るるの日記

なんでも書きます

福田和子・逃亡、野上と同棲→別れて、風間の菓子店へ

2021-09-10 17:28:26 | 日記
■1983年
昨年の暮れから、毎晩のように飲みに来る野上は、「何でも飲みなさい、食べなさい」と優しい。店が終わると野上の母親が私を喫茶店に呼び出し、
「忍ちゃん、あの子は本当は真面目で優しい子なんやけどね、嫁が気が強て、あの子を駄目にしたんよ。忍ちゃん、あの子はきちんと離婚もしとるし、ちゃんとした会社にも勤め、持ち家もあるんよ。忍ちゃんのことは好きやゆうとる。どうか一緒になってやってくれまいか。あの子のこと考えると心配で、心配で、死んでも死にきれんわいね」
と、涙声で頭を下げた
私は一人が耐えきれず、母子家庭育ちで離婚もしたという、野上の背に、似たような匂いを感じて同棲した

野上の会社は、従業員は所長と女事務員、野上の3人だけ。野上はこの会社に勤め、わずか半年

離婚の原因は野上がサラ金で借金しまくり、若い女と関西に駆け落ちをしたせいだと、あんたはそんなことも知らんかったん?と事務員の女は言う。女事務員の言うとおり、同棲して5日目にサラ金会社から請求書がきた

会社では女事務員が「 あんたみたいな男、見たことないわ」と野上の集金の使い込みを激怒している。しかし30分もしないうちに、野上の駄洒落に腹を揺すって笑う。どんなマジックをつかっているのか、、
一緒にいると楽しい男ではあった

あらっ?この男は
私の合わせ鏡??
あ~いやだ

「わしはヒモになるんや」と一回り年上で、人妻のスナックのママとちゃっかり同棲をし始めたので、それを機に別れた。こんなに男と別れて清々するのは初めてだった

■1984年9月
野上と別れると、裸いっかんの私は、風間にマンションを借りてもらった。風間と初めて会ったのは 1983年10月。スナック能登であった。私は赤い糸がはっきり見えた
「幸せにしてくれる?」
「約束はできんが、そのように努力する」

1985年春
風間の家に同居し、菓子店を手伝うことになった。私はもうブレーキは利かなかった。理屈も筋道も通らない、ただの情念の女
私は彼に出会うために汽車を間違えたのだろうか?

風間の父親は仕事一筋の寡黙な人
母親は明るく、何か珍しいものがあれば、「ねえさんに」と、こんなに優しくしてもらったのは初めてであった
所帯が別なので、おかずを持っていくと、「いつもかんも、気の毒なぁ(ありがとう)」と童女のような笑顔を見せて私の心を癒してくれる

この家は
私の知らない愛と絆があった
虚飾を身にまとい、上っ面だけの笑顔で軽業師のように生きてかなた私には、驚きの連続であった


福田和子・石川弁にも慣れた「ほんなダラな」「がんこな」「娑婆」

2021-09-10 16:08:40 | 日記
12月
日給は9千円に
石川弁にも慣れた

「ほんな、ダラ(バカ)な」
「がんこな(恐い)顔やあ」
「娑婆(世間)」

石川県では世間のことを、平素から「娑婆では」「娑婆は広い」などと使い、私は初めて聞いた時に、カウンターの客は刑務所帰りが多いと思い、ギクリとしたもんだ

夫に電話を入れると、姑が出て
「まだ生きとるんかぁ!皆に迷惑かけてぇ死ね!はよ死んでしまわんかあ!」と絶叫され

実母に電話を入れると
「もう、出てくるな。これ以上騒がれると、子供がかわいそうじゃけん」
私にはもう、帰るところがないんだ。自己嫌悪、自己否定、自己呪詛
こんな思いをするくらいなら、死んだ方がまし!と私は断崖に立ち、ヤセの断崖(石川県の自殺の名所)で飛び降りようとした時は、「お客さ~ん、落ちるよ~」と、私は死神にも見離された

福田和子・逃亡・金沢から丹波へ行き電話「危ない、危ない」「悪知恵は働くんでねぇ」

2021-09-10 15:52:44 | 日記
1982年8月27日
店は暇で雑誌を見ていると
美容整形の前後の写真に目を奪われた

28日
午後1時過ぎ
武蔵(金沢市に武蔵町があるが、ネットでは東京で整形手術したともあり)の美容整形外科へ

9月6日
退院し、夫の実家に電話
夫が逮捕されたと、、途方にくれた

7日
恋人の荻原に電話
「あんた、15年も逃げる気いか」
この日初めて自分の指名手配の写真を見た。着物姿の私

16日
夫の実家に電話
義妹「義兄さんとおうたら自首する?」
私は夫が出所したら、入れ替わりに自首しようと考えていた。夫の裁判が長引けばお金も送るつもりだった

9月末
整形の腫れがひいた。ママがニューフェイスが入ったと顧客に電話を入れ、店に活気が出てきた。日給は8千円になった

10月2日
荻原に電話
「もう切るよ、危ない危ない」
「捕まるのは3月まで待ってぇ、」
夫の出所、次男の入学をみとどけさせてほしい

11月10日
金沢から丹波へ行き
夫の実家に電話
義妹に「この手紙は警察に渡してかまわんけんね。安全なところから出しとるけん。私も悪知恵は働くんでねぇ、少しずつでもお金を送るけん。お義母さんに子供のこと頼んどってぇ」と離婚届けと、若干のお金を送った

11月17日
夫が懲役1年6ヶ月
執行猶予3年で出所したことを
全国紙で知る


福田和子の逃亡・金沢片町勤務

2021-09-10 15:27:22 | 日記
1982年8月19日犯行
20日従姉妹に頼んで被害者の通帳から現金を引きだし、夫の口座へ

24日
夫に子供達の行く末を頼み
子供達にも言い聞かせ

伊予自宅から
午後8時タクシー
知人の車
汽車
連絡船
25日早朝
河内
午前10時過ぎ
陸奥行きの切符を買い汽車に乗るが
だが「加賀温泉駅」が終点の
雷鳥に乗ってしまっていた

終点、加賀温泉

タクシーに乗り
ホテルへ
(加賀温泉駅から金沢へタクシーで行ったのかな)

ビルの張り紙に
「ホステス募集・和風スナック能登」、、電話をすると
住込みはしていないと、断られた
繁華街にネオンが点りはじめ、酒の力を借りて眠ろうと思い、先ほど電話を入れた店に向かった

店に入ると40代半ばの女がいた。「ビールを飲ませて」とカウンターに座ると、「誰かと待ち合わせ?」と女は怪訝そうな顔で聞いた
「夕方に電話したものよ」と答えると、女はなぁんだという顔をし
「私がママやけど、住込みはしてにいのよねぇ」と値踏みをする目をした

ママが私の隣に座り、身上を聞く
「丹波から夫とうまくいかなくて、出てきたの。子供は母が見ているのよ」と作り話をスラスラと話す

「あんたアパート借りるお金は持っとるん?ほなら、明日探してあげるからうちふおいで」と採用された。翌日六畳一間のアパートを借り、兼六園ちかくにある繁華街(片町)で働き始めた

偽名【小野寺忍】
源氏名【忍】
日給7千円



福田和子・第十六回公判【最終弁論・警察が初動捜査の機能を発揮できていたなら、、】

2021-09-10 14:56:46 | 日記
1983年12月3日

■最終弁論

、、、公訴時効が完成する前に逮捕、起訴された場合に、通説(時間の経過による過罰性の消滅を理由に)に従えば、本件の場合15年で過罰性は0になるものであるから、その寸前まで100であろう筈がなく、最終的に0になると理解するのが正当である

「それでは逃げ得になってしまう」といった意見が出されるかもしれないので、念のために付言しておく

警察の初動捜査が本来の機能を発揮し、早期に被告人が逮捕されていた場合、恐らく、被告人は既に刑期を終えて出所し、新しい人生のスタートを切っていたのではないだろうか

この不利益な結果はまさに被告人の身から出た錆でもある訳で、自ら不利益を感受しなければならない。また被告人の改悛の情(非を悔い改めて心を入れ換えること)が顕著であることは疑いのない事実である

被害者の無念と、遺族の悲しみは察するに余りあり、被告人の責任は極めて重大であるが、帰りを待ちわびている年老いた母親と、慕っている子供がいる。罪を贖った後、早く帰るよう、可能な限り、寛大な判決を下されることを切望する次第である

■裁判長

「最後に言っておきたいことは?」

長い間、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。こんなに心が軽くなるのなら、何故もっと早くにと、心より後悔致しております。。。

🤔ルルの感想
やっぱ自己中心的ですな。自分の心がこんなに軽くなるのなら、、後悔しています??
被害者、遺族には、芯から私が悪いとは思ってないのかもね。。ガッカリ😵⤵️