るるの日記

なんでも書きます

一石二鳥【前田利家の動き】無惨と慈悲と政治利用

2021-09-22 16:03:10 | 日記
♦️前田利家の動き

■能登の情勢は、上杉勢と畠山旧臣は虎視眈々と、能登侵入の機を伺っていた。利家が越中魚津城討伐の最中、上杉方の【長景連】が再度能登へ侵攻してきた。先年の恥辱をそそぐためだった
利家は、【長連龍】を主将としてこれを討伐させた
【在地侍は長景連に一味せず、長連龍に協力した】

■このように、不安な状況はまだつづいていた。本能寺の変が起きると、柴田勝家が京都出撃を図り、利家にも出馬を催促してきたが、利家は領内の動きに不安を感じて動かなかった

■石動山焼き討ち
上杉方に応じた畠山氏旧臣
温井景隆
三宅長盛
遊佐景光
らが石動山衆徒の誘いによって、石動山に潜入し、全山を占拠した
利家は、佐久間森正に援軍を求め、これを攻略し焼きはらった

前田利家が石動山天平寺を焼き討ちしたとき、主君信長の比叡山焼き討ちにならって、「数百人の僧侶ども一人残らず、子供までなで斬りにした」「数千の首を山門にかけならべた」というすざまじい記録がある

利家は穴水の百姓に対して
珠洲郡飯田・正院・上戸・直の四か村で破壊した堂の木材を、舟で府中(七尾)まで送れと命じている。石動山と同調して利家に敵意を示した真言宗寺院が破壊されていたのを、建設中の七尾城の建材に利用するためだ

■社寺の破壊は、敵対行動をとった時に行われたもので、利家の政策としては、信徒や氏子の意向を重視して、永らくの戦乱で荒廃した社寺を保護・回復するのを本義とした。
このような社寺の保護は、社寺と密接な関係を有する、地域の土豪百姓の掌握が伴っていた

松波城【庭園跡の遺構配置】

2021-09-22 14:30:38 | 日記
■松波城庭園跡と遺構配置群

★庭園跡は
標高約15mの丘陵斜面の【平坦地】に配置
★平坦地は
東西から北東の3方向は斜面
北東部の斜面は線路により削平され旧状が失われている
(現状)東西約15m、南北約20m
面積約350平方m

★庭園跡の遺構群
平坦地に配置されている
平坦地は現況より広い
東西約20m
南北約30m
面積約600平方m
園池遺構と建物遺構に分かれる

【園池遺構】
平坦地の南西に位置する
西側に斜面
東側に空閑地(あけてある土地)
※枯山水遺構
※池状の落ち込み
※泥岩貼付遺構
で構成する

【建物遺構】
平坦地の北東に位置する
北側に斜面
南側に空閑地
南西側に園池遺構を臨む
※礎石建物
※建物に付属する敷石状遺構
※礎石建物と関連性がある石列
などで構成

★空閑地は平坦地の南東に広がり
園池遺構と建物遺構に囲まれた位置にある







鎌を研ぐための水溜まりをつくっている時に発見【松波城跡・庭園跡】

2021-09-22 13:39:31 | 日記




松波城跡は、中世能登国最大規模の荘園・珠洲若山荘の有力武士で、能登守護畠山氏の一族でもあった松波氏の居城とされる

1577年越後上杉謙信による能登侵攻にともなう、七尾城陥落後に攻略され、6代目当主義親は自害し落城した

江戸期に加賀藩の所有する御林山であった城跡地は、民間に払い下げられる明治初期まで樹木が生い茂る中で礎石(そせき・建物の基礎・柱などをのせる石)が多数点在していた
以降開墾が加えられ、町家や寺院建立用の礎石、庭石として搬出され、大正初期にはまったく見えなくなってしまった

昭和36年(1961年)から、能登線松波駅が城跡地に隣接して設置されるに呼応して、城跡地の公園化整備が着手された
公園整備中の昭和37年、城跡地の一角から流水を表現した枯山水意匠の庭園が発見された
【鎌を研ぐための水溜まりをつくっている時に偶然見つかった】

長さ7m
幅狭い所で30Cm広い所で1m30Cm
その間に直径4~5Cmの碁石のように平たい小石を綺麗に縦にして敷きつめ、その両側の所々に大きい石を配置し、あたかも渓流を思わせるような枯山水に属する庭園である
川下に滝を表すような傾斜があり、水は2つに分かれて直径1mの滝壺に注いでいる







【方向を誤ることない前田利家】柴田勝家から豊臣秀吉へ

2021-09-22 10:44:01 | 日記
■1581年3月
菅屋長頼が七尾城
福富行清が羽咋郡・富来城
前田利家が羽咋郡【菅原】
に配された
【菅原】は京都北野神社領荘園があって、天満宮が勧請されていた

前田家が菅原道真の子孫だと唱え出したのがいつ頃かは不明であるが、能登入部早々、拠点をここに求め、利家はさっそくこの神社を保護し、まず、この土地の豪族・国田行長に扶持を与えて手なずけ、足元を固めていった
8月
ところが中国征伐のため菅屋、福富は信長の手元に引き寄せられ、
能登一国は利家に与えられた
利家は堅固な山城七尾城ではなく
流通経済を掌握するため、港に近い小丸山に平城を築く計画を立てた

■1582年6月2日
本能寺の変にて織田信長が自害すると、天下の形成は一変
13日
山崎合戦で、羽柴秀吉が明智光秀を破ると、信長の後継者としての道を開き、11月4日対抗馬柴田勝家を滅ぼした
この急変時に方向を誤ることなく、秀吉を助けた前田利家は、その功により、能登に加賀・河北を加増され金沢へ城を移した
このようにして加賀藩は成立した


前田利家の北陸進出

2021-09-22 10:09:46 | 日記
【前田利家の北陸進出】

前田家は美濃の斉藤家一族
戦国期に尾張に進出
♦️前田家発展の機運は、1551年、利家が織田信長に仕えてから開けてきた。利家はほとんどの戦闘に参加

■1575年越前に領地を得た
信長は柴田勝家に、北庄(福井市)を与え、協力者として
★佐々成政
★不破光治
★前田利家
に府中(武生市)10万石を3分して与えたのである

■1580年には加賀の一向一揆もおおかた討滅。一向一揆の本拠地尾山御坊(金沢)も没落
★尾山御坊には佐久間盛政
★越中守には佐々成政
★能登には菅屋長頼、福富行清
そして前田利家が進駐することに