冬にしてはポカポカ陽気の日の朝、昨日降った雪解け水の音を聞きながら、小次郎はウトウトと縁側で眠っていた。今日は仕事が向うの都合とかでキャンセルになり、俄かの休みとなったのだ。積もった疲れがドッ! と出て、小次郎は朝から睡魔に襲われていた。里山夫婦も今日は二人で出かけ、小次郎は態(てい)のよい留守番猫だった。
「美味いものを買ってきてやるからな…」
ご機嫌とりでもないのだろうが、出がけに里山が小次郎に言った言葉を楽しみに小次郎は眠っていた。かなり稼(かせ)いでいるはずなのだから、鰹節(かつおぶし)1本では割に合わないぞ…と思いながら微睡(まどろ)んでいたとき、急に黄色い声がし、小次郎は耳を立て瞼(まぶた)を少し開いた。庭の向こうに見える物置の軒下(のきした)に、なんと十数匹の娘猫が縁側の小次郎を窺(うかが)っていた。悪い気はしない小次郎だったが、プライバシーの侵害は避(さ)けて欲しかった。かといって、自分のファンを無碍(むげ)にして見て見ぬふりを決め込む・・というのも気が引けた。そんなことで、小次郎は徐(おもむろ)に立つと、前脚(まえあし)を伸ばし、続いて後ろ脚を伸ばした。そして、ガラス越しに娘猫達へ視線を向け、軽くニャ~とひと声発した。その途端、ニャニャ~~!! と、歓声(かんせい)が湧(わ)いた。小次郎は里山夫婦が出ていてよかったな…と思った。そして、ここでの日向(ひなた)ぼっこもし辛(づら)くなったか…と、有名猫の喜びと悲哀を少し感じた。
「どうって…。いや、初めはドッキリなんじゃないの? とかさ、思おてたんや。どう考えても、猫の君が話す・・っていうのは有り得えへん。そんなアテレコは結構、あるしさ」
関西出身の梨川(なしかわ)は、ところどころに関西弁を織り交ぜて話した。
次の日、<小次郎ショー>の視聴率は前回を上回り、さらなる高視聴率を出した。MTリポリューションの梨川も面目躍如で、どこかホッ! としていた。それに比べ小次郎は随分、疲れていた。
「おい小次郎、今朝は元気がないな…」
『はあ、少し僕も過労気味でして…』
「なに言ってる。お前はまだ若いじゃないかっ!」
「そりゃ若いんですけどね。こう忙(いそが)しいと、さすがに僕も…」
「そうか…。少し調整しよう。お前あっての俺だからな。少し時間が出きれば、温泉で湯治(とうじ)もいいな…。これも考えておこう」
湯治は都合がいい里山のいい訳で、自分が湯治で、どっぷりと湯に浸(つ)かり、美味(うま)い海や山の幸を食べて寛(くつろ)ぎたかったのだ。それはともかくとして、里山としては、稼ぎのいい小次郎に万一のことがあれば困るのだ。そのことは沙希代にも釘を刺されていた。なんといっても、今の里山家の家計は小次郎の稼ぎに委(ゆだ)ねられているからだった。
小次郎に新しい悩みが生まれていた。疲れもさりながら、娘猫にオッカケられるようになったのだった。黄色い声でニャ~ニャ~やられるのは、人間の業界人の場合と変わりがなかった。
「リハ抜きのブッツケでいきます。ただし、マズい部分は切りますが…」
どうも駒井が意図するところは、意外な展開を期待しているようだった。
「小次郎に何か指示とかは?」
「いつものように語らせていただいて結構です。そうお伝え下さい」
スタジオには応接三点セットがあり、デスクを挟(はさ)んで左右の椅子にゲスト出演者と小次郎が座って対談するという番組設定になっていた。いつもカメラ付近で里山は収録の様子を立ち見していた。猫と人間が会話する・・という今までの科学を否定する内容で、常に視聴率は80~90%台を維持するお化け番組だった。一般視聴者に限らず、科学者、言語学者、知識人、政治家、ジャーナリスト、教育者…あらゆる人が<小次郎ショー>を観ていた。
収録は順調に推移した。梨川は猫と会話する違和感と緊張感で少し上がっていたが、それが返って番組を盛り上げていた。
「君は人間をどう思う?」
『どうって言われましてもね…。人間らしいな、としか…』
「人間らしいって?」
『まあ、良くも悪くも人間だと思うだけです』
「なるほど…」
梨川はロック風に頷(うなず)いた。
『じゃあ、僕の方から…。梨川さんは猫が話すのをどう思われます?』
小次郎は逆に訊(き)き返した。
視聴率賞の祝賀パーティが行われてから数ヶ月が経ち、本格的な冬が巡ろうとしていた。小雪が舞う朝、里山と小次郎は、この日もまた仕事だった。キャリーボックスを小型毛布ですっぽりと包(くる)んで保温し、里山は家をあとにした。里山は完全に小次郎のマネージャーになりつつあった。幸か不幸か、小次郎人気は翳(かげ)らず、活躍する日々が続いていた。
『今朝は冷えますね…』
「そうだな…」
里山はテレ京の駐車場へ車を止め、局内へ歩いていた。今月から<小次郎ショー>のバラエティ番組収録が始まっていた。視聴率は相変わらず好調で、テレ京の制作部長、中宮はホクホク顔だった。
「おはようございます、ご苦労さまです」
スタジオ内では客扱いの丁重な、おもてなし状態だった。
「好調ですよ、里山さん!」
小次郎人気でチーフプロデューサーに昇格した駒井が駆け寄ってきた。里山を見て、駒井の機嫌が悪い訳がない。なんといっても駒井にとって、里山は出世の神様だった。
「今日は楽にやっていただいて結構です。ゲストは若手歌手ですから…」
「なんという方です?」
「あれっ? 言ってなかったでしたっけ? MTリポリューションの梨川(なしかわ)君ですよ」
里山はロック歌手、梨川の名を一応、知ってはいた。曲も聴いたことはあったが、ジェネレーションギャップからか、入れ込んで聴く・・というほどではなかった。
その後もタレント猫としての多忙な日々が小次郎に続いた。今日は休みたいな…と小次郎は思うときもあったが、マネージャーの里山に迷惑がかかるといけない…と思え、思うに留めた。問題は里山自身に起こりつつあった。テレビ収録が増え、余りに会社勤めを休む里山に、沙希代が不審を抱いたのだ。日々、通勤する態で家は出ていたものの、すでに里山は会社を退職していたが、沙希代はそのことを知らなかった。そのことは話さないまま、今までと同じように、月々のものは沙希代へきっちりと渡していた。幸い、今までは給料を手渡すだけで、明細は見せずにいたから、なんとか沙希代を誤魔化せていた。沙希代も手芸教室の収入があったから、そう気にしていなかった。
『かなり危ういですよ、ご主人』
「そろそろ、話そうかと思ってるんだ」
『僕もその方がいいと思いますよ…』
木枯らしが吹き始めた日の朝、里山と小次郎はテレビ局のロビーで、そんな会話をしていた。というのも、その朝、沙希代に「会社は大丈夫なの? そんなに休んで…」と訊(き)かれたからだった。
里山が会社を辞めたことを沙希代に話したのはその晩だった。
「…まあ、そういうことだ」
「そんなこと、知ってたわよ」
沙希代は小笑いして返した。不審に思えたその日、沙希代は会社へ電話し、全てを知ったのである。里山はそうとも知らず、ひと月が過ぎてた。なんだ、そうだったか…と、里山は気づかなかった自分が馬鹿に思えた。いつやらの準備策③家では異動話を内緒にし…以降の算段は、もう必要なかったのである。
「それは、大丈夫です。毛皮(けがわ)先生も明日の朝にはケロッとしてるだろうと言ってられましたから。それじゃ!」
[えっ?! 毛皮? はっはっはっ…。失礼しました。面白い名の先生ですね?]
爆笑する駒井の声が里山の耳元へ届(とど)いた。
「はあ、まあ…。それじゃ、失礼します」
そういや、面白い名だな・・と里山も携帯を切って思った。里山はエンジンキーを捻(ひね)ると車を始動した。小次郎は相変わらず隣の助手席で肩を揺らしながら爆睡(ばくすい)していた。
次の日の朝、小次郎はすっかり元の状態へ戻(もど)り、目覚めた。記憶は、ホテルの鳳凰の間でグラスをペロペロしたときから途絶えていた。
「やあ、おはよう!」
『おはようございます…』
「よかった、よかった! 体調はよさそうだ。やはり酔っぱらったのか…」
『猫ぎきが悪い。酔っぱらっただなんて…』
小次郎は少し自尊心を傷つけられた思いがした。人の言葉が話せるタレント猫・・というレッテルが、いつの間にか捨て猫だった小次郎に自尊心を芽生えさせていたのだ。それに、猫が酔っぱらったなどと猫仲間に風聞が立てば、人間社会はともかくとして、猫社会では肩身の狭(せま)い思いをせねばならなくなる。そうなることだけは避(さ)けねばならない…と、小次郎は瞬時に思えたそう思えるようになった自分が、少し大人になったような気がした。そう思えるようになった自分が、少し大人になったような気がした。そう思わないでも、小次郎はもう十分、大人だった…いや、成猫だったのだが。
二人の会話を余所(よそ)に、小次郎は診察台の上で爆睡(ばくすい)していた、いや、泥酔(でいすい)していたと言った方がいいのかも知れなかった。人間のように鼾(いびき)こそ掻いていなかったが、口を半開きにし、呼吸で身体をド派手に上下しながら横たわる姿は、酒癖が悪い酔っぱらいと変わらなく見えた。
「あの…連れて帰ってもいいんでしょうか?」
「はあ、それはもう。どこも悪くないんですから…。明日の朝にはケロリとしてると思いますよ。それにしても、残念だなぁ~。小次郎君と話したかったですね」
「そうですか。それは、どうも…。また連れてきますよ。失礼します!」
里山は動物病院を出た。そのとき、里山はキャリーボックスをホテルへ忘れてきたことに気づいた。里山は駐車場に止めた車に乗ると日次郎を助手席へ静かに置いた。そしてすぐ、携帯を握った。発信先はテレ京の駒井だった。
「あの…里山です」
[ああ! 忘れ物でしょ? ホテルの受付に預けてあります。それより、小次郎君は?]
「はあ、有難うございます。ご心配をおかけしました。小次郎は大丈夫です、ただの酔いつぶれですよ、ははは…」
ここは笑って流すしかないか…と里山は考えた。
「そうですか。そりゃ、よかった。うちの番組にも影響しますから…」
なんだ、そっちかい! と里山は少し怒れた。所詮(しょせん)は我が身可愛さから出た憐れみだったか・・と思えたのだ。
「ははは…妙ですね。別にどうってことないんですが…。しかし、口からアルコール臭がします。何か飲まされましたか?」
救急病院ならぬ動物病院の獣医、毛皮(けがわ)は首を捻(ひね)りながら笑顔で里山の様子を窺(うかが)った。
「はあ、まあ…。本人が自主的に」
嘘(うそ)を言っても仕方がない…と里山は直感した。
「えっ? 自主的ってことはないでしょう、まさか…」
「ええ、私が飲まないか? とは勧(すす)めましたが…」
「ははは…、それで飲んだと。急性アルコール中毒ってことはないですが、人間で言いますと泥酔(でいすい)状態ですね」
「そういや、ぺロぺロと舐(な)めたような、そうでもなかったような…」
勧めた当の本人の里山は、方便(ほうべん)を使った。ここは、小次郎が人間語を語るということから生じたコトの顛末(てんまつ)を話さない方がいいだろう…と判断したのだ。当然、それは毛皮が小次郎の一件を知らない・・と考えてのことだった。
「これが有名猫の小次郎君ですか…」
毛皮は里山に訊(たず)ねるでなく一人ごちた。里山はギクリ! とした。
「なんだ先生、知ってらしたんですか」
「そりゃ、知ってますよ。小さい頃から何度かお目にかかってますからね」
毛皮が言うのも一理あった。なんといっても、この動物病院は里山の行きつけだったからだ。過去に何度も小次郎を連れて毛皮の動物病院へ診察に訪れたことがあった。
「皆さん! 本日はどうも有難うございましたっ!」
里山は、ざわめきを掻(か)き消すように声を出して屈(かが)み、小次郎をキャリーボックスへ戻した。
その後、乾杯の音頭があり、来場者全員でグラスを傾け、あとは雑然と飲みながら語らう無礼講となった。
「お前も少しくらいいいだろう? ほれ! 舐(な)めるくらいなら…」
ある程度、場が進んだ後、里山はキャリーボックスから小次郎を出して、グラスを傾けて小次郎の前へ突き出した。
『えっ! 僕もですか? …まあ、もう未成年ってことはないと思うんですが…』
「そうだとも…」
里山は、ほんのり赤くなった顔で勧(すす)めた。小次郎は勧められるまま、ペロペロとやった。
「おう! いける口だな、お前…」
しばらくは、穏やかに推移したが、小次郎に異変が起きたのは、突然だった。小次郎はフラフラ…と右や左へふらつき歩くと、パタンと倒れた。驚いたのは里山ばかりでなく、その場に居合わせた多くの出席者達だった。里山は久しぶりに生きた心地がしない・・ほどの危機感に襲われていた。
「すっ! すぐに、救急車をっ! …違うかっ!」
里山は小次郎を抱きかかえると、ホテルの外へと疾駆(しっく)していた。 傍(そば)にいた駒井が里山の忘れたキャリーボックスを片手に叫んだ。里山が向かったのは・・もちろん、動物病院である。行きつけだったから、この時間帯でも急患動物は診てくれることを里山は知っていた。
俯(うつむ)き加減で時折り腕時計を見ながら里山はパーティが始まるのを待った。そして、ようやく8時を少し回った頃、パーティは始まった。MCを務めたのはテレ京の女性アナウンサーだった。新人アナらしく、少なからず滑舌(かつぜつ)が悪かった。もう少しベテランを出しゃいいのにな…と思えた里山だったが、不満を顔に出さず、絶えず愛想(あいそ)笑いしていた。どうのこうの…と多くのマスコミや招待客を前に不馴(ふな)れな女子アナは里山と小次郎をチヤホヤと、もてはやした。
「では、この辺りで最高視聴率賞の主役、里山さん、小次郎君、ひと言、お願いいたします」
どういう訳か、里山に振った瞬間、女子アナはスラスラと紹介し、噛まなくなった。里山はキャリーボックスを提(さ)げたまま中央前へ進み出た。そして、キャリーボックスをフロアへ置いて開け、小次郎を抱き上げた。小次郎も心得たもので、すでにスタンバイしていた。最近、テレビ出演が増えた関係からか、こうした出番に小次郎は手馴(てな)れていた。
「皆さん、もうご存知かと思いますが、私が話す猫の所有者の里山です。所有者といえば少し違うようにも思います。私は小次郎を我が子と思っております。おい、小次郎…」
里山は小次郎にも話させようと振った。
『はい! 皆さん、小次郎です。僕のような猫は科学的には存在しないのです。でも、僕はこうして皆さんの前で語っております』
小次郎は落ちついた人間語でニャゴった。その声が響いた瞬間、全員から歓声と驚嘆(きょうたん)の声が上がった。