三十四年に記された大座入用帳では千座のことを新座と呼んでいたことから三番目の座中と思われる。

氏神祭りは昭和61年までは10月17日で、その後は10日(平成5年から11年)であった。

平成12年に制度化されたハッピマンデーの関係で現在は体育の日にされている。

今座のほうでは座中に神主が居る場合において前日に宵宮(夜宮とも)が行われていた。

大座中ではその夜宮で御供搗きがされていたようだ。

その御供搗きは神主の次にあたる一老と二老がしていたらしい。

現在はなくなったが当時は芋、焼き豆腐、鯖、青菜、松茸、ズイキ和え、猪、蒟蒻、牛蒡、蓮根などの献立膳があったようだ。

また、山ノ神に供える餅を「犬ノ舌」と称していた。

ちなみに現在の北村町の軒数は24。

座中の軒数といえば大座が10軒、今座は4軒で千座は2軒である。

村を出たりして徐々に減っていったと話す。

(H23.10.10 EOS40D撮影)

北村町戸隠神社氏神祭りの御供造り

2011年11月14日 06時42分33秒 | 奈良市(東部)へ
大座(だいざ)、今座(いまざ)、千座(せんざ)の三つの座がある北村町戸隠(とがくし)神社の氏子たち。

早朝から集まって氏神祭りに使われる道具類を作っていく。

その道具と言うのは午後から行われる相撲のことだ。

村の神主とともに並ぶ二人は警護の役目。

その警護が持つ弓と矢を造る。

弓はシブの木で矢はネソと呼ばれる竹だ。

シブの木は夏の頃に白い花を咲かせるそうだ。

シブの木は毒性があるというNさん。

翌年にお会いしたときにこの木のことを聞いた。

根かもしれないが、と前置きして語られたシブの木は川に入れたら魚が浮くくらいだという。

シブの木で作る弓は毒をもって清める意味があるかも知れないという。

少なくなったシブの木は将来に亘って行事で使うことができなくなると危惧される。

そんな時代がくれば作り物の弓になってしまうかも知れないと話す。
(H24. 3.16 追記)

矢は細い竹で先の方は円錐形で尖らしている。

それは栗の木を細工したもので、竹は交差させて支柱にする。

これには意見がでて「矢を置く台ではなかろうか。持つ位置は逆なのでは」と話す大座と村の神主。

結論は見出せなくてこの年は支柱となった。

この道具を作るのは神主が座中に含まれる座で造られる。

相撲では担いで登場する刀と矢羽根を造る。

刀の材料は弓と同じシブの木である。

羽根は十数センチの長さで白い紙で羽根を取り付けた。

それらの道具は大座の人らが作っていた。

三つの座はそれぞれの座中が座る各々の仮屋(座の館)がある。

その仮屋には座中の名称が書かれてある提灯を掲げ注連縄が張られる。



それを作っているのは今座の人たち。

千座は特に造る様子は見られなかったが、それぞれの座中は氏神さんに供える御供を造る。

千座の場合は枡に詰めたセキハン(赤飯)や栗、リンゴ、スルメの御供だった。

セキハンは4合枡と思われる木の枡にすりきりいっぱい詰め込んで上から蓋を押してできあがる。

それは家で作ってきたそうだ。

神さんが食べられるようにと箸は栗の木を削って造った。

中央は白い紙で巻いている。

折敷に載せてできあがる。

今座の御供もほぼ同様だが魚はカマスで果物は葉付きのカキにエダマメ(大座ではナリマメと称す)だった。

今座ではセキハンのことをモッソと呼んでいた。

千座と同様に枡に押し込んで作ったという。

箸は同じく栗の木だが持つ部分を白い紙で巻いている。



大座の場合はセキハンではなく二段重ねの餅だった。

大きなカシライモ、コヨリで括った二段重ねのナスビにエダマメで果物はナシだった。

半紙に包まれた削りカツオもある。

平成14年まではカツオを削っていたのだが手間がかかるためパックで売っている削りカツオにしたそうだ。



セキハンは大重(重箱)に詰められている。

箸は同じく栗の木だが持つ部分を白い紙で巻いている。

大座のお供えは他にもある。

スグリワラと呼ばれる藁束の中に押し込んだ大きなオニギリのような形のセキハン。

そこへ大きなモチを加えるとスグリワラの中のセキハンは見えなくなってしまった。



これは山の神に供えるというが、年代ものの桶は持っていかない。

それには「新調 東里村大字北 大座中御供桶 明治二十八年十月」の文字が墨書されていた。

また、小さな鋲打ち太鼓や紐で繋がれた鉦があった。

年代を示すものは見つからなかったが相当古いものに違いない。

鉦は鳴る音から「チャウン チャウン」と呼んでいるが両方ともの鳴りもの道具は行事には使われない。

何らかの念仏行事があったものと考えられるが座中の人たちは記憶にないという。

三つの座に共通していた御供には「ヒトシオサバ」がある。

単に「サバ」とも呼ぶヒトシオサバは尻尾のほうに藁を括って本殿に吊り下げる。



三座とも2尾ずつである。

こうして氏神さんに供える御供ができあがったころになれば神事が執り行われた。

(H23.10.10 EOS40D撮影)

斑鳩町高安天満宮引き継ぎの座

2011年11月13日 08時21分26秒 | 斑鳩町へ
祭りを終えた人たちは神社から一旦引き揚げて家に戻る。

それから30分ぐらいも経ったであったろうか。

再び神社にやってきた上六人の長老と下六人。

上六人は羽織袴で下六人は浴衣のような白い和装に帯締め姿で再登場した。

拝殿の座には上六人にこれから引き継がれようとするこの日から勤める下六人の人たち。

平服の普段着であがる。

座の席に甘酒やレンコン、ゴボウを並べるのはお渡りをしていた下六人。

拝殿通路で立っている。

席に着けば上六人が挨拶を述べる。

この夜は上六人の数人が下六人を勤めていたので人数は合計で18人とはならない。

下六人を勤めた長老は上六人となって上がったのだ。

次の下六人には長老が一人ずつ竹串の幣を手渡される。

引き継ぎを受ける作法であろう。

下六人にお酒を注ぐのは接待する上六人。



実に複雑な構造である。

乾杯をしてしばらくは歓談の場となった引き継ぎの座。

30分ほどで終えた。

こうして祭りの引き継ぎを終えた上、下六人衆は帰っていった。

その人たちの話しによれば再び神社に向かってお渡りをするという。

先ほどのお渡りでは白の御幣を持ってきたが、今度は赤い御幣であるという。



24時を過ぎたころにやってくるお渡りを「アカツキ(暁)のお渡り」と称している。

盆地部ではとても珍しい行事の様相であり古式色が残される高安の地である。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)

斑鳩町高安天満宮トーヤのお渡り

2011年11月12日 08時03分52秒 | 斑鳩町へ
お神楽が行われている頃はトーヤの家でもてなす会食。

振舞われるお酒もいただいていた。

お渡りの前の直会であろう。

そのトーヤの家は「ヤド」とも呼ばれている。

公民館にしてはどうかという意見もだされたが、神さんは家に来るものだと意見は退けられ、今もなおヤドでされている。

「ヤド」である印といえば「今月今日」の文字が書かれた御神燈の行燈。

その行燈を辿っていけば「ヤド」の家に着く。

このような目印は広陵町三吉専光寺の地蔵盆の立山祭でも見られた。

「ヤド」では朝から千本杵でゴクツキ(御供搗き)をしていた。

神社に献饌される大きな餅(2枚の一升モチ)で小さな太鼓を叩いて搗いていたという。

お供えは7本のダイコンやレンコン、ゴボウ、ドロイモなど。

トーヤは和装の羽織姿で下駄を履く。

宮座は上六人(宮六人とも呼ばれる)と下六人。

上六人は宮さんを司っている長老たち。

年齢順に一年ずつ交替するので実質6年間のお勤めである。

下六人は行事に入るマワリ(回り)で座入りした二十歳のウイトウ(初トウであろう)。

そこからコヨリクジで選ばれる下六人だそうだ。

トーヤは羽織袴で6人のウイトウは烏帽子を被り素襖の衣装姿。

白い御幣を持つ。

穂付き稲を両端に取り付けたサカキ。

これをイナサカキと呼んでいる。



桶には甘酒。

それぞれは六人衆の身うちにあたる人がトモとなって担いでいく。

ホラ貝を吹く人と座中提灯を持つ人が先頭にお渡りが始まった。

「ブォー ブォー」と吹き鳴らす道中。

真っ暗な道を通って天満宮へ行く。

その姿を一目見ようと村人が道中で出迎える。



ホラ貝はその合図なのであろう。

夜のお渡りは県内事例ではあまり見かけない形式だと思われる。

お渡りの際には、かつて40人もの人たちがオーコで担ぐ蒲団太鼓を出していたそうだ。

境内に入って宮入りをする際には邪魔をする人たちとのせめぎ合いで盛りあがったという。



それは30分ほども続いたそうである。

本殿前に立ったのはウイトウ。

御供の風呂敷と同様に家紋がある装束が特徴だ。

それは家の格式を示す象徴ではないだろうか。



家族は拝殿で神事を見守っている。

祓えの儀、祝詞奏上、献饌、玉串奉奠など滞りなく進められる。

以前はローソクの明かりだけだったというから相当暗かった。

今では電燈が照らしているがそれでも暗い神社で神事をされたあとは6本の御幣が本殿に残った。



なおイナサカキはトーヤの家に持ち帰るそうだ。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)

斑鳩町高安天満宮の神楽

2011年11月11日 08時56分44秒 | 斑鳩町へ
古来は富の小川村と称された斑鳩町の高安。

富の小川は今でいう富雄川のことだ。

もともとは高安の東側を流れていたそうだ。

平安時代の歌人の一人に挙げられる在原業平(ありわらのなりひら)。

伊勢物語で名高い歌人であった。

大阪河内の高安に通ったときに立ち寄ったのが斑鳩のこの地。

村の人が業平のことを忘れないようにこの地を高安村と呼ぶようになったという。

かつて参拝する女の人に、子供が鍋釜の墨を顔に塗りつけていた。

それは在原業平が気にいった娘を婚入りさせてしまうことから、化粧の代わりに墨を塗ってわざとシコメ(醜女)にしたそうだ。

これに基づくとされるが行事にあったと伝承されている高安天満宮。

境内地には大日堂と刻まれた石塔や五輪塔がある。

神宮寺であったと思われるが断定はできない。

この日の夜は秋祭り。

拝殿には巫女さんが参拝者を待っている。

そこへ現れたのは手に風呂敷包みを抱えた村の人。

中に入っている新米を奉納されるのだ。

当地は作付面積が広い農家が多く五穀豊饒に奉納されるお米である。



それを受け取った巫女さんはお神楽を舞う。

氏神さんに一礼して始まったお神楽。

右手に鈴を持ってシャンシャンと鳴らす。

大きく手を広げて右回りに舞う。

独特の神楽舞である。

再び一礼して参拝者に鈴を振る。

祓い清めのお神楽であろう。

そして氏神さんに参拝する。

次々と訪れる参拝者は拝殿前で行列となった。

持って来た風呂敷といえば家紋入りが多い。

そのことはこれから始まるトーヤのお渡り衣装にも見られる。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)