るるの日記

なんでも書きます

珠洲の神道文化・本地仏神像

2021-09-17 16:14:28 | 日記
■神像
神像は、対岸の渡来文化を包容しつつ形成されたものである。そのことは、初期神像の彫刻様式や仏教による表現が顕著であることによって窺知ることができる

■能登各地の本地仏神像
★伊須流岐比古神社
鹿島郡石動山
地蔵菩薩形像

★少彦名神社
羽咋郡富来町
如来菩薩像

★春日神社
輪島市門前町
如来菩薩像

★日吉神社
珠洲市高屋町
如来菩薩像
(現在、薬師寺安置)

★須須神社
珠洲市
如来像
(現在翠雲寺所蔵)

★広栗神社
珠洲市若山町
如来形像

★旧鳥屋尾神社
珠洲市宝立町
如来形像【珠洲焼製】
★剣神社
珠洲市鵜島
如来形像【珠洲焼製】


■能登における初期本地仏に共通する特色

★一本彫成、内刳りを施さず、衣文など簡略な彫技で、面貌は俗人的であるなど仏師による作品と異なる


■宗教的には密教、ことに天台の影響が考えられる。本地仏神像は神道をもって、仏教弘通の一方便としようてする目的で出たものであると考えられるし、神道に対しては優越的位置を固執することが基本的観念であったと考えられる。それだからこそ、仏像が神社において造立され、崇信されるということが行われたのであって、ここに神体としての仏像を安置しても平然としていた源流を見ることができる

珠洲の神道文化・渡来神信仰

2021-09-17 15:34:02 | 日記
■崇神思想を示すもの
※超人間的で怪異な容貌の土偶
※神秘的な装飾土器
※石製品、骨格器による呪器
※土製の人形、馬形
※鏡
※玉
※剣

★自然神・崇神思想を示すもの
※近づき難き山岳(神体山)
※近づき難き滝
※巨岩
※巨石
※樹木(神木)

★やがて、神霊を特定の場所に固定
せしめる神籬(ひもろぎ)、磐境(いわさか)と称する祭祀施設

★社殿

■仏教が渡来し、神仏習合思想
大社に神宮寺
仏教擁護の鎮守社
神に菩薩号
神仏同体権現観念

■北陸における韓神信仰
古代における北陸地域と
日本海対岸の諸地域との交流は
人の渡来と定着を軸に展開され
対岸からの人の渡来は
多様な外来信仰の
濃密な滞留現象をもたらした

これら渡来系諸信仰は、外来の信仰と意識されることなく、むしろ
【日本民俗固有の信仰】そのものを譲成させる主要な要素の1つを成した



源頼朝、木曽義仲に呼応した能登の叛乱

2021-09-17 14:55:47 | 日記
12世紀末、源平争乱の時代、北陸道諸国においても新たな変動を生む
1181年7月能登国で叛乱がおこり、
国守の派遣していた目代が、京都へ逃げ帰り、その目代が頚をはねられた
当時の能登国では、平清盛四男知盛が知行国主〈国守を推薦しその国の税・官物などを自分の収益にできる特権〉になっており
国守には、清盛の甥・教経が補任
目代は教経が派遣していた平氏の家人だった
こうした平氏一門の知行国は全国で25国あった

能登国の叛乱は、こうした平氏一門支配への反抗であり、源頼朝、木曽義仲ら源氏一門の動きに呼応したものであった

1183年5月にかけて
木曽義仲による北陸道攻略作戦が進められ、越中・能登・加賀の武士や白山宮の僧兵たちは木曽勢に加担し、倶利伽羅合戦、安宅合戦などで平氏方を撃退しつつ、7月木曽義仲は北国軍団を率いて上洛。平氏一門を京都から西国へ追った

後に木曽義仲は源頼朝の派遣した源義経・範頼に近江国粟津で滅ぼされ、源義経のめざましい働きによって栄華を窮めた平氏一門も壇之浦の海の藻屑と消え去り、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれた

上級国民と反社会勢力との繋がり

2021-09-17 14:24:25 | 日記
■権門勢家の違法行為
10世紀以降
権門勢家〈権力や勢力のある家柄〉の使者による不法行為が横行する
不法行為とは、中央の権門勢家の使者が、調を進上する馬や人夫、米を運ぶ船を、無理に雇いあげたり、横奪し、国司の任務遂行や国家財政に打撃を与えた
権門勢家の使者は、実は手先を使っていた。手先となったのは、本籍地を離れて脱税する浪人たちである

■国司は任務遂行止め任地私領化へ
国司の能登住民への支配の仕方が大きく変わってきた

羽咋郡では、弘行という土豪の租税滞納が厳しく追及され、彼の支配地の領有権が、国司・藤原基頼に取り上げられ、基頼によって1110年京都の北野天満宮に寄進され、北野天満宮の社領とされてしまった

能登郡では、国司が今の七尾市江曽町、飯川町、鹿島郡鳥屋町一青深沢あたりを、私領のように直接知行するようになっていた

珠洲郡では、国司・源俊兼が珠洲郡東部のほとんどを私領としてしまった

国司が私領化しても人民の負担に変わりはなかったが、珠洲郡の東側からの収納物は、源俊兼の収入となった。その上俊兼はその所領を子の季兼に伝領させてしまった

やがて季兼によって1143年
崇徳上皇の后・藤原聖子(皇嘉門院)に寄進され、彼女の庄園(若山庄)となった

こうして、珠洲郡東部の住民は、若山庄の住民として生き、さまざまな負担を強いられ続けることになる

国司は徴税を増やすことが任務だが、厳しさだけでは人の生産意欲はわかず、恨みの情がわくだけ

2021-09-17 13:41:01 | 日記
能登国の農民に新たに緊張させられる事態が起きた

869年
能登守〈長官〉に安倍高貞
介〈副長官〉に興道名継
が、任命された。彼らは着任早々から、農民を【新附】するため、官人をかりたてたのである

新附とは、戸籍・計帳に未登録の農民を徴税対象として新たに登録することを言う(戸籍・計帳は他の国々ではほとんど作られなくなっていた)
その結果489名が新附された
対象は珠洲の山間に散居した者や、新たに海辺に集落を形成した農民たちである
国司側から見たら任務を遂行し、大きな成果を上げたことになる