雨の夜、一人の男が忽然(こつぜん)と消えた。その男は三日後、とある川の岸辺で水死体で発見された。残されていた免許証から、その男の名は梅干(うめぼし)塩味(しおみ)と判明した。梅干は殺されたのか? いや、そうではなく単なる事故死なのか? いやいやいや…そうでもなく自身による自殺なのか? 署内の捜査一課は意見が割れ、騒然としていた。
「まあ、いいさ…」
警部の紫蘇塚(しそづか)は眠そうな目を擦(こす)りながら欠伸(あくび)をし、さもどうでもいいように言った。それもそのはずで、紫蘇塚は明日で定年退職する身だったから発想が甘くなっていた。内心では、この一件さえなければ、皆に笑顔の祝福を受け、薔薇(ばら)色の気分で…と思え、描いていた筋書きが泡と消えたことにガックリしていたのだ。その潜在意識が、さもどうでもいいような投げ槍な言葉になった訳だ。
「課長…」
係長の鍬形(くわがた)は、そんないい加減な…と思ったが、そこまでは言わず、虫のように小さくなり、思うに留(とど)めた。鍬形は本庁派遣の制服組で、何も起こさなければ、この四月に異動でポストを上げ、無事に帰還(きかん)できることが目に見えていたから、したたかで狡猾(こうかつ)だった。手柄(てがら)を上げれば、さらに上のポストを狙え(ねら)えることも彼は知っていた。
翌朝、新しい課長、甲(かぶと)が捜査一課に配属された。彼は叩(たた)き上げの生え抜きで、現場の事情は熟知(じゅくち)していた。甲×鍬形の虫コンビの仲は誰の目にも上手(うま)くいくようには見えなかった。事実、甲は鍬形を無視し、直接現場の刑事へ指示を出した。ちょうど、木の幹(みき)で蜜(みつ)を吸っていたクワガタが、やって来たカブト虫の角(つの)でポトリ! と地上へ振り落とされた格好だ。事件は鑑識と科捜研の緻密(ちみつ)な捜査の結果、梅干が昆虫採集をやっている途中で足を滑らせ、坂から転落したことが濃厚となった。事件はあっけなく終結した。
「だから、言ったろう。『まあ、いいさ…』って」
退職後、のんびりと差し入れを持って現れた紫蘇塚は、部下を見回して笑った。だが事実は違っていた。梅干は妄想に苛(さいな)まれ、雨の夜にもかかわらず昆虫採集に出かけたのだ。そして現場で自分が虫にでもなった気分で両腕をパタパタと羽ばたかせ家へ帰ろうとした。その結果、坂を転落したのだった。その事実は本人以外、誰も知らない。
完