友人の元川(もとかわ)にとって一番、怖(こわ)いのは幽霊でもなければ妻でもなかった。それは、ゴキブリだった。ハイテンションの朝、その虫を見ると、元川はいっきにやる気を削(そ)がれ、24時間は何も出来ない放心状態へ陥(おちい)る破目になるのだった。次の日が重要な仕事なら、これはもう偉(えら)いことだ。見た瞬間から24時間だから、当然、次の日は朝からテンションはダダ落ち状態である。それでも勤めを休む訳にはいかないから、仕方なしにショボく家を出るのだった。
蝉(せみ)しぐれが喧(やかま)しい昼過ぎ、まだ元川のテンションは回復していなかった。
「元川君、どうしたんだ? 今朝から顔色が悪いぞ…」
課長の渡橋(とばし)が元川の顔色を窺(うかが)った。
「べつに大したことは…。もうじき24時間ですから」
「えっ!?」
「いや、なんでもありません…」
危うく元川は暈(ぼか)した。
「そうかい? なら、いいんだけどさ。これから重要な取引先と会うんだからね」
そして会議室で取引先との会合が始まった。会合は順調に進行し、めでたく契約の締結となった。ところが、である。その後(あと)がいけなかった。業務話が終わり、取引先と世間話で盛り上がっていたときである。
「いや、立派な社屋ですな」
渡橋が少しヨイショして先方のご機嫌を窺った。
「ははは…しかし、うちもゴキブリは出ますよ。昨日(きのう)も見ました」
取引先の専務が冗談半分にそう言った瞬間、元川は、「もういやだ!」と絶叫し、気を失った。そんなとても怖い話を最近、私は元川から聞かされた。
完