るるの日記

なんでも書きます

古代の国づくり・地方に官人を置き、命令を届けるシステムを作る

2021-09-16 17:08:10 | 日記
越(北陸)はまず越前・越後両国に分かたれた。7~8世紀越前国は、能登半島全域を含んでいて随分広かった

718年
珠洲、羽咋、能登、鳳至は能登国に属することになったが、事実上は能登はなお越前国守の管轄下におかれていた。守を欠いたままでも国となった以上、能登の行政形態に若干の変化が生じた
まず、国衙がつくられた。ここに中央から官人が送られてくるようになった。そして中央政府の命令が届くようになる
珠洲郡にも郡衙を兼ねた珠洲駅が設けられ、海路によってか陸路によってか、命令が届けられたのである


理不尽な納税・信仰していた神さまの父神にもお布施をするシステム

2021-09-16 16:43:01 | 日記
若倭部は
若倭根子日子大毘毘命
(わかやまとねこひこおおびびのみこと【開化天皇】)の、名代の民

この若倭根子日子大毘毘命の名を伝える儀式や供物の費用を、貢納することを義務づけられたのが若倭部の人々であった

若倭根子日子大毘命と北陸はどうして関係があるのか?そのカギを握るのが、その子、日子坐王の存在である
古麻志比古神社の元来の祭神は
日子坐王命である

古事記では、日子坐王は四人の妃との婚姻伝承をのせるが、その背景には、五世紀末に、越(北陸)から若狭、近江、山城、大和北部に及ぶ日子坐王信仰圏が形成されていたことが説かれている

その信仰は、北陸一帯、当然珠洲にも及んでいて、日子坐王が若倭根子大毘毘命の子神に系譜づけられることによって、この父神への貢納をも課せられてしまった。その転機は口能登の豪族が能登国造に任命されたことにあり、日子坐王を祀っていた人々が、若倭部として貢納を強いられることになった



朝鮮の呪術的カモス信仰と珠洲【古麻志比古神社】と出雲の関係【神魂神社】

2021-09-16 16:09:27 | 日記
♦️古麻志比古神社
■若倭部に指定された人々が住んでいた若山川下流域には
【古麻志比古神社】がある
祭神は近世では能登一宮の
【気多大明神】を祀るが
その前の祭神は
【日子座王命(開化天皇第三皇子)】が祀られていた

■由来
★高麗、高句麗系渡来人の祖神説
古麻→高麗(こま)
志→魂(し)
とみる

★朝鮮平壌の呪術信仰説
※古麻(コマ)→熊(コモ)
※志(シ)→霊(ス)
※熊(コモ)が呪術と修行によって、神霊(カモス)の子を生む
熊霊(コモス)が、
神霊(カモス)信仰として
出雲神話にみえるカモス信仰や鴨信仰に発展
出雲から能登珠洲に伝わり
古麻志比古神社を祀る
始祖霊(熊神霊)信仰が
始祖的人格信仰(日子座王命)の根本であるとし、朝鮮の土着的呪術信仰であるカモス信仰【神魂信仰】を
古麻志比古の原像(根本)に求める

出雲の神魂(かもす)神社
(出雲の東部意宇郡)
意宇平野の元来の地主神は、熊野川上流の熊野大神としてあるから、意宇に国づくりがすすんだ過程で、新たにカモス信仰が加わったとみられる
カモス神は古事記では神産巣日神とされ、神産巣日神が元来は出雲の神であったとする神話学からの考察も生かされてくる
カモス称が残り続けたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる














鳥居を入ってすぐ左に
少彦名神社があり
箸を持参して、お供えし、お詣りすると、歯痛を治してくれるそうだ
ハシガミサマとも呼ばれる
今日も箸が数本置かれていました



【権力】まず大和朝廷が能登国の豪族を国造に任命し、国造が各地の豪族のトップと手を繋ぎ、政治的統一体が形成された

2021-09-16 14:45:03 | 日記
■珠洲・輪島地域など奥能登には前方後円墳の築造は認められない。そのため前方後円墳に代表される大和朝廷の権勢や文化は、5世紀代にはまだこの地方には及んでいなかった

■6世紀末、突如として珠洲にも数基の円墳からなる永禅寺古墳群が形成されはじめた。永禅寺古墳の被葬者は、新たに形成しはじめた、この地域的統一体の首長であったことは間違いないだろう

■この首長がこの時期になって急に古墳を築きはじめたことは、能登における政情の変化があったことを意味する【首長は口能登の能登国造に仕え、珠洲地域の支配者として、大和朝廷の権威を背景に任務に当たりはじめた。その地位の変化による古墳築造】

■この後、急速に古墳群が形成されはじめる。特に横穴群の形成が目立つ。それらは古墳時代末期7世紀~8世紀のもので、珠洲の確固とした地域的統一体形成も7世紀代であっただろう
永禅寺古墳群の被葬者である首長一族は、それら有力者層のトップに君臨していたとみる

■中心はやはり若山川下流域が中心であって、それを主要基盤とした首長が、口能登の国造勢力と通交・結合を強めた
珠洲の若山川流域の人々が、口能登の鹿嶋郷の人々とともに、若倭部とされたことは、以上のような地域状況で理解できる