■平城京跡から出土した一枚の木簡
裏には「天平宝字三年、、」
と記されある
この木簡は
鹿島郷の戸主・若倭部・息嶋という者の家族である小嶋という者が、759年に貢納した調(ナマコの腸をゆで干ししたもの六斤)の荷につけられていた荷札である
■能登の部民支配
息嶋・小嶋は、【若倭部】という部民に指定された地域の子孫であるので、木簡に記された天平宝字三年という律令体制支配を受けた時代よりかなり古くから、部民支配は及んでいた
若倭部として負担を強いられていたのは珠洲郡の若山川下流の人々もだ。古代珠洲郡には【若倭郷】が置かれていて、現地の横穴には「若倭」と刻まれたものもある
若倭部に指定されたのは他、
出雲国神門郡
出雲国出雲郡
遠江国鹿玉郡
美濃国
これらの地に共通する条件は明らかではない
■若倭郷を指定したのは、能登の豪族が【国造】という役職に任命されたのち、その国造が大和朝廷の命令をうけて、これまで支配していた領地に若倭部を指定した
■国造の象徴・院内勅使塚古墳
能登の豪族が国造になったのを象徴するのは、院内勅使塚の築造を許可されたことによる
二宮川流域の古墳群の築造
その立地点と交通路など
大和朝廷の北陸への進出の動向で勘案できる