るるの日記

なんでも書きます

須須神社【金分宮】は修験道の社・金分宮祭神の本地は不動明王

2021-09-18 17:07:59 | 日記
1660年高勝寺増長坊良恵
の記名のある社伝には、金分宮の本地仏は、修験道の本尊とめいうべき
【不動明王】であると述べている
中世初頭から不動明王は、強い力で災いをなす魔神、諸霊を調伏するものとして信仰され、修験者たちも、この不動明王を念じて災危除けの修法を行った

室町期の能登へは
白山系
石動山系
熊野・金峰系
と、多様な流派の修験者が入り
峰から峰を伝い、村々を行き来し
修行をなし、祈祷を行い奇験をあらわした時代であって、その痕跡は各地に残っている

須須神社とその宮寺高勝寺は
加賀白山宮の末寺・末社であった
白山系の主な社は不動明王を本地として祀り、大和の金峰山系の修験道をも吸収していた

■大和の金峰山系
奈良の吉野山から大峰山にかけての山々を修行の場とし、吉野の金峰山寺を拠点とした修験者の系統である
金峰山の名にゆかりのある社寺が全国各地に残るが、須須神社に鎮座する金分宮も、社号から考えてこの
金峰山の信仰が、白山系の修験を媒介として、能登に入った結果として成立したものと推定できる

須須神社【金分宮】を考察する・近世の社伝は史実を離れた創作が多い

2021-09-18 16:15:51 | 日記
高座宮と金分宮を併せて
須須神社といいます

金分宮について考察します
金分宮が文献に登場するのは、室町中期の1478年で、高座宮よりかなり遅れて成立したことがわかります

留意したいのは、1586年の前田利家の寄進状を始めとして、近世前半の文書は両社の記載の順序が
「金分・高倉」として
それ以前の
「高倉・金分」と記載しないこと

これは須須神社の地位の逆転を示すもので、金分宮が高座宮よりも重く見られた時期があったからでしょう
1685年の由来書によると、社殿は荒廃していて、金分宮のみが中世の須須神社の面影をとどめていたといいます

金分宮は、最初現在の鎮座地より三十余町奥まった「きんぷ」という所にあり、後に「宮野」に移り、その後現在地に移りました
現在はその地名は残っていません

社伝では、高座宮、金分宮は、山伏山(須須ヶ嶽)の頂上の社に同殿であったが、後に現在地に移って二社に分かれたというが、このような近世の社伝や縁起類は史実を離れた創作が多いようです

帰化人系神社成立は高句麗滅亡後7~8世紀頃

2021-09-18 15:47:10 | 日記
760年
帰化人系の氏族
高元度が能登国司に任命され
翌年は高倉氏一族の高麗朝臣・大山が高麗使に任命され両者はあいついで、対岸諸国へ渡航している

その頃能登は、対大陸交渉の要地であって、大陸への使者の送迎の拠点であった

高元度、大山が外交の要職に任命されたのは、このような位置にある能登に縁があった故で、能登に住む一族の支援を期待したからだ

珠洲の高倉彦ノ神は
珠洲の古麻志比古の神とともに
高倉一族など帰化人系の氏神であった
その成立は高句麗滅亡後の7世紀末から8世紀初頭にかけてと推測する



能登半島は高句麗からの漂着の終点

2021-09-18 15:24:39 | 日記
能登半島と渡来民の関係は深い
特に対岸の高句麗や渤海から
対馬海流と季節風を利用した渡来者にとって、能登半島は航路の目標であり、漂着の終点であった
このようにして、能登に来着して定住するようになった渡来人の数は少なくなかったにちがいない

■能登の渡来者にゆかりのある
高句麗の墓に似た、能登島須曽古墳
能登各地に発見される須恵器窯跡
穴水の美麻奈比古神社、美麻奈比咩神社
田鶴浜の白比古神社
中島の阿良加志比古神社(渡来人の服装をした祭神)

■珠洲内の渡来者にゆかりのある
古麻志比古神社
渡来系の服装の神像が祀られる白山神社
大陸系の土器の技法を継ぐ珠洲焼



渡来人の神・高倉彦ノ神

2021-09-18 15:02:01 | 日記
現在の須須神社は、延喜式に記載される須須神社とは別社であり
貞観14年に神階を昇叙を受けた
高倉彦ノ神】を祀る
【高座(倉)宮】であった


現在は、高座宮の祭神を高倉彦ノ神としないで、ニニギノミコトとするのが一般的である
これは、江戸時代になって多くの神社の神官などが、古事記や日本書紀に見える中央の神々の名を、神社の祭神につけるという流行によるものである

須須神社の主神・高倉彦ノ神

古代、大陸から多数の渡来民が日本に帰化した。これらの渡来者のうち、上層の者は貴族・官人となり
技術を持つ者は部に編入され
多くの一般人は各地に入植させられて、開発にあたった
これら帰化人の痕跡は全国各地に、地名・神社名・姓氏名として多く残る

高麗氏を称する帰化人氏族
福信一族は、願い出て高倉朝臣と改姓し、その一族は高倉氏を名乗るようになった
高句麗(コウクリ)のクリがクラと転訛して高倉(タカクラ)となったもので、高座ともあてられる

よって
珠洲郡高座宮も
高句麗民と関係が深い神社とすることに無理がないと考えるのである