悠翠徒然

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関羽58歳で戦死

2017-01-14 11:07:03 | Weblog
曹操66歳で病死してしまった、、、

これから本当の『魏呉蜀』三国時代が到来するらしいです。

人の業とは、どこまでも続くのでしょうか。

それとも、それが人間の定めならば、嫌でも受け止めなければならないのでしょうか。

せめて流されず、抗いたい気持ちを忘れずにいたいです。












今朝はとても寒かったですね

2017-01-14 09:05:37 | Weblog
寒波がきているせいでしょう。

関東はこの冬一番の冷え込みになったようです。

肩が冷えて起きてしまいました。

探せばあるのでしょうが、すべての冬用のパジャマは、肩の部分を分厚くしてほしいです。

わがままか(笑)

毎朝お風呂に入って身体を温めてからストレッチしないと、冬の寒さは乗り切れません。

春が来るまで出かける前の準備時間が長くなりそうです(笑)








文字の力

2017-01-14 08:19:38 | Weblog
文字には数多くのフォントがあるように、書き手が変わればその数だけ乗って形があります。

フライヤーやポスターなどを作るとき、フォントにこだわるのは、そのフォントで人の目を集めさせ関心を持ってもらえるかどうか、それが内容にふさわしいかどうか。

こんな理由でフォントを選ぶと思います。

我々が文字を書くときも同様です。

書道乗って作品として『椅子』と書くとき、イメージする椅子は人それぞれですが、作者が伝えたい椅子は明確でなければなりません。

形や色を伝えようとすると、書道作品ではなくポップアートのジャンルに入ってしまうかもしれません。

ポップアートを否定するつもりは全くありませんが、書道作品にこだわった場合、形や色を伝えることより優先されるべき事があります。

その『椅子』にどのような思いがあるのか、です。

座りやすい、とか、小ぶりな、とか、そんなことではありません。

その椅子と書き手の物語がそこには必要だと思うのです。

漢詩や諺、俳句や短歌を書く場合、内容の理解はもちろんですが、対象と書き手との関わり合いをしっかり持たねばいけないでしょう。

しかし、それを喜怒哀楽を前面に出した表現方法だけで書いてしまうのは、甚だ単純だと思うのです。

厚ぼったいエネルギーを自慢されても困ります(笑)

美術館に行き作品をみて、ため息まじりに『美しい』と言っていたのでは、リポーターはつとまりません(笑)

ま、食レポも同じです。

書き手はレポーターではありませんが(笑)、それゆえレポーターレベルの、美しいと感じた理由や美味しいと感じた理由を述べる必要は全くないのです。

では何を作品に込めればよいかといえば、『美』『味』を感じたカオスの中にいる自分そのものです。

つまり自分をさらけ出す作業が創作であるのですが、本当の自分を書によって曝け出そうとすれば、それは前衛的になるばかりです。

発表しない私小説であればそれは日記です。

発表しない書作品なら落書き同然です。

作品は第三者に鑑賞されてこそ、芸術性が磨かれていくのです。

そこに創作者の意図は必要ありません。

時代時代の受け手側によって変化するからです。


『書の作品』と『書道作品』は明らかに一線を画すると私は考えています。

そこに、道を学ぶものの品格があるかどうか、です。

書の作品に品格は要りませんが、書道作品には品格が必要なのです。

そこに日本人としてのアイデンティティが必要なのです。

礼節を重んぜず、他者への思いやりがない者が、少しばかり高い書技をひけらかすように書いたものは、中国の露天で売っているお土産物と変わりないのです。

そんな下劣な作品をうやうやしく飾った展覧会など、身内の道楽以外の何物でもありません。

ま、産業展なら問題ないでしょう。

師の作品を真似て書いた物を、『素晴らしい!そっくりだ!』と言われた事で満足している輩の幼稚な精神は、そばにいるだけで嫌な気持ちにさせられます。


過去の記憶を思い出して、ついついblogってしまいました(笑)

反省!

でも、お心当たりのある自称芸術家や書家の方々は、ご注意ください。

そのように怒っている人もいるのですから(笑)