■珠洲・輪島地域など奥能登には前方後円墳の築造は認められない。そのため前方後円墳に代表される大和朝廷の権勢や文化は、5世紀代にはまだこの地方には及んでいなかった
■6世紀末、突如として珠洲にも数基の円墳からなる永禅寺古墳群が形成されはじめた。永禅寺古墳の被葬者は、新たに形成しはじめた、この地域的統一体の首長であったことは間違いないだろう
■この首長がこの時期になって急に古墳を築きはじめたことは、能登における政情の変化があったことを意味する【首長は口能登の能登国造に仕え、珠洲地域の支配者として、大和朝廷の権威を背景に任務に当たりはじめた。その地位の変化による古墳築造】
■この後、急速に古墳群が形成されはじめる。特に横穴群の形成が目立つ。それらは古墳時代末期7世紀~8世紀のもので、珠洲の確固とした地域的統一体形成も7世紀代であっただろう
永禅寺古墳群の被葬者である首長一族は、それら有力者層のトップに君臨していたとみる
■中心はやはり若山川下流域が中心であって、それを主要基盤とした首長が、口能登の国造勢力と通交・結合を強めた
珠洲の若山川流域の人々が、口能登の鹿嶋郷の人々とともに、若倭部とされたことは、以上のような地域状況で理解できる