■天正6年から7年にかけての能登の政局は
★上杉方(鯵坂、長景連)
★畠山旧臣派(上杉か織田あやふや)
★長連龍方(織田方)
三者入り乱れ状態
珠洲地域では猛将・長景連の奮闘もあって、上杉方が一応有利であったが、その根底は混沌としていた
■天正7年8月頃
畠山旧臣派によって上杉氏勢力は、能登から追放され、長景連も正院川尻城を棄て越後へ逃れた
その後、能登における政権争いは、
★畠山旧臣派
★長連龍【畠山旧臣派を、畠山家臣だった父・兄の仇敵と憎む】
によって戦われた
■天正8年、羽咋郡での菱脇合戦にて長氏優勢が確立するが、
天正9年、織田信長の武将・前田利家が能登に入部して、両者の争いは終息
■天正10年5月20日頃、能登から退散していた長景連ら上杉方武将が、突然兵船で乱入し、至郡棚木城に立てこもった
23日、前田利家が派遣した長連龍の攻撃にあい、棚木城は落城
上杉方大将・長景連の首は、安土城の織田信長のもとに送られた
【長景連は、棚木城を棄て落ち延びる途中、珠洲郡正院郷川尻で百姓の襲撃にあい討ち果てた】
27日、信長は、長連龍の軍忠を賞した感状を認めた
この感状が能登に届いた頃、6月2日未明に織田信長は京都の本能寺で無念の自害を遂げた
■前田利家のもとに屈服していた
畠山旧臣の武将たちは、本能寺の変を契機に、越後の上杉方と内応し、石動山天平寺の僧衆とはかり、鹿島郡荒山に要害を構え、織田方に叛乱を企てたが
6月26日、織田勢の攻撃により、石動山天平寺は焼き討ちされ、畠山旧臣らも自害した
■奥能登では前田利家によって、旧上杉方の残党狩りが徹底的に行われ、ここに奥能登の地は、前田利家による新しい大名領国の中へ組み込まれて行くことになった
能登の戦国史はついに幕をとじる