♦️前田利家の動き
■能登の情勢は、上杉勢と畠山旧臣は虎視眈々と、能登侵入の機を伺っていた。利家が越中魚津城討伐の最中、上杉方の【長景連】が再度能登へ侵攻してきた。先年の恥辱をそそぐためだった
利家は、【長連龍】を主将としてこれを討伐させた
【在地侍は長景連に一味せず、長連龍に協力した】
■このように、不安な状況はまだつづいていた。本能寺の変が起きると、柴田勝家が京都出撃を図り、利家にも出馬を催促してきたが、利家は領内の動きに不安を感じて動かなかった
■石動山焼き討ち
上杉方に応じた畠山氏旧臣
温井景隆
三宅長盛
遊佐景光
らが石動山衆徒の誘いによって、石動山に潜入し、全山を占拠した
利家は、佐久間森正に援軍を求め、これを攻略し焼きはらった
前田利家が石動山天平寺を焼き討ちしたとき、主君信長の比叡山焼き討ちにならって、「数百人の僧侶ども一人残らず、子供までなで斬りにした」「数千の首を山門にかけならべた」というすざまじい記録がある
利家は穴水の百姓に対して
珠洲郡飯田・正院・上戸・直の四か村で破壊した堂の木材を、舟で府中(七尾)まで送れと命じている。石動山と同調して利家に敵意を示した真言宗寺院が破壊されていたのを、建設中の七尾城の建材に利用するためだ
■社寺の破壊は、敵対行動をとった時に行われたもので、利家の政策としては、信徒や氏子の意向を重視して、永らくの戦乱で荒廃した社寺を保護・回復するのを本義とした。
このような社寺の保護は、社寺と密接な関係を有する、地域の土豪百姓の掌握が伴っていた