夏の怪奇小説特集 水本爽涼
第三話 抜け穴(7)
水面は透明な表情を変えず、その水面の奥深くに、薄暗く、しかし明確な円の輪郭をもって、それは存在していたのでした。ほんの僅(わず)かではありますが、それは揺らいでおりました。無意識の内に、思わず私は、妻と二人の子供の名を叫んでいたのです。その刹那でした。私の周囲に真っ白の光が輝き、私の意識は遠ざかっていきました。
気がつくと、いつもと変わらない、出来事が起こる以前の家族の風景がありました。それからのことは、夢といえば夢なのでしょう。私には事実だとは明確に断言できません。確かに妻は夕食の準備をしておりましたし、私は会社休みの日なのか、リビングで寝っ転がっていました。
起き上がると、無邪気に遊ぶ二人の子供がおりました。二人の子供は、テレビゲームに夢中になっていました。
「もう夕食よ…」と、妻の声がしました。そうです、妻も二人の子供も存在したのです。
しかし…、「私の家が選ばれてよかったわね。あちらの世界とは全然、生活感が違うわ」と、妻は口にしたのです。
私には、妻の言葉の意味が、どうしても分かりませんでした。それにね家の佇まいが少し妙でした。以前の私の家のものではない不思議なものが存在したのです。暫(しばら)く私は思考感覚が麻痺していましたが、それでも現実を直視しようと、見て歩いていました。
何事もなかったかのような家族の様子に、私は本の少し躊躇(ちゅうちょ)しながらも、今の状況を冷静に受け止めようと思いました。そのとき、妻がふと云ったのです。
「貴方も、こちらへ来られてよかったわ」
そのひと言が全てを理解させてくれたのです。私も異空間に来たのだということを…、しかもそれは、夢ではなかった、ということをです。
でも私には、もうどうでもよかったのです。家族さえ存在してくれるなら…。
もう少しお話しすることもありますが、これが抜け穴に導かれた私達家族に起こった事の顛末(てんまつ)です。現在では、人間世界では考えられない苦のない世界で、家族四人が幸せに暮らしております。
この話を信じる信じないは、貴方のご勝手ですが…。
第三話 了