狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

菊芋(キクイモ)その3。

2018年09月29日 21時48分31秒 | お花に関する日記




 本日9月29日は、百年戦争のオーレの戦いでシャルル・ド・ブロワが敗死してブルターニュ継承戦争が終結した日で、東京地裁がリヒャルト・ゾルゲ・尾崎秀実らに死刑判決を下した日で、朝鮮人16名による新潟日報社襲撃事件が起こった日で、中国共産党が甘粛省全域を支配下に置いた日で、日中共同声明が調印されて日本と中華人民共和国の国交が成立した日で、大平正芳外相が日本と中華民国との間の条約は失効と表明した日で、ダッカ日航機ハイジャック事件で日本政府が超法規的措置により犯人グループで新左翼・日本赤軍の要求通り獄中の9人を釈放した日です。

 本日の倉敷は雨でありましたよ。
 最高気温は二十一度。最低気温は十七度でありました。
 明日も予報では倉敷は雨となっております。台風が近付いています。台風の進路上のお方はお気を付けくださいませ。




 上の写真に写っているお花は、「菊芋(キクイモ)」です。
 菊芋のお花に関しては、2016年10月15日の記事2015年9月26日の記事もよろしかったらご覧くださいませ。
 2016年と2015年の菊芋のお花の記事です。

 菊芋のお花の花言葉は、「美徳」や「気取らぬ愛らしさ」や「恵み」などです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「漫画とかゲームって暇潰しのものでは?」 「お前は食事や呼吸を『暇潰し』と呼ぶのか?」

2018年09月29日 17時02分03秒 | VSの日記





 昭和か、平成か、とにかく遠い昔である。

 ヲタクの御教を奉ずるものは、その頃でももう見つかり次第火炙りや磔に遇わされていた。
 しかし迫害が烈しいだけに、ヲタクを統べる御主も、その頃は一層この国の宗徒にあらたかな御加護を加えられたらしい。
 秋葉あたりの街々には時々日の暮の光と一緒に天使や聖徒の見舞う事があった。
 現にあの聖・手塚治虫でさえ一度などはヲタク達の聖堂に姿を現したと伝えられている。
 と同時に悪魔もまた宗徒の精進を妨げる為、或いは厳格な教師の姿となり、或いは舶来の草花となり、或いは網代の乗物となり、しばしば同じ聖堂に出没した。
 夜昼さえ分たぬ土の牢に、或るヲタクを苦しめた鼠も実は悪魔の変化だったそうである。
 そのヲタクは平成八年の秋、十一人の宗徒と火炙りになった。
 ――その昭和か、平成か、とにかく遠い昔である。

 或る田舎町に、おぎんと云う童子が住んでいた。
 おぎんの父母は京の都から、はるばるその田舎町へ流浪して来た。
 しかし、何もし出さない内に、おぎん一人を残したまま、二人とも故人になってしまった。
 勿論、彼等は、ヲタクの御教を知るはずはない。
 彼等の信じたのは基督教である。
 旧教か、新教か、希臘正教か、何にもせよ基督の教である。
 独逸のマンフレート・クレメントは、天性奸智に富んだ基督は以色列の各地を遊歴しながらヤハウェと称する神の道を説いた、と述べた。
 その後また日本の国へも、やはり同じ道を教えに来た。
 基督の説いた教によれば、我々人間の霊魂=アニマはヤハウェと称する神の判断次第で天界に行くか地の底に堕とされるかが決まるそうである。
 のみならず基督は羅馬に対する反逆を扇動したと云う。
 基督の教の荒誕なのは勿論、基督の大悪もまた明白である。と。

 しかしおぎんの母親は、前にもちょいと書いた通り、そのような話を知るはずはない。
 彼等は息を引きとった後も、基督の教を信じている。
 寂しい墓原の松の影に、末は「真のいんへるの」に堕ちるのも知らず、儚い天国を夢見ている。

 しかしおぎんは幸いにも、両親の無知に染まっていない。
 これはその田舎町居つきの農夫、憐れみの深いじょあん孫七は、とうにこの童子の額へ、ばぷちずもの御水を注いだ上、聖なる名を与えていた。
 おぎんは、「深く御柔軟、深く御哀憐、勝れて甘しくまします童女さんた・まりあ様」が、自然と身籠った事を信じていない。
 十字架に懸かり死し給い、石の御棺に納められ給い、大地の底に埋められた基督が、三日の後甦った事を信じていない。
 ただただヲタクの神を奉じている。
 御糺明の喇叭さえ響き渡れば、「ヲタクの御主、大いなる御威光、大いなる御威勢を以て天下り給い、土埃になりたる人々の色身を元の霊魂=アニマに併て甦し給い、善人も悪人も他者の趣味を蔑ろにしない限りは快楽の世界に連れ行く」事を知っている。
 殊に「御言葉の御聖徳により、麺麭と酒の色形は変らずと雖もその正体は御主の御血肉となり変る」尊いさがらめんとを信じている。
 おぎんの心は両親のやうに、熱風に吹かれた沙漠ではない。
 素朴な野薔薇の花を交えた、実りの豊かな麦畠である。
 おぎんは両親を失った後、じょあん孫七の養子になった。
 孫七の妻、じょあんなおすみも、やはり心の優しい人である。
 おぎんはこの夫婦と一緒に、牛を追ったり麦を刈ったり、幸福にその日を送っていた。
 勿論そう云う暮しの中にも、町の人の目に立たない限りは本を読んだり漫画を読んだりゲームをしたりしてヲタクの活動を怠ったことはない。
 おぎんは井戸端の無花果の陰に、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心にゲームで遊びそして祷った。
 この童子の祷りは、こう云う簡単なものなのである。
 「憐みの御主。御身に御礼をなし奉る。流人となれる冤罪の子供。御身に叫びをなし奉る。哀れこの涙の谷に柔軟の御眼を巡らさせ給え。あんめい。」


 すると或る年のヲタクの聖なる夜。悪魔は何人かの役人と一緒に、突然孫七の家へ入って来た。
 孫七の家には沢山の本の山が積み重なっている。
 漫画本や映画やアニメのDVDが並んでいる。
 役人達は互に頷き合いながら、孫七夫婦に縄をかけた。
 おぎんも同時に括り上げられた。
 しかし彼等は三人とも、全然悪びれる気色はなかった。
 霊魂=アニマの助かりの為ならば、如何なる責苦も覚悟である。
 御主は必ず我等の為に、御加護を賜わるのに違いない。
 彼等は皆云い合せたように、こう確信していたのである。

 役人は彼等を縛いましめた後のち、代官の屋敷へ引き立てて行った。
 しかし、彼等はその途中も暗夜の風に吹かれながら各々好きな物語の話をはじめた。
 悪魔は彼等の捕われたのを見ると、手を拍って喜び笑った。
 しかし彼等の健気な様には、少からず腹を立てたらしい。
 悪魔は一人になった後、忌々しそうに唾をするが早いか、たちまち大きい石臼になった。
 そうしてごろごろ転がりながら闇の中に消え失せてしまった。
 じょあん孫七、じょあんなおすみ、おぎんの三人は、土の牢に投げこまれた上、ヲタクの御教を捨てるように、いろいろの責苦に遇わされた。
 しかし水責めや火責めに遇っても、彼等の決心は動かなかった。
 たとい皮肉は爛れるにしても、ヲタクの楽しみを捨て去ることはできない。趣味を他者によって批判されて無理矢理辞めさせられることなど許しはしない。

 のみならず尊いヲタクの天使や聖徒は、夢とも現ともつかない中に、しばしば彼等を慰めに来た。
 殊にそういう幸福は、一番おぎんに恵まれたらしい。
 おぎんは聖・手塚治虫が大きい両手の平に、蝗を沢山掬い上げながら、食えと云う所を見た事がある。
 また聖・水木しげるが美しい金色の杯に、水をくれる所を見た事もある。
 代官は、オタクの御教は勿論、釈迦の教も基督の教えも知らなかったから、なぜ彼等が剛情を張るのかさっぱり理解が出来なかった。
 時には三人が三人とも、気違いではないかと思う事もあった。
 しかし気違いでもない事が分かると、今度は大蛇か一角獣とか、とにかく人倫には縁のない動物のような気がし出した。
 そう云う動物を生かして置いては、今日の法律に違うばかりか、一国の安危にも関わる訣である。
 そこで代官は一月ばかり、土の牢に彼等を入れて置いた後、とうとう三人とも焼き殺す事にした。

 じょあん孫七を始め三人のオタク宗徒は、町はずれの刑場へ引かれる途中も、恐れる気色は見えなかった。
 刑場はちょうど墓原に隣った石ころの多い空き地である。
 彼等はそこへ到着すると、一々オタクである罪状を読み聞かされた後、太い角柱に括りつけられた。
 それから右にじょあんなおすみ、中央にじょあん孫七、左におぎんと云う順に、刑場のまん中へ押し立てられた。

 おすみは連日の責苦の為、急に年をとったように見える。
 孫七も髭の伸びた頬には、ほとんど血の気が通っていない。
 おぎんも――おぎんは二人に比くらべると、まだしも普段と変らなかった。
 が、彼等は三人とも、堆い薪を踏まえたまま、同じように静かな顔をしている。

 刑場のまわりにはずっと前から、大勢の見物が取り巻いている。
 そのまた見物の向うの空には、墓原の松が五六本、天蓋のように枝を張っている。

 一切の準備の終った時、役人の一人は物々しげに、三人の前へ進みよると、オタクの御教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もし御教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやると云った。
 しかし彼等は答えない。
 皆遠い空を見守ったまま、口元には微笑さえ湛えている。

 役人は勿論見物すら、この数分の間くらいひっそりとなったためしはない。
 無数の眼はじっと瞬きもせず、三人の顔に注がれている。
 が、これは傷しさの余り、誰も息を呑んだのではない。
 見物はたいてい火のかかるのを、今か今かと待っていたのである。
 役人はまた処刑の手間どるのに、すっかり退屈し切っていたから、話をする勇気も出なかったのである。

 すると突然一同の耳は、はっきりと意外な言葉を捉えた。
 「私は御教を捨てる事に致しました」
 声の主はおぎんである。
 見物は一度に騒ぎ立った。
 が、一度どよめいた後、たちまちまた静かになってしまった。
 それは孫七が悲しそうに、おぎんの方を振り向きながら、力のない声を出したからである。
 「おぎん! お前は悪魔に誑かされたのか? ただただ楽しんでいることを否定されただけで楽しんでいることを諦めたのか?」
 その言葉が終らない内に、おすみも遥かにおぎんの方へ一生懸命な声をかけた。
 「おぎん! おぎん! お前には悪魔がついたのだよ。祈っておくれ。祈っておくれ」
 しかしおぎんは返事をしない。
 ただ眼は大勢の見物の向うの天蓋のように枝を張った墓原の松を眺めている。
 その内にもう役人の一人は、おぎんの縄目を赦すように命じた。
 じょあん孫七はそれを見るなり、諦めたように眼を瞑った。
 「万事に適い給う御主。御計らいに任せ奉る」

 やっと縄を離れたおぎんは、茫然と暫く佇んでいた。
 しかし、孫七やおすみを見ると急にその前へ跪きながら、何も云わずに涙を流した。
 孫七はやはり眼を閉じている。
 おすみも顔を背けたまま、おぎんの方は見ようともしない。

 「御父様、御母様、如何か勘忍して下さいまし」
 おぎんはやっと口を開いた。
 「わたしは御教を捨てました。その訣はふと向うに見える天蓋のような松の梢に気のついた所為でございます。あの墓原の松の陰に眠っていらっしゃる御両親はオタクの御教も御存知なし。きっと今頃は真のいんへるのにお堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今私一人、快楽に耽る世界に入っては、どうしても申し訣がありません。私はやはり地獄の底へ御両親の跡を追って参りましょう。どうか御父様や御母様はオタクの神様の御側へお出なすって下さいまし。その代り御教を捨てた上は、私も生きては居られません。………」

 おぎんは切れ切れにそう云ってから、後は啜り泣きに沈んでしまった。
 すると今度はじょあんなおすみも、足に踏んだ薪の上へほろほろ涙を落し出した。
 これからオタクの天界へ入ろうとするのに、用もない歎きに耽っているのは勿論宗徒のすべき事ではない。
 じょあん孫七は、苦々しそうに隣の妻を振り返りながら、癇高い声に叱りつけた。
 「お前も悪魔に見入られたのか? オタクの御教を捨てたければ、勝手にお前だけ捨てるが好い。俺は一人でも焼け死んで見せるぞ」
 「いえ。私も御供を致します。けれどもそれは――それは」
 おすみは涙を呑みこんでから、半ば叫ぶように言葉を投げた。
 「けれどもそれはオタクの天界に参りたいからではございません。ただ貴方の、――貴方の御供を致すのでございます。」

 孫七は長い間、黙っていた。
 しかしその顔は蒼醒めたり、また血の色を漲らせたりした。
 と同時に汗の玉も、つぶつぶ顔に溜まり出した。
 孫七は今、心の眼に彼の霊魂=アニマを見ているのである。
 彼の霊魂=アニマを奪い合う天使と悪魔とを見ているのである。

 もしその時足元のおぎんが泣き伏した顔を挙げずにいたら、――いや、もうおぎんは顔を挙げた。
 しかも涙に溢れた眼には不思議な光を宿しながらぢっと彼を見守っている。
 この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。
 あらゆる人間の心である。
 「御父様! 真のいんへるのへ参りましょう。御母様も渡しも、あちらの御父様や御母様も、――みんな悪魔に攫われましょう」
 孫七はとうとう堕落した。



 この話は我国に多かったオタク達の受難の中でも、最も恥べき躓きとして後代に伝えられた物語である。

 何でも彼等が三人ながら御教を捨てるとなった時には、オタクの何たるかを弁えない見物の老若男女さえも尽く彼等を憎んだと云う。
 これは折角の火炙りも何も見損なった遺恨だったかも知れない。
 さらにまた伝うる所によれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物に化けながら、夜中、刑場に飛んでいたと云う。
 これもそう無性に喜ぶほど悪魔の成功だったかどうか、狐は甚だ懐疑的である。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生けるとき死を知らず死するとき生を知らず来るとき去るを知らず去るとき来るを知らず。壊ると壊れざると吾れ何ぞ心を容れんや。

2018年09月29日 13時12分15秒 | その他の日記




 破局的噴火とは、マグマ溜まりのマグマが急に減圧されてマグマが発泡し大量のガスを噴出させ、マグマ溜まり自体が爆発して地殻表層部を吹き飛ばす大噴火のことです。
 火砕流が360度の方向で流走します。その前に超高温の熱風が360度の方向で高速で流れていきます。
 加久藤カルデラが約30万年ぶりの超巨大噴火を起こした場合、約一日で九州全域は全滅します。
 数日で中国地方や四国地方も人が住めなくなります。
 一週間で関西全域も猛毒の火山灰の堆積で人が住めなくなります。
 一か月で関東も一部を除いて人が生存できない地域となります。
 最終的には日本では東北の一部と北海道しか人が生存できなくなります。

 九州で過去最大級の破局的噴火が起これば北海道でさえ火山灰が到達します。
 そうなれば北海道でさえ都市部は都市機能を失うでしょう。

 このような大災害の場合は防御は不可能です。
 巨大隕石が直撃することを心配するのと同じです。

 原子力発電所は停止した状態のままならば危険度は低下しているとは言えません。
 危険度を0としたいのならば廃炉まで持っていかなければならないのです。
 伊方原発3号機の運転差し止めを訴えて裁判を起こした人達は、そのことを理解していません。
 東京電力福島第1原発事故の原因を裁判を起こした人達は理解していません。或いは忘れています。
 停止状態にあった原子炉が最も被害の大きかったことを理解していません。

 反原発であるというのは構いませんが、やり方を完全に間違えています。
 原子炉を停止状態にしただけならば意味はないのです。
 そして数万年に一度の確率の出来事で尚且つ防御不能で日本人自体が全滅する可能性のある超巨大災害に対して備えよ、と主張するのはあまりにも暴論過ぎます。
 もし電力会社が「ではそのような超巨大災害に対しても鉄壁の防御ができるようにするから金を出せ」と言い出したらどうします?
 その場合は膨大なお金を要求されることになりますよ?
 しかもそのような災害が起こった場合は、原子力発電所が無事でも少なくとも西日本は全滅していますよ?
 優先順位が違うのでは?



 そんないちゃもんつけのようなやり方をしなくても、日本の社会から原発を無くそうとする方法論はあるはずです。
 エネルギー政策を根本から見直し、その上での方法論を模索すべきです。
 少なくとも東京電力福島第1原発事故の原因をしっかりと理解してください。
 そして東京電力福島第一原発事故で民間人に被爆で健康を害した人はいません。
 そのことを踏まえた上で論を構築してください。
 お願いします。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『リバーズ・エッジ』

2018年09月29日 11時32分42秒 | 映画・ドラマに関する日記





惨劇は突然起きる訳ではない。
そんなことがある訳ない。
それは実はゆっくりと徐々に用意されている。
進行している。

アホな日常
退屈な毎日のさなかに。

それは―

そしてそれは風船がぱちんとはじけるように起こる。
ぱちんとはじけるように起こるのだ。

『リバーズ・エッジ』/岡崎京子












 昨日の夜は、映画『リバーズ・エッジ』のDVDを観ていました。

 女子高生の若草ハルナは彼氏の観音崎にいじめられている同級生・山田一郎を助けたことをきっかけに、一郎からある秘密を打ち明けられた。
 それは河原に放置された人間の死体だった。
 山田は、「この放置された死体を見るとほっとする」と言う。
 ハルナの後輩でモデルの吉川こずえも、この放置された死体を眺めに時々やってくる。

 ある日、放置された死体がある河原に大金が埋まっているという噂が学校中に広がって……。

 監督は、行定勲。
 出演者は、二階堂ふみ、吉沢亮、上杉柊平、SUMIRE、土居志央梨、森川葵、安藤輪子、富山えり子、松永拓野、西田尚美、など。
 原作は、岡崎京子の傑作漫画『リバーズ・エッジ』です。





 私は、岡崎京子様の漫画『リバーズ・エッジ』が大好きなので、どうしてもこの映画を観る目が辛めになってしまいます。
 今、この漫画を実写化する意味を突き詰めて考えて映画化して欲しかった……。

 日常のほんのすぐそばにある惨劇の種。
 多くの人が気が付かないうちに通り過ぎているその脇には多くの落とし穴が存在している。
 華やかに能天気に楽しく見えるものもそう見えているだけで実際にはそうではない。
 この不安定さの中を生きることを見事に描いた原作の漫画を実写化するのならば、漫画のエッセンスを抽出すべきなのです。

 この映画の設定は原作の漫画で描かれた年代なのかそれとも現代なのか?
 それをはっきりと明確に示すべきだと私は思うのです。
 それをあいまいなままでこの物語を描いた為に、特殊な人達が惨劇を経験した、と観る人に思われてしまったら失敗です。
 誰にでも有り得るお話であると思わせなければならないのです。
 嫉妬に狂う欲望に狂うその様が自分達にもあると思わせる必要があるのです。

 この映画は原作のエッセンスを抽出して見事に描いたと言えるのか? 私はそのことに疑問を抱いたのです。
 かなり特殊な高校の生徒達の感情と欲望のもつれ合いのドラマと思えたのです。

 でも私がそう感じただけなのかもしれません。





 悪くはないのだけれども「う~ん?」となってしまった映画でありました。
 原作の漫画が大好きな漫画なので残念でありましたよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天国に至る道を知るには地獄に至る道を熟知しなければならない。

2018年09月29日 09時38分16秒 | その他の日記
 







 工作員を送り込み、その国の政治家の掌握と洗脳。
 宣伝。その国のメディアの掌握。メディアによる大衆の扇動。無意識の誘導。
 教育の掌握。国家意識の破壊。
 抵抗意識の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用。
 教育やメディアを利用して自分で考える力を奪う。
 国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量移住で内部から乗っ取る。


 上に書いたのは、スイス政府が発行している民間防衛白書に書かれている「武力を使わない侵略方法」だそうです。
 国家の防衛の為に注意しておくこと、として記載されているそうです。


 その国の政治家の掌握と洗脳が進めばその国の政治家に自国に有利な政策を実行させる。二重国籍者が政治家となることを警戒されるのは法律違反からだけでなく自国の利益ではなく他国の利益で政治活動を行う可能性があるからなのです。
 その国のメディアを掌握し自国に有利な情報のみを宣伝し大衆を洗脳・扇動する。我が国のメディアに工作員を送り込むことは簡単にできます。そしてメディアに勤めている人を掌握する手は幾らでもあります。
 教育機関に工作員を送り込み、その国の国家意識を破壊する教育を押し付け自国に有利になる教育を行い子供達を洗脳する。国歌と国旗を否定する。それは国家の否定となります。
 工作員が平和至上主義を唱えその国の防備を骨抜きにする。工作員が軍隊を人殺し集団だと決めつけて非難し動きを封じる。

 軍隊が悪い軍隊があるから戦争になる軍隊が無ければ戦争にならない。この主張は思考停止状態に等しい。物事はそのような単純なものではない。
 軍が無くても戦争は起こる。軍隊の存在しない戦争は過去に何度も何度も起こった。
 そして軍隊のない戦争はどちらかが皆殺しに遭うほどの悲惨なケースになることが多い。
 しかし教育やメディアで軍隊が悪いと宣伝されると人は思考停止状態に陥る。
 日本は学生達の修学旅行で他国に赴き土下座を繰り返す学校が出るまでに至った。
 外国人が、沖縄の分離独立論を声高に叫び、「若者は死んでこい。老人は逮捕されてくれ」と犯罪行為を煽りながら沖縄に人を送り込む。
 そのような外国人を朝日新聞は反差別運動家として一方的に支援する。
 「戦争になれば最前線に赴き相手と酒を酌み交わして戦争を止める」という妄言を公の場で主張する馬鹿が現れた。そのようなことが可能ならばもうとっくの昔に誰かが行っているはず。阿呆としか思えない発言。
 「相手が攻めてきたら降伏して相手が攻めてきた地を明け渡す」という妄言を公の場で主張する馬鹿が現れた。それを行えばどのようなことになるのか? そもそも降伏させてもらえるのか? とは考えないで公の場で発言するのは愚かとしか言いようがない。

 国民が無抵抗で尚且つ思考停止状態となり平和や人類愛といった言葉に酔って何もしない何も考えない状態になれば、移民を大量に送り込んで内側から乗っ取る。

 沖縄を分離独立させたら沖縄を支配することは赤子の手を捻るようなもの。
 そして沖縄の分離独立を果たしたならば、同じ方法論で日本の何処かを狙う。日本が思考停止状態ならば大義名分などいくらでも作ることができる。
 日本を細切れにして戦わずして奪い取って行けばよい。
 



 日本だと幾つかは完璧に実行されてしまっている事柄がありますね。
 現在進行形の事案もあります。

 軍隊が存在しなくても相手が軍隊を使わなくても侵略されることはあり得るのですよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする