るるの日記

なんでも書きます

諸行無常【長景連→落城後農民に殺される】【畠山旧臣派→自害】【織田信長→本能寺の変で自害】

2021-09-20 16:55:26 | 日記
■天正6年から7年にかけての能登の政局は
★上杉方(鯵坂、長景連)
★畠山旧臣派(上杉か織田あやふや)
★長連龍方(織田方)
三者入り乱れ状態

珠洲地域では猛将・長景連の奮闘もあって、上杉方が一応有利であったが、その根底は混沌としていた

■天正7年8月頃
畠山旧臣派によって上杉氏勢力は、能登から追放され、長景連も正院川尻城を棄て越後へ逃れた

その後、能登における政権争いは、
★畠山旧臣派
★長連龍【畠山旧臣派を、畠山家臣だった父・兄の仇敵と憎む】
によって戦われた

■天正8年、羽咋郡での菱脇合戦にて長氏優勢が確立するが、
天正9年、織田信長の武将・前田利家が能登に入部して、両者の争いは終息

■天正10年5月20日頃、能登から退散していた長景連ら上杉方武将が、突然兵船で乱入し、至郡棚木城に立てこもった
23日、前田利家が派遣した長連龍の攻撃にあい、棚木城は落城
上杉方大将・長景連の首は、安土城の織田信長のもとに送られた
【長景連は、棚木城を棄て落ち延びる途中、珠洲郡正院郷川尻で百姓の襲撃にあい討ち果てた】
27日、信長は、長連龍の軍忠を賞した感状を認めた
この感状が能登に届いた頃、6月2日未明に織田信長は京都の本能寺で無念の自害を遂げた

■前田利家のもとに屈服していた
畠山旧臣の武将たちは、本能寺の変を契機に、越後の上杉方と内応し、石動山天平寺の僧衆とはかり、鹿島郡荒山に要害を構え、織田方に叛乱を企てたが
6月26日、織田勢の攻撃により、石動山天平寺は焼き討ちされ、畠山旧臣らも自害した

■奥能登では前田利家によって、旧上杉方の残党狩りが徹底的に行われ、ここに奥能登の地は、前田利家による新しい大名領国の中へ組み込まれて行くことになった
能登の戦国史はついに幕をとじる

【たかが一人の命】七尾城落城させた上杉方による能登国支配→上杉謙信一人の急死が世を乱す【されど一人の命】

2021-09-20 15:55:08 | 日記
■1577年9月七尾城落城
能登国を支配していた能登守護畠山氏が、越後上杉氏に滅ぼされた

それは、守護代遊佐氏が上杉側と結んで、主君である畠山氏を裏切り、遊佐と主導権争いをしていた宿敵、長続連を打倒したものであった

以後、能登国の政治支配は
★上杉家臣・鯵坂長実
★畠山旧家臣・遊佐続光
によって行われる

■遊佐氏の基盤となっていた珠洲地域においては、おおむね変動はなかった
むしろ、、、
1577年3月上杉謙信が七尾城攻略中
遊佐氏は、飯田郷の在地土豪である飯田氏に珠洲の三ヶ所を知行分として与え、落城後の同年11月には、改めて二か村の地を知行分として安堵している
理由は
それに対する軍役として、越後勢が船で珠洲へ上陸した時、密かに越後方に加担すること、、
同時期、高勝寺も寺領の安堵をいちはやく上杉謙信に求め、新体制にのりうつる対応の素早さを見せている

■珠洲地域では、正院川尻城に上杉方の【長景連】が配置され、郡内の支配にあたる。長景連は七尾城代の鯵坂とは不和であったらしく、1578年8月には、越後の上杉景勝に「鯵坂の言は事実無根である」と起請文を出している
〈起請文の内容〉
★1578年3月、上杉謙信の急死にともない、その後継者をめぐり、景勝と影虎が争った際に、長景連が破れた影虎に内通していた
★織田信長の支援で、能登奪回作戦を展開していた、畠山氏旧臣・長連龍(遊佐氏に殺された長続連の子)と、長景連が同族の好みをもって結んでいる

■また、その頃
能登における政局も変化が見られた
★既に遊佐続光は、上杉謙信生前に、謙信の勘気に触れて引退
★鯵坂が能登国主導権を握っていたが、七尾落城で滅亡した長続連の子、連龍の攻勢がかけられる
★内では畠山旧臣たちが織田信長に通じる
上杉謙信没後の上杉氏の能登支配には不安の色が漂っていた








呪術的信仰→求道的信仰→阿弥陀仏から安らぎや勇気をいただく的信仰

2021-09-20 14:33:49 | 日記
■禅信仰に次いで珠洲地域に伝播した鎌倉新仏教は、阿弥陀仏の教えを説く躍り念仏の時宗だ

■その後、阿弥陀仏の教えを北陸地方に弘通させたのは、本願寺蓮如による浄土真宗であった
1471年加賀・越前国境の吉崎に坊舎を構え【御文(教義説明書)】の発行や同朋精神の強調を通して、不安におののく民衆に「明日への生きる勇気」を与え、各地に念仏の声が響き渡った

珠洲地域においても真宗の教えが、いちはやく受容され、本願寺門徒の形成と従来の村堂や寺院を真宗寺院化に早いスピードではかられた

そのとき教線の伸長をはかった
本願寺派の門流は
★加賀国の専光寺の門派
★能登国七尾の長福寺の門派
★地元若山庄・妙巌寺の門派
戦国期の珠洲本願寺教団は、これら三系統によって占められた


■織田信長が強力な門徒組織を持つ、大坂の石山本願寺を制圧するための【石山合戦】が始まると、珠洲の坊主・門徒たちにも本願寺からの動員命令が下され大坂へ狩り出された
能登畠山氏は、織田方と戦っていた石山本願寺を支援するため、珠洲の天台宗・高勝寺に軍資金を納めるよう命じている
石山合戦は織田信長に屈服した本願寺顕如の石山退城をもって終止符を打つ




【鎌倉新仏教】呪術的信仰から、仏教に求道心を求めるようになる【禅】

2021-09-20 13:39:32 | 日記
宗教的平等性と厳正な求道心を基調として成立した【鎌倉新仏教】
最初に珠洲地域に伝播したのは
臨済と曹洞の禅風であった

♦️臨済宗
臨済宗については
吉祥寺(1329年創建)
願成寺(吉祥寺14世が開く)
薬師寺(村堂が臨済宗寺院となる)
琴江院(室町期に開く)
四ヶ寺が知られる
吉祥寺が臨済宗拠点となっていたことがうかがわれる
外護者は庄園領主や庄官的在地領主層

♦️曹洞宗
鳳至郡の總持寺を拠点に、全国的発展をとげていった
珠洲では蛍山門流の蛾山派(總持寺系)ではなく、鹿島郡・永光寺の蛍山門流の明峰派の教線が伸長した

珠洲では
海蔵寺
曹源寺
昌樹寺
永禅寺(1338年開創・最も古い)
金峰寺(永禅寺の小寺)
の五ヶ寺が永光寺末
その他は戦国時代以降開創

永光寺派の禅寺が多い
理由は室町期から戦国期にかけて、永光寺檀徒であった能登畠山氏の守護代・遊佐氏が、若山庄で在地領主的基盤を形成し、若山庄の菩提所を金峰寺とし、明峰派の教線拡大を援助していたことによる
金峰寺は珠洲の明峰派の中心寺院になった

水源・船の目印、、山は人を生かし守る

2021-09-20 12:46:30 | 日記
■珠洲びとたちの中世における信仰は、宝立山と須須ヶ嶽(山伏山)を拠点とした修験道や、特定の仏菩薩を祀る村堂の信仰がある
それらは呪術や多神観を基調とした民間信仰として、天台・真言系の寺院とも結びつき、社会生活の中に深く根ざしていた

♦️山岳・修験道信仰
■宝立山
標高468.6mの霊山
山頂には白山宮や五社権現を祀り
白山や石動山修験者の霊場となっていた。
また、宝立山から流れ出る若山川、磐若川、鵜飼川、町野川などは、農耕生活に不可欠な命の水を供給しており、それらの源流・宝立山は山里の民から崇拝畏敬の聖地として仰がれていた
また、富山湾を舟行し、海運や魚に従事する人々にとっても、海からの指標であり、信仰の山となっていた

■須須ヶ嶽
標高184m
山頂に虚空蔵菩薩を祀る堂
石動山系の霊場
延喜式名帳に記載する須須神社鎮座
日本海を沖行く人々が航海の安全を祈り、岬に住む漁師たちは漁場を定める指標として厚い信仰を寄せていた

したがって宝立山、須須ヶ嶽の
両霊山は中世珠洲の宗教的世界の中核であり、若山庄の鎮守・法住寺も修験道と深い結びつきを持っていた

当時珠洲地域にあった多くの寺院や村堂は、霊山と密接な関係を持っており、白山と密接なつながりを持つ石動山修験者の勢力下に属していた

♦️村堂信仰
村々では仏菩薩を祀り、共同体の精神的支柱として、あるいは土豪や名主層の持仏堂となっていた

村堂の多くは、巡回する修験者たちや近隣寺院の僧侶たちによって仏事法要が営まれた