■1983年
昨年の暮れから、毎晩のように飲みに来る野上は、「何でも飲みなさい、食べなさい」と優しい。店が終わると野上の母親が私を喫茶店に呼び出し、
「忍ちゃん、あの子は本当は真面目で優しい子なんやけどね、嫁が気が強て、あの子を駄目にしたんよ。忍ちゃん、あの子はきちんと離婚もしとるし、ちゃんとした会社にも勤め、持ち家もあるんよ。忍ちゃんのことは好きやゆうとる。どうか一緒になってやってくれまいか。あの子のこと考えると心配で、心配で、死んでも死にきれんわいね」
と、涙声で頭を下げた
私は一人が耐えきれず、母子家庭育ちで離婚もしたという、野上の背に、似たような匂いを感じて同棲した
野上の会社は、従業員は所長と女事務員、野上の3人だけ。野上はこの会社に勤め、わずか半年
離婚の原因は野上がサラ金で借金しまくり、若い女と関西に駆け落ちをしたせいだと、あんたはそんなことも知らんかったん?と事務員の女は言う。女事務員の言うとおり、同棲して5日目にサラ金会社から請求書がきた
会社では女事務員が「 あんたみたいな男、見たことないわ」と野上の集金の使い込みを激怒している。しかし30分もしないうちに、野上の駄洒落に腹を揺すって笑う。どんなマジックをつかっているのか、、
一緒にいると楽しい男ではあった
あらっ?この男は
私の合わせ鏡??
あ~いやだ
「わしはヒモになるんや」と一回り年上で、人妻のスナックのママとちゃっかり同棲をし始めたので、それを機に別れた。こんなに男と別れて清々するのは初めてだった
■1984年9月
野上と別れると、裸いっかんの私は、風間にマンションを借りてもらった。風間と初めて会ったのは 1983年10月。スナック能登であった。私は赤い糸がはっきり見えた
「幸せにしてくれる?」
「約束はできんが、そのように努力する」
1985年春
風間の家に同居し、菓子店を手伝うことになった。私はもうブレーキは利かなかった。理屈も筋道も通らない、ただの情念の女
私は彼に出会うために汽車を間違えたのだろうか?
風間の父親は仕事一筋の寡黙な人
母親は明るく、何か珍しいものがあれば、「ねえさんに」と、こんなに優しくしてもらったのは初めてであった
所帯が別なので、おかずを持っていくと、「いつもかんも、気の毒なぁ(ありがとう)」と童女のような笑顔を見せて私の心を癒してくれる
この家は
私の知らない愛と絆があった
虚飾を身にまとい、上っ面だけの笑顔で軽業師のように生きてかなた私には、驚きの連続であった