まだ暑かったが、そろそろ長袖(ながそで)服とか少し厚目の衣類を出しておかないとな…と糸織(いとおり)は思った。プラスチック製の行李(こうり)に収納しておいた衣類を糸織は面倒くさそうに一枚、そしまた一枚と取り出した始めた。そして何枚かを取り出したそのときだった。糸織はおやっ? 確かこれは…と思った。20年以上、着ていなかった長袖服だった。しかもそれは以前から見つからなかったもので、とうとう諦(あきら)めていた代物(しろもの)だったのだ。それも、その古着の一枚だけで、あとは去年の秋から冬に袖を通したものばかりだった。
「怪(おか)しいぞ…」
糸織は独りごちた。そのときだった。
『いやですね、ご主人。私をお忘れでしたか?』
どこからともなく、微(かす)かな声がした。糸織はゾクッと寒けを覚えた。このアパートには自分以外いないのだから、声などするはずがないのである。それが聞こえたのだ。声は続いた。
『お忘れのようでしたから、私の方から出て参りました。私も着て欲しいですからね』
理屈は合っていた。
「いや、僕も探(さが)してたんだよ。どこにいたの?」
糸織は、いつの間(ま)にか違和感なく古着と話していた。
『困った人ですねぇ~。クローゼットの片隅で私だけ取り残されていたんですよ』
糸織はクローゼットの中も、くまなく探したつもりだった。
「そんなとこに? あの中も探したんだけどねぇ~」
妙なことに、恐怖を感じず古着と話している自分が糸織は不思議に思えた。
『まあ、いいです。探してもらってたのなら、本望(ほんもう)です。もし、探していただけなかったのなら引退覚悟でした』
「ははは…なんか、お相撲(すもう)みたいだな」
二人は笑い合った。ただ、糸織の顔は笑っていたが、古着は当然、笑い声だけで、手にした糸織にバイブ振動を微(かす)かに与えるだけだった。
「いい振動だ。ずっと笑っていてくれないか?」
糸織がそう言ったとき、古着は糸織の首筋にまかれていた。
『嫌だな…着てくださいよ』
古着は苦笑したあと、笑いを止めた。とうぜん、心地よい首筋の振動も止まった。糸織は、しまった! と正直な自分を悔(くや)やんだ。そうは問屋が古着を卸(おろ)さなかった。
完