荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『自分の穴の中で』 内田吐夢

2008-01-03 03:08:00 | 映画
 『自分の穴の中で』(1955)を再見した理由は、先日読んだ「TITLe」2月号の対談記事がらみで、木村威夫の存在が我が脳に影を投げかけたからだ。

 ヒロインの女(北原美枝)の部屋が、渋谷松濤の風格ある日本家屋の2階にある。この部屋に、亡父の後家(月丘夢路)が何かと世話を焼きに来るわけであるが、この二人は年齢が離れていないせいか、どうもしっくり来ない。
 北原に退散させられた月丘夢路が階段を下りていく後ろ姿は、廊下に面した嵌めガラスのおかげで、いつまでも北原美枝の視界から消えてくれない。このまとわりつくような透過性、執拗で悪戯めいた空間は、木村美術の真骨頂だろう。

 満州渡航後の長いブランクから復帰した内田吐夢にとって、『血槍富士』『たそがれ酒場』と続き、そしてこの『自分の穴の中で』が日本映画界復帰第3作となるが、彼の留まるところを知らない情念の鬱屈を、木村威夫の空間が大いに助長している。いやむしろ、鬱屈した空間が登場人物たち全員の行為を規定しているかにさえ見える。

 内田吐夢の戦後は東映時代劇に彩られているが、私には戦後唯一の日活作品である本作(つまり、戦前はエース格として長く君臨した古巣・日活に、戦後はたった1度しか戻っていないということだ)が、小津安二郎との共犯関係から生まれた戦前の傑作『限りなき前進』(1937)と、晩年の代表作『飢餓海峡』(1964)という2本の凄絶なるニヒリズムを宿した現代劇のちょうど真ん中で、分銅器のような存在になっているように思えてならない。

『吾輩は猫である』 市川崑

2008-01-03 02:56:00 | 映画
 例によってHDDの中に録り貯めたまま放置したものの中より、2007年わが最後の映画として選んだのは、市川崑『吾輩は猫である』(1975)、そして2008年初めの1本としては内田吐夢『自分の穴の中で』(1955)を。前者は初見、後者は再見。

 以前「市川崑は横溝正史ものに手を出してからポテンシャルが落ちた」などと、岩井俊二あたりに殴られそうなことを本ブログで書いたが、この『吾輩は猫である』の訥々としてこれ見よがしでないウィットを眺めていると、上の暴言は別段撤回せずともいいだろうと思えてくる。

 伊丹十三が迷亭君の役を演っているのだが、これが非常にいい。ここに、もっと前半生の方が良かった人がいるぞ…