夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

じゆうななもじ君句集 2022年秋

2022年08月20日 15時48分49秒 | * 俳句 *
      2022年 秋

     四十雀羽を休めて秋浅し New
     夜更の蝉の一声秋の風
     

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2021年7月10日(土)「夏」

2021年07月10日 22時08分42秒 | * 俳句 *
今年の立秋は8月7日だそうです。
この季節の変わり目はテレビなどでは「暦の上では今日から秋です」と立秋の日のニュースになります。
では暦の上ではない夏もあるはずで、気象上(気象庁)では9月からが秋になるそうです。テレビ局ではこの気象上の季節を基本にするそうですから、立秋を過ぎてもまだ夏です。
東京もまだ梅雨明けがいつになることか・・・・
この中で今が真夏だと言われても困ります。
子供たちの夏休みも8月です。
やっと梅雨が明けて数日すれば秋ですからなぁ。。。。。
この気象上(気象庁)の秋に対して文学上の秋がある。俳句などでしょう。
でも、もっと基本的には農業があるはずです。
この農業党の関係では二十四節季が重要でさらに七十二候に細分もされました。
この農業に関係した二十四節季や七十二候は秋はやはり立秋です。
この気象上の秋と二十四節季の秋には1カ月のずれがありますが、8月の初めに秋と言われれば寂しさが出てきますが、2月の初めに春だと言われればウキウキします。立秋で寂しさもありますが、夏らしい暑さの中にあ気を見つけていくというのを楽しみにすることもいいのでしょう。それが立春で春を見つける楽しさにも。


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2020年 7月 1日(水)「半夏生」

2020年07月01日 20時19分05秒 | * 俳句 *
今日は七十二候の半夏生です。
七十二候の中でも存在感のある言葉ですね。俳句では季語にもなっています。
梅雨入りを中心に夏至と対の位置にあるものだそうです。そろそろ梅雨明けが気になるころですね。
民間の言い伝えでは空から毒気が下りてくるので井戸に蓋をしなくてはいけないそうです。ですからこの半夏生前に田植えは終わらせなくてはいけないそうです。
半夏というのはカラスビシャクという花だそうで、根っこは生薬に使われる。
空から毒気が下りてきて井戸に蓋を閉めるのですから、生薬としてのカラスビシャクは吐き気の薬だそうで、胃腸薬にも。毒気が下りるという民家の言い伝えも根拠がないわけではないようですなぁ。
半夏生の頃、蒸し暑さも強いですからこの心持を俳句にするようです。
半夏生も過ぎて一カ月すれば立秋ですからねぇ。
陽が短くなっていくという気持ちをこの半夏生に感じます。
夏も後半戦。
(以上ネットでいろいろと調べてみました)
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2019年 4月18日(木)「アブラムシ」

2019年04月18日 20時51分29秒 | * 俳句 *
ビオラのプランタに去年のキンギョソウの種が落ちていたようで1本芽が出て花が咲きそうになっていました。しかし。。。。
今朝近くで見たらアブラムシが密集してついていました。
あまり殺虫剤は使わないので仕方なく花穂をちぎりました。
東京も日中の気温が20度近くありますからいろいろな病気も出てきます。
春の花は今が盛りです。
一つ一つの花が大きく成長していろいろな色の花が寄せ植えのように重なり合ってきれいです。でも、この密集した状態が病気の原因にも?
あと2週間ぐらいは楽しめそうです。
そろそろ夏の花の準備です。
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2018年 3月27日(火)「俳諧大要ーー断片的感想」

2018年03月27日 20時45分03秒 | * 俳句 *
以下は2008年にホームページでそれまで「俳諧大要」を読んだ感想をまとめたものです。

時々子規の「俳諧大要」をペラペラ開きながら読み、そのつど感想をブログ内に「俳句考」として書いてきました。
まとまらないし解釈が妥当かは自信がないので巣が、「感想」としてと同時に「俳句ってなんだろ?」と考えながらの感想です。
これまで書いてきた感想の転載ですから箇条書き風になっています。

俳句のことを考えながら正岡子規でもと本棚を探していたら、「俳諧大要」という本が目についた。
もう15年以上昔に読んだ本です。
俳句とは?といったものを初心者に解説した本であり、同時に過去の俳句を紹介をして子規の味わい方のようなものの解説があります。
近代の俳句も子規から始まるとはいえ、子規亡き後は弟子たちの間にもいろいろな考え方も出て来て、今はさまざまな枝葉のような発展があるのだろうと思いますが、子規がどのように書いているかをあらためて読むのもおもしろいと思います。
俳句を文学(詩)に高めるための力強い文体に圧倒されます。
今読んでいる本に平行しながらぺらっと読み返したいと思います。

芭蕉の「古池や。。。。」の句を静寂とか解釈すが、芭蕉はただ、かえるが池にボチャンと飛び込んだというのを詠んだのだと。
漱石と子規とのあいだに、俳句はスケッチだという言葉がたしか出ていたと思うのですが、その自然などを見つめる目が大切ということだろうか?
「俳諧大要」は、初心者に向けて書かれていますが、初心者はまずこのスケッチをたくさんしろということかもしれない。
俳句には17文字とか季語を入れるとかいくつかの決まりがあるわけですが、子規は初心者に対してすごく寛大であり、字数。。。。18文字でもいいんじゃない。「雑」季語が要れられないならそれも。。。とか、まずは見つめる目を養うということを教えているのかもしれません。
かえって俳句のお師匠さんを気取る方への批判も。
決まりごとに縛られるより自由に目を肥やす。それがだんだんと決まりごとを守れるような俳句に進歩していきますよ♪。。。そんな子規の笑顔が見えるような著書です。
オリジナリティーな自由な心の中から出てくる言葉。。。。

東京は天気がはっきりせず薄ら寒さも感じます。
5月や10月、一年間のあいだに過ごしやすい季節というのは2ヶ月ほどかもしれません。まぁ、夏は好きですが。。。。
でも、過ごしやすいというのは人間から感じる自然です。もしかしたら人間だけではなくてすべての生物にもいえるのかもしれません。自然は、生物に対して厳しさを持つというのが基本かもしれません。生物は自然に順応することで生き延びている。
そうならば、一生物である僕も順応するしかない。もちろん順応しているから生きているわけですが、気持ちの中にある「嫌な季節・天気」というものにも心として順応しなくてはいけないのかなということです。
まぁ、嫌なものは嫌なのですが、自然を見つめる事でどうにか順応できるのではないかと思います。幸いに日本にはきれいな自然の移りゆきがありますし、それを心で感じ取ろうとする俳句というものがある。ううう。。。。ん、俳句かぁ・・・・

前回の俳句考1では、俳句はスケッチのようにそのままを詠むということかと書きましたが、俳句はこのように四季の自然を用いる事が基本で、その意味においてのスケッチといえるかもしれない。
しかし子規は、俳句に表現されるものは自然の景物に限るものではないと。「季以外の雑財」を取り入れて読むべきだと。そしてこの両者が並ぶ事により句の狭さがなくなると。
では、この「雑題」が何かを考えると、四季の自然以外ということから人の営みということだろう。それは農耕をはじめに四季折々の習慣などかもしれない。
自然に対する人間(人工)は、なんとなく見方によっては対立的にも見ることができるが、子規はこの両方がないと駄目だと。それは言うに及ばず人の感情が入るということではないか?
この意味においての人間の姿のスケッチでもあるということではないか?
ここに俳句の複雑さと面白みがあるのだろう。
子規は、このような意味での俳句を(人間の感情が入るにしても?)難しく詠めば高尚な句であると勘違いをしてはならないといっているようである。そうではなく「平凡なる句はなかなかに貴し」という。
その意味では
朝顔に釣瓶取られてもらひ水
という有名な句は、スケッチ的でありわかりやすく平凡さもある。
しかし子規は書く
「このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり」と。。。。。
人の行いが現れているし、朝顔という自然の貴さも出ているが、これは俳句とは呼べないとも。厳しいですなぁ。。。。
もっと自然な形の中に心を表せということでしょうか?。。。。うううう
難しいですなぁ。。。。

第6章では、就学第二期に入ります。
「利根のある学生俳句をものすること5千首」
このぐらい詠めれば第二期に入れと。
利根。。。賢く機転が利くというような意味だそうです。「学生」については先のほうにも出てきましたが難しいです。
普通の人でも少しは学問のある者でも1万首詠めば第二期に入ってもよいだろうと。
この少しは学問がある者というのが難しいですなぁ。
明治の時代のインテリは、漢文や古事に詳しくといった教養を連想しますし、さらさらと毛筆で達筆な手紙をきちんと書けるとか。俳句にもこのような教養が出てくるようです。現代でも俳句の世界ではこの教養のあるないに俳句の深みが決まってくるのでしょうか?
仮にこれを伝統的な俳句とするならば、現代的インテリジェンスや教養、あるいは現代人の持つ機転のある頭のやわらかさから来る俳句もあるはずですね。季語も変化してきているようです。明治の子規の句も現代俳句、今の俳人の句も現代俳句なのでしょう。。。。
まぁ、どちらにしてもよりすぐれた頭脳や少しは学問のある普通の人でもない僕としてはたじろぎますなぁ。。。。
しかし、ここで書いている子規の言葉は、最後の第三期に上り詰める志、プロとはいわないまでも俳句雑誌などで名が通るような、俳人になることを目的にしているのかもしれません。これに対して学問はないが少しでも俳句を楽しみたいといういわば素人がいてもいいわけです。「俳諧大要」で言えば修学第1期にとどまる素人が大勢いることもまた俳句の世界を広げるわけです。でも、ただの大衆受けをするようなだけの俳句の世界ができてもとは思うが。。。
うん。。。1匹狼の自己満足?
こういう俳句もあっていいのかも(笑)
でも、学問はないから大層なことは書けないが、それでも正直に素直に書くこと。俳句でも読書感想文でも。

新聞の俳句欄を時々開いて入選した句を読ませてもらいます。
しかし、その句がどのような意味を持つのかがよくわからない。難しい漢字は読めないしその意味となるとなおわからん。
子規は書きます。
「天然を研究して深きものが熟慮したる句を示すとも、諸学の人はその句の美を感ぜざるべし。けだし彼は天然の上にかかる美の分子あることを知らざればなり。」
(66ページ)
優れた句を読み、その表現される世界を感じ取れないという事は、結局は優れた句は素人には作れないという事なのかもしれない。
子規は例句をあげながらその句は何を歌っているのかを書いている。たしかに子規の書く解釈を読むとその句の意味することがよくわかる。
たくさんの句を詠む事、読む事は、一緒だという事でしょうね。それには、さまざまな事物に心向けて勉強しなければならないということでしょうし、感じ取る心が必要なのでしょうね。
たった17文字ですが、それを文学に高めようとした子規ですが、初心者には優しさがありますが、17文字とはいえ奥深いものだぞと教えているのでしょうね。
でも、俳句の中の言葉は、その時代により現代人では理解できない時代性がある。現代人からすれば明治も遠い時代です。それ以上に明治の前ははるか遠くに過ぎた時代。現代語にも今の時代としての心に響く言葉があるはず。でも、子規の時代から離れた奇抜さだけの句は。。。。
今の時代の言葉で花鳥風月を。。。。それには、決まりという制約を受けながらもそこに真の自由のおもしろさがあるのかもしれない。

「俳諧大要」読了。
その他のものは後日時間があったら読み返したいと思います。

2018年追記:またそのうち読んでみたいと思います。
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2018年 3月10日(土)「HAIKU」

2018年03月10日 21時58分54秒 | * 俳句 *
俳句のユネスコ無形文化財登録に向けては頭語の方法論ではないの続きです。
福田さんがご自身の俳句論というものを開示せずにいることから俳句についての討議からの有馬さん批判が尻切れトンボになっていますが、世界遺産の登録を使用としている有馬さんも、もちろん有馬さんという方がどのような俳句論をお持ちか走りませんが、世界遺産登録に向けてのご発言だけを見ればその俳句論は「五七五の定型有季」であることははっきりしますが、世界遺産に向けての世界化が急務になっていることあるいは広がっていることの強調に走り、それも政界などの有名人が俳句をたしなんでいるといったところからの国際化だというものが目立つ。そういう流れで国内においても多くの正解の人たちを集めたり俳句の歴史に関わりのある自治他を集めている。その中で「HAIKU」という国際語を強調する。
このような構図ができているように見えてしまう。
しかし世界遺産に向けての俳句論となると心もとない状態である。
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。
俳句の普遍性……(中略) 一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」 
( ユネスコ登録に向けてより引用)
世界遺産に向けてだいぶその俳句論は敷居を低くして
「俳句の持つ魅力をより多くの人に知ってもらうことがまず大切なことだと思います。」 (同引用)
たしかに敷居を低くすることは「まず大切」であることに間違いはないのですが、一方ではこの敷居を低くした中身において俳句が世界遺産に登録をされてしまうわけです。敷居を低くして世界中から「HAIKU」愛好家や文化人を呼べるという世界遺産の負の部分が出てしまうでしょう。
有馬さんは世界のHAIKUでHAIKUのルールについて
「単語にするとせいぜい10~12単語で読んだ3行詩ですが、心は俳句そのもの。身近にある自然がテーマです。単語数が少ないので誰でも気楽に作りやすい」 (引用)
と、やはり敷居を低くしてHAIKUを語ります。
「単語にするとせいぜい10~12単語で読んだ3行詩で」「身近にある自然がテーマです。」 (引用)
まさに「五七五の定型有季」的な詩として俳句を語ります。
敷居を低くして誰でも簡単に作れる詩ですよ、ただ「五七五の定型有季」は守りましょうという中にHAIKUを単に自然詩とするような誤解が生まれます。この誤解が広まらないように危惧するのもまた福田さんの有馬さんへの批判でもあるでしょう。
数は少ないですが、もしかしたら外国人で日本人以上に俳句の定義を研究されている方がいるかもしれない。。。。。日本人以上に日本を知っている外人がいるように。日本人が外国の方に俳句とは何かを教えられることもないとは限らない。こんな状態を作り出すのが俳句のユネスコ無形文化財登録の俳句論不足からだったら皮肉な結果です。
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2018年 3月 9日(金)「俳句のユネスコ無形文化財登録に向けては討議の方法論ではない」

2018年03月09日 13時13分10秒 | * 俳句 *
先日書いた俳句はなぜ自由であり得るか(2)の続きです。
「俳句はなぜ自由であり得るか(2)」の最後は
次は福田さんへの批判について見てみましょう。【3月8日追記:これについては複雑ですなぁ】
としました。
なぜ福田さんへの反論が複雑なのか?それは俳句とは何か、定型有季など肝心な議論がそらされてしまったからです。この肝心な議論がなくなって世界遺産登録に反愛反対する方法論になってしまったからです。ですからすでに「福田さんへの批判について見てみましょう」とはならなくなりました。
言えることは肝心な議論がなぜどこかに消えてしまったのかです。
福田さんの有馬朗人氏に反対するーー俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってに対して、小津夜景さんという方が福田若之「有馬朗人に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって」について思ったこと。」としてその思いをお書きになっている。
小津さんは
「ん? だったらネットで有志を募って、さっさと四協会に公開質問状出しちゃいなよ♡」ってこと。(引用)
と、冒頭に書いて俳句の定義づけなどはパスして、福田さんの有馬さんへの批判の方法論になってしまっている。言葉悪く言えば、論理のすり替えです。福田さんもご自身の俳句の定義づけはあやふやですからこの方法論での議論に巻き込まれる。ですから、小津さんからしてみれば、福田さんの俳句の定義のあやふやさを見て反批判のようなことはできかねたのかもしれません。小津さんの優しさからしても?
これに対して福田さんは滑って転んじゃった話において方法論的なものでの反省の弁ともいえる返事を書いてそこでも俳句の定義づけをせずに俳句が世界遺産になることで定型有季の自然詩が俳句という定義になってしまう心配と怖さをお書きになっている。そして2018年に入って、俳句を遺産としてしまうことについて新たな見解に向かう。
そして西原さんという方は、
週刊俳句に、福田さんが今回の記事を書いたことに大きな意義がある。最初に言ったように、これが要点。アクセス数も多いようで、たくさんの人が、有馬インタビューを知ることになりました。
福田記事のダメなところについては、また後日。

と。
結局肝心なところの議論はそのままに。。。。。これでは俳句自体も発展しませんし、世界遺産に向けての議論も深まりません。多数派結集が力となって俳句のためと言って猪突猛進するのかもしれません。。。。。
うん?僕も最後は方法論に(笑)

HAIKUにつづく

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2018年 3月 7日(水)「俳句はなぜ自由であり得るか(2)」

2018年03月07日 21時01分52秒 | * 俳句 *
俳句はなぜ「有季」出なければならないか?
こう考えるよりも俳句は「有季」であることから発展をしてきたと見た方がよいのかもしれません。
季語があることから17文字という短い詩が生まれるのかもしれません。季語(呼び名は違いますが)の歴史は平安時代にさかのぼるともいわれます。和歌も短い詩の含まれるでしょう。
なぜこのように季語にこだわるのか?
日本は唯一の神が自然も人も支配をしているような神ではなくて八百万の神々やそれぞれの村の氏神様や道祖神やら自然のすべての現象に神が宿り、この自然に働きかけることにより八百万の神々に感謝したり時には荒ぶる神を鎮めたりしていたと見えます。この中で古代から自然のすべてに対するとらえ方というものが出来上がってきたのではないかと思います。その延長線上に季語も含まれるのではないかと思います。
同時に季語が出来上がる中で、その季語が持つ自然そのものや自然との関わりに人が感じ取るものの共通性というようなものやその心の動きの共有性というのでしょうか、そのようなものが出来上がり一つの季語でそれを表現できることが俳句という短い詩が成り立つ条件だったのではないでしょうか。
例えば今は啓蟄です。啓蟄という季語により俳句を「詠んだ人」とそれを「読んだ人」との心に共通性ができる。ここで多くの言葉(文字数)を使わずとも伝えることが来ます。同時に啓蟄をどのように心に描くかで残りの13文字が違ってくるわけで、同じ啓蟄という季語でも無限の表現ができ、それを読んだ人は感じとれ、その俳句の面白みを感じられるのです。春の訪れの切実な気持ちもあれば、滑稽味を帯びたものとしても。
このように見れば季語があることにより俳句は成り立つのではないでしょうか。
しかし、季語は自然そのものの美しさや季節の移り変わりそして農村の素朴さだけを表現しているわけではなくて、そもそも季語を生み出したりまとめたりしているのは俳人という文化人でその当時の都市に住む人々です。ですから都市に住む人々が自然に親しむあるいは農村風景や行事をスケッチする中で年の人々の感情が詩になるのだと思います。
俳句を詠むには自然を見つめなければなりませんが、自然がたくさんあれば詠めるというのではなくて都会にいてもそこから眺める風景はあるはずです。もちろん自然を守らねばならないのですが、かといって俳句を通じて自然を守ることとすることは無理があるでしょう。季節の風物詩は都会にもある。その中で人々の中に残る伝統的な季語や新たに新しい季語が生まれてくるでしょう。言葉は生きている。その中に俳句の自由さがあり、俳句が自由であり得るのです。
大根はいつ行ってもスーパーの棚に並んでいます。
時々妻と大根の季節っていつごろだっけ?と話になります。もう大根といっても季語と感じることが薄れています。しかし、値段が安くなる季節は感じ取れますし、みずみずしさにうまいなぁと感じる時がある。この安くなったなぁ、うまいなと感じ取れる心を大切に持つことで大根は冬なんだと季語が自分の中で納得がいく。この納得がいく中で俳句も詠めるのではないかなと思います。
次は福田さんへの批判について見てみましょう。【3月8日追記:これについては複雑ですなぁ】

「俳句のユネスコ無形文化財登録に向けては討議の方法論ではない」につづく
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2018年 3月 6日(火)「俳句はなぜ自由であり得るか。」

2018年03月06日 21時45分25秒 | * 俳句 *
昨日書いた俳句と自由の続きです。
「俳句と自由」では俳句が持つ規制の中におて自由は存在するという事を書いた。同時に17文字だから誰でも簡単に書ける詩だといったものを違いとも書きました。
俳句は「十七文字の定型有季」という規制の中において自由でなければならない。
では なぜ「十七文字の定型有季」という窮屈な俳句の世界に無限の自由が存在するか。窮屈さの中の自由という面では、俳句の窮屈さ季語の窮屈さの中で少しふれました。しかしもう少し福田さんの有馬さんへの批判を見てみることにします。
福田さんは次のように書いています。
「俳句」を「自然詩」として規定してしまうことになるだろうこうした動きに対して、僕は、僕自身の意志にしたがって、反対の意を示さざるをえない。
ただ自然の美しさなどをスケッチするだけに俳句を閉じ込めてはならないというようにとらえられます。
一方で福田さんの俳句感は、
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
「何かを是非「俳句」と呼んでみたくて仕方がないという妙な執心によって、そのつどかろうじて「俳句」と呼ばれるのではなかったか。」

と。俳句は自然の美しさだけではなくて人の心の表現だというようにとらえられます。
以上の整理は待ったまったくこの僕の主観ですが、俳句を自然の美しさを17文字でスケッチするという「自然詩」とすることも間違いですし、人の心を17文字で表現して詩にすれば俳句と呼んでもよいのではないかというのもまた間違いでしょう。
有馬さんの主張と福田さんの主張が混然と一体化した世界が俳句となります。月の美しさ。月の美しさは季語としてもたくさんあります。同時に同じ月を見ても見る人ごとにその月の姿のとらえ方が違うでしょう。恋人とデートの時に見る月と恋人と別れた後に見る月は違います。ですから俳句はその月そのものをスケッチするのではなくて、見ている人の心を同時にスケッチをしているのです。また楽しい気持ちの時には月でなくて花を見て句を詠むかもしれません。悲しいとき星を見て句にするかもしれません。今の気持ちを自然の中の何に写しているかも人それぞれです。
ですから「十七文字の定型有季」自然と人の営みや心の現れと混然と一体化する中で無限の表現的自由さを持つことができるのです。この上に立って俳句は自然詩と言えます。
ではなぜ「有季」か?次はここを考えたいと思います。

俳句はなぜ自由であり得るか(2)につづく

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2018年 3月 5日(月)「俳句と自由」

2018年03月05日 11時37分46秒 | * 俳句 *
先日書いた俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とはなにか(3)の続きです。
俳句のユネスコ無形文化財登録に向けての俳句と自由を考える場合、福田若之さんの有馬朗人氏に反対する
ー俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってー
【週刊俳句】を見てみましょう。
これは有馬朗人さんのインタビュー記事そこが聞きたい!世界のHAIKUへの批判として書かれています。
結論から先に書くと、福田若之さんの「俳句とは?」の考え方が見えておらず、「近代に読み返された俳諧の発句から、ジョン・ケージの五七五拍子のピアノの小品にいたるまで、僕たちはそのつど、僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」(引用)と、書いていますが、ここでは俳句とは「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。」という事だけです。これでは有馬さんへの批判としては成り立たないでしょう。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。(3)」でも引用した有馬さんのお考えでえある
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。」
「一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」
と、福田さんの
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」
とは違いがないのです。
俳句の自由さを求める中で、自由が大衆迎合的になし崩し的な拡大解釈がされはじめてしまいます。
僕たちは自然に働きかけながらも自然の法則の中で規制されて生きています。ここには観念論的なまったくの自由はありません。自然の法則にその都度従う中で自由は貫徹されています。自由になりたいなら、自然に対して自由に働きかけたいならば、自然法則をしっかり見つめなければその自由を手に取ることができないでしょう。
それと同じように俳句には一つの法則のような決まりごとがあります。ここからはみ出せばすでに俳句ではなくなります。同じ5・75でも川柳とよばれる表現形態が独立しました。俳句から影響された絵画では俳画が生まれました。これらは俳句ではありません。福田さんがおかきの俳句から影響された音楽も俳句ではなくてひとつの表現方法であり「俳楽」ととでも呼ぶ新しい表現方法として広まればよいのです。
「僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた」というだけでは誤りです。
同時に俳句をみじかい詩あるいは誰でも簡単に作ることができるとだけ規定をしてしまうと、それは季語さえ入れれば交通安全標語も俳句となります。これを俳句ではないと切り離して俳句的言葉遊びあるいは俳句的標語などという分野に置くべきでしょう。
次は俳句の世界で規制されている中での自由を書きたいと思います。

 俳句はなぜ自由であり得るか」につづく
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2018年 3月 1日(木)「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは何か。(3)」

2018年03月01日 21時31分23秒 | * 俳句 *
俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは何か。(2)の続きです。
俳句が持つ「大衆性」ですが、これをどのようにとらえるべきか。
有馬朗人さんはユネスコ無形文化遺産登録に向けてでこの俳句の大衆性につて次のように書いています。
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。」
また、「俳句の普遍性」としても次のように書いています。
「一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」
「短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです」そして俳句が短いという事で「俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます」とありますが、これは世界遺産登録に向けてのリップサービスではないでしょうか。また、誰でもが作ることができたり詩的になったりできるのは何も俳句ばかりではないでしょう。詩や小説やエッセイや。。。。文学だけではなくて絵や写真や様々な分野において多くの人々が参加をしています。特にインターネットの時代ですから、本や雑誌に投稿して載せてもらうような壁はなくなりブログやツイッターやもちろんホームページでも簡単に参加できるようになっています。それに対して俳句は季語があり17文字という短い詩であるからこそとっつきにくさもあるのではないでしょうか。「詩人」は自由詩が多いでしょう。ですから俳句にも自由を求めていく傾向が強いと思います。「簡潔」や「短い」という事から俳句を世界遺産にという論点はやはりリップサービスであり、下手をすればポピュリズムになってしまいます。
たしかに正岡子規も多くの初心者を歓迎しており、心に浮かんだ句を即興的にもたくさん作れと何かに書いていたと思います。ですから俳句は難しいものと見て大衆の句を排除するものではないでしょう。多くの初心者を歓迎しながらも中休中級そして俳人へと昇っていくことを言っているのではないでしょうか。この正岡子規の考え方と、簡潔だから短いのだからとすることは少し違いがあるでしょう。
次は俳句の持つ自由さについて書いてみたいと思います。

俳句と自由につづく
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2018年 2月26日(月)「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは何か。(2)」

2018年02月26日 10時06分57秒 | * 俳句 *
俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは。の続きです。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは何か。」では、俳句による自然の保護や平和性については俳句の普遍的な遺産ではないと書いた。人は自然に働きかけながらその恵みを得ていた。そしてその自然の厳しさや恵みと人の生活の営みとの関係をうたったものが俳句の一つの遺産でしょう。未来に向かっても同じであります。自然保護のために俳句は作られてきたのではないという事です。自然を破壊していけば自然からの驚異は増大をしてめぐみは少なくなります。その過程から俳句はまた生まれるでしょう。平和についても現在「積極的平和主義」が言われ、アメリカの軍事政策も世界平和が言われています。この中におて積極的平和主義自体が戦争による平和の維持という面を色濃くしてきました。俳句もこの積極的平和主義の平和感から詠まれるようになるでしょう。一方で戦後の平和主義からの俳句も詠まれるでしょう。ここでは俳句の平和性は抽象的であり俳句の遺産としては普遍性を持たなくなります。平和のための戦争を煽る俳句も、平和主義を直接問う俳句も交通安全運動や防火運動の標語的5・7・5のような月並み俳句以上の物ではなくて俳句の遺産という発展の中では「下手な俳句」等の位置づけになるでしょう。一方ではその中での自然とともにある生活の営みの本来の俳句から自然を愛することや平和を愛することの心が現れてくるでしょう。これが未来に向かっての俳句の発展性であり、未来への遺産となるでしょう。
さて、それでは過去の俳句の歴史からの遺産とは何か、伝統とは何かが問題となります。
まず、「5・7・5定型有季」と「大衆性」「娯楽性」を見てみましょう。
交通安全運動の標語に見る17文字のリズムは日本人の表現方法として血肉のようになっています。もちろんこの17文字のリズムは俳句からきており俳句が無意識的にも遺産として残されているという事です。しかし交通安全運動の標語と俳句とは違います。正岡子規によって俳句の詩的な重要性が遺産として残されました。ですから俳句は詩でなければなりません。
日本人の血肉ともなっている5・7・5のリズムと17文字内に詩的な気持ちを込めるという定型こそが俳句と言えるでしょう。ですから俳句の歴史における遺産の一つは定型という事になります。そこには変調やどうしても必要な字余りは許容範囲内となるでしょう。もちろん5・7・5が基本形とはなるでしょう。表現の強さや心の現れの表現として必要な場合に変調は許されるでしょう。
俳句の定型としての詩形は、自然と向き合う生活の営みにあります。
自然と向き合う事では日本では四季があり、その四季に人は向き合い生きていくために不可欠な農業などと結びついてそれが生活の営みとなります。現代は農業から離れた自然との向き合いが多くなりましたが、ファッションなどの文化を通じても自然に向き合い心は変わりないでしょう。ですから有季は俳句には切り離せないものですからそれは俳句の歴史における遺産です。
以上に「定型」と「有季」については俳句の窮屈さ季語の窮屈さで思うところを書いていますが、この二つの窮屈さこそが俳句の死としての特徴でもあるのでしょう。窮屈さから解放されたいという中に定型破りや無季も生まれますが、川柳を見てみれば、無季であり俳句の持つ滑稽さや自虐性等に特化していけば俳句とは違う世界観の一つの文学となります。俳句の窮屈さから離れた川柳のような文学を作り上げることも俳句の発展であり、同時に俳句からの飛躍となるでしょう。しかしそれを俳句だと言い張るのは無理があります。
俳句が持つ「大衆性」ですが、これをどのようにとらえるべきか。

俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは何か。(3) 」につづく
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2018年 2月24日(土)「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは何か。」

2018年02月24日 21時36分54秒 | * 俳句 *
昨日書いた遺産としての俳句の続きです。
上野「遺産としての俳句」に次のように書きました。
「この過去の時間の流れは俳句界にとってはもちろん日本文化にとっても「遺産」です。
しかし俳句の歴史において発展をした過程が遺産だからと言ってそれが「俳句は遺産だ」とはならにでしょう。
俳句自体は遺産ではなくて生きていて未来に向かって発展をするものですから。
俳句自体を遺産としてしまうと伝統的な過去の俳句の歴史がそして過去の俳句自体が俳句であると定義をされてしまう危険性があります。それは俳句を壊してしまう結果となります。」

俳句自体が遺産ではなく、俳句が進化しながら今に至った歴史自体が遺産であるという事です。ですから俳句の歴史自体の遺産をどう引き継ぎ発展させるかが伝統を引き継ぐという事になります。俳句をユネスコ無形文化遺産に残すならば、俳句自体を遺産とすることなく俳句の発展自体そして何を作り上げたかを遺産とすべきなんです。
では、この意味でこの遺産から現代の俳句界は何を伝統として学び、どう発展させるかがその責任となります。
これについて考える一つのための論文があります。先の「遺産としての俳句」でも紹介させていただいた福田若之さんが有馬朗人氏に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってを書いています。この論文は、有馬朗人さんのインタビュー記事そこが聞きたい:世界のHIKUへの批判です。
有馬さんはインタビューにおいて
「豊かな自然あってこその俳句です。学校で子供たちが俳句を学ぶ目的の一つが自然の大切さを知ること。さらには自然を保護する心を養うこと」(引用)
と語り、また俳句のユネスコ無形文化遺産登録に向けてで俳句で世界平和をとか俳句の平和性を書いていますが、これは俳句の歴史からの普遍的な遺産でも伝統でもないでしょう。
自然破壊からの季語の乱れはあるでしょうが、季語の問題からすれば居住する地域の差などからその差をどうするのかを考えてきた過去概算が遺産なわけで、自然の脅威を詠むのもまた俳句でしょう。平和をつくるというよりも戦争時にも俳句が読まれ、時には戦争養護のような句もあったかもしれませんし、戦時中にも日常と自然を詠んだものもあったはずです。

 「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。につづく
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2018年 2月23日(金)2「遺産としての俳句」

2018年02月23日 20時16分18秒 | * 俳句 *
2017年2月に俳句を世界文化遺産に?を書き、今年2月には俳句のユネスコ無形文化遺産登録を書きました。
そして「俳句のユネスコ無形文化遺産登録」の最後に
「それでは俳句文学を作り上げている方がどう思っているのか?ここも大切で、一部の俳人が世界文化遺産に動くことは片手落ちです。時間があればこの点も。。。。。」
と書きました。
ユネスコの世界遺産自体についても様々な意見があるでしょう。そうならば俳句の世界遺産化についてはさらに多くの視点からの意見が出て当たり前です。世界遺産化に向けては俳句4団体そして議員や自治体も動き出しています。これらの集まりであるユネスコ無形文化遺産登録推進協議会は俳句文化の中では多数派となり一定の力もあるでしょう。これに対して疑問や反対意見は少数派となります。政治の世界をはじめ社会の隅々において多数派の力が圧倒的な力を持ちますから世界遺産への動きも多数派の中で進められるでしょう。しかし俳句というものは文学なのですから一つの形にはめてはいけないことです。少数派の意見も十分考慮しなければなりません。
とはいっても俳句というものは文学ですからユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の動きに関係なく発展はしていくでしょう。同時に、俳句がユネスコ無形文化遺産になれば俳句が一つの定義の中に抑え込まれる危険性があり、上記した「俳句のユネスコ無形文化遺産登録」に引用もしたようなうわべだけの俳句論が広まってしまう危険性もあります。そして政治的な利用としては、今「日本はすごい」といった宣伝がたくさんなされている中で俳句が世界に認められているといった過剰な宣伝にも使われること危険性も。
一つ言えるのは、外国人が日本文化全体あるいは俳句に理解を示していることは外国人が日本文化をよく見ているという事です。そうならば日本人は排外主義を克服して外国文化の理解に努める重要性を子供たちにも伝えるべきでしょう。そうすることにより俳句を通して「日本はすごい」だけではなくて世界の文学にはすごいものがたくさんあることを理解させることができるでしょう。
さて、それでは「俳句のユネスコ無形文化遺産登録推進協議会」に対して疑問がどのように少数派から出ているかをみましょう。
まず俳句は遺産かという疑問があります。
これについては「週刊俳句」のサイトに
俳句を「遺産」として扱うことについて
ベンヤミンのテクストとその翻訳を手掛かりに
福田若之

というものがあります。
ここではこの論文の中身について検討するというよりも感想を含めて自分の考え方を書きたいと思います。もちろん感想ですからこの論文の中身に沿いますが、解釈は僕の独断ですのでこの論文には責任はありません。
俳句は文化遺産か?
「遺産」というと過去のものというイメージが強くなります。
遺産を受け継ぐ。。。現代の人々が過去のものを受け継ぐこと。
たしかに俳句には古くからの歴史もありますからその過去のものを受け継ぐという意味では俳句も遺産という事になります。発句は31文字から17文字が独立されたはずですからそこには飛躍があった。松尾芭蕉が元禄俳句を広めて庶民化させたことは飛躍があった。明治になり正岡子規が月並み俳句を排して詩の世界としての俳句を広めたことは飛躍があった。飛躍とは進歩という事で、俳句は進歩そして発展をしながら現代にいたっているわけです。この過去の時間の流れは俳句界にとってはもちろん日本文化にとっても「遺産」です。
しかし俳句の歴史において発展をした過程が遺産だからと言ってそれが「俳句は遺産だ」とはならにでしょう。
俳句自体は遺産ではなくて生きていて未来に向かって発展をするものですから。
俳句自体を遺産としてしまうと伝統的な過去の俳句の歴史がそして過去の俳句自体が俳句であると定義をされてしまう危険性があります。それは俳句を壊してしまう結果となります。
過去の伝統だけに縛らた俳句の定義は死んだ俳句も同然です。ここに俳人の少数派としての批判や疑問が出るのも当然でしょう。
しかし俳句の発展とは何かが問題になります。
過去の伝統をまるで無視をした俳句は発展とよべるのか。。。。。
発展とは過去からの発展ですから、過去の俳句嫌俳句の考え方そして伝統を残しながらでなければ発展はありません。過去の俳句に発展性が見えないという矛盾を解決するという事は、その過去の俳句からどう発展させるかです。月並み俳句という矛盾をどう発展させるかはその俳句すべてを否定することではなくて月並み俳句もそれ以前の俳句からの発展にあるわけですから、月並み俳句からの発展は、否定の否定です。一度否定をされて新たな俳句が生まれたがそこに矛盾が出たらさらに否定をされなければならない。しかしその否定はそれ以前の俳句に戻ることではない。新たな俳句が生まれるのです。
これが発展です。
次は俳句の伝統とは何かという事になりますが、これは次回とします。
最後に福田若之さんの「俳句を「遺産」として扱うことについて」の最後の言葉を引用しておきます。
「まずは現在に対する感覚を研ぎ澄ませることだ。そして、その現在に対する研ぎ澄まされた感覚によって、過去の出来事の名残りが今日的なものにまで響きわたろうとするその機会を捉えることだ。ほかならぬ過去こそが、そのつどいまここにおいて、そうした聞き分けを要求しているのである。」

俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。につづく
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2018年 2月19日(月)「俳句のユネスコ無形文化遺産登録」

2018年02月19日 13時26分49秒 | * 俳句 *
2017年2月13日に俳句を世界文化遺産に?というものを書きましたが、すでに俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会というものができているようです。また、早くも俳句のユネスコ無形文化遺産への登録を目指す議員連盟も発足しているようです。
国際俳句交流協会会長 有馬 朗人さんはユネスコ無形文化遺産登録に向けてとして詳しく設立の趣意を書いています。
俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の設立趣意書でも同議員連盟設立趣意書でも「俳句は人類が保全すべき文化的価値を有するものである」と共通認識においてユネスコ無形文化遺産に登録を進めるという事です。ではこの「俳句は人類が保全すべき文化的価値を有するものである」となるとどのような中身かはわかりません。ただ有馬さんの「ユネスコ無形文化遺産登録に向けて」でその中身がある程度分かるような気がします。
以下、この有馬さんの「ユネスコ無形文化遺産登録に向けて」について感想を書きたいと思います。「 」内は引用です。またユネスコ世界文化遺産についてや日本から登録されている文化遺産にどのようなものがあるかはこちらのサイトを参考にさせていただきました。
なお、わかりやすく解説されているのがNHKの「俳句を世界文化遺産に」かと思います。
まず少し長いですが引用をします。
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。

俳句の普遍性……アメリカの代表的な詩人アレン・ギンスバーグは俳句のように短いしかも自然をテーマにした詩を沢山作りました。 又、ノーベル文学賞を受賞したスウェーデンのトマス・トランストロメルや同じく平和賞をその死後に贈られたスウエーデン人のダグ・ハマーショルド元国連事務総長が俳句詩を詠まれたことはよく知られています。 このように一流の詩人や文人政治家が俳句を詠んでいることは俳句の普遍性を表していると思います。 一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。

俳句の平和性……俳句の主題は自然観察と日々の生活の中にあります。 俳句は瞬間を永遠のものにすることが可能です。 身近な自然を観察することは自然保護の心にも繋がり、人々の相互理解を生み、ひいては世界の平和へと繋がることになるのです。

次世代への教育力……言葉に関する感性を磨くことは表現力を高め、自分の考えを簡潔にまとめる訓練になります。 アメリカでは俳句を授業に取り入れて子ども達の表現力を育んでいるそうです。 俳句がユネスコに登録されれば日本の子どもをはじめ世界の子ども達の国語力の向上にも役立つでしょう。」

和食が去年でしたっけ、世界文化遺産になり世界中で日本食ブームにもなりました。しかし和食って何でしょうか?三ツ星レストランにもなっている日本食店もあれば、地方の郷土料理もある。そして我が家で日常食している和食もある。ここにはプロの料理もあれば大衆料理もある。和食と言っても、刺身一つとってもたしかな食材としての魚も必要でプロでなければうまい刺身はできない。一方では100円の回転寿司でも刺身を楽しめる。ここで和食とは「和食の大衆性」という形で世界文化遺産に登録されたのでしょうか?
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです」では俳句全体を言い表していませんし、「伝統文学」としての俳句を語ってはいません。俳句の大衆性と言いますが、文学としての俳句と同じように文学には初心者が作る小説や詩などもありますから文学全体が大衆性を持ちます。しかし文学となれば一定程度完成されたものでなければなりません。
「俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」という「俳句の普遍性」も同じで私人が急速に増えるという事はあり得ないでしょう。
「俳句の大衆性」を世界文化遺産登録のための道具としてはならにでしょう。
僕も俳句も含めて文学の大衆化は良いことと思います。より多くの人々が俳句を詠むこと自体は良いことで、そのうまさや下手さを大目に見ていただきながら底辺を広げることは大切です。しかし、ただこれだけで世界文化遺産に登録させようというのは乱暴だという事です。
「俳句の平和性」と言いますが、俳句を詠んでいても戦争を支持する人々もいるでしょう。同時に俳句だけではなくて文学全体が平和を作り上げる作用があります。俳句=平和という世界遺産登録のためのこじつけもよくない。
俳句を教育に「利用」するのは良くない。俳句は教育にも「役立つ」というだけです。
どうも世界遺産というものが観光開発につながりすぎるという面も気になります。
俳句の世界遺産にしてもいくつかの自治体が動いているようです。議員連盟もそれを後押しするという方もいるかもしれないという懸念があります。
海外旅行に行けば、世界遺産だから見ておくかとなると思いますが、外国の方も日本に来れば世界遺産だからと見に来るかもしれない。しかし、テレビなどを見ていると、ネットで広まって世界遺産ではない日本人が当たり前の世界だと思っている処に人気が集まっている。日本人が知らない歴史や文化を見つけにきている。ここに大衆性がありますね。和食がラーメンであったりおでんであったり。俳句に興味を見つける外国の方が日本人と一緒に能動的に動いて世界文化遺産化は進むでしょう。そのためのおぜん立てを作り上げることはないと思います。
それでは俳句文学を作り上げている方がどう思っているのか?ここも大切で、一部の俳人が世界文化遺産に動くことは片手落ちです。時間があればこの点も。。。。。

遺産としての俳句に続く
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