るるの日記

なんでも書きます

【人民の厳しい引き締め】浮浪人を摘発し強制移住・巡察使による民俗観察と田の検査

2021-09-17 13:15:10 | 日記
757年、越中国と合併していた能登国が、16年ぶりに再び能登国に独立した
708年に設置された能登国司が下級官人だったのと違って、760年には専任国司として〈高元度〉が任命された。もっとも当時高元度は遣唐使の阿倍仲麻呂らの消息を得るため長安に向かっていたのだが、、
〈石上奥継〉は北陸道巡察使に任命され、民俗の観察や田の検査をした。これは能登に律令政治をより厳しく及ぼす上で重要な意義を持っていた

前年、能登を含めた北陸道で摘発された浮浪人が、関東諸国で摘発された浮浪人とともに、雄勝(宮城県北東部)の柵戸として強制移住され、その数二千人

柵戸は【蝦夷の反乱】においての、朝廷側の拠点・【城柵】に定住させられ、平時には農耕にあたり、戦闘がはじまると武器をとって戦う

その柵戸へ送る浮浪人の大規模な摘発の翌年、巡察使・石上奥継による視察があった。とても威圧的であったことは間違いないだろう

高元度は翌年帰国したが、能登へは来任せず、国司に来任してきたのは761年に美濃介から転じた上毛野公牛養であった。田辺史大隅と同人である

ともかく、珠洲の地域は以後
益々強く律令政治に捕らえられることになった

海を守る神が鎮座する地に、警備を固める目的の烽(のろし)を置いたら神罰があたる

2021-09-17 12:09:23 | 日記
■白村江の戦いで敗れてから烽が置かれた

烽は663年、白村江の戦いで敗れた翌年から対馬・壱岐・筑紫に設けられ、以来出雲・隠岐・平城京周辺に置かれた
特に珠洲に置かれた烽の史料はないが、北辺の警備を固める命令はたびたび発せられていた

■烽の燃料と烽のあげ方
烽は異常を発見すると
昼は煙をあげ
夜は火をたいた
火をたく場所は45m離して設けられた
火をたく燃料は乾燥した葦を芯にして、その上に乾いた草を置いて、何ヵ所かを節にして縛り、その周りにはタイマツを挟んで、10具以上を保管
煙のためには、ヨモギ、ワラ、生芝、乾燥した狼の糞

賊船の数や程度に応じて
あげる煙・火の数が定められ
煙・火をあげたのに21.7キロ離れた隣の烽の応答がない時は、連絡船を走らせた

■烽の人事
国司は烽に当地の有能な者を烽長として二人を任命し、三烽以内を管理させ、三年で交代させた
烽長の下には徴発された四人の烽子が配属され、設備の保全・修理に当たらせた


■珠洲岬の山伏山須須神社奥宮の地にあった「のろし」が国家の管理下に置かれていたものならば、以上のように保持されたことになる

だが能登には果たして幾つもの烽を置いた警備体制が整えられていたのだろうか?
9世紀早々から能登の六駅は廃止され、加賀・越前の連絡路が重視されている動向だ

珠洲の「のろし」は「地方ののろし」として、海路の安全と非常に備えたもので、能登国造が支配した時代に生まれ、能登国司の所管に入ってからも、日本海航路と内浦航路との接点の安全に備えたものてして生き続けたのである

■出雲の烽
出雲の数ヶ所の烽の配置を見ると
ミホススミ命を祀る美保岬には烽はなく、国府の北側・布自支美山
東南側の暑垣山に置かれていた
海路を守る美保神社は、もちろん美保岬に存在し続けたのである

諸税の負担が始まり、やってられない人民は、逃げたり戸籍をごまかす

2021-09-17 11:07:07 | 日記
■納税負担はじまる
珠洲郡の行政区画が整えられると
さっそく諸税〈租・庸・調など〉の負担が珠洲の人民たちに課せられるようになった

【租〈米〉】
鵜飼川、盤若川、若山川、紀ノ川、大谷川など沿岸の小平野をはじめ、海岸沿いに小さい田を拓いた人々も田租を納めた

【庸〈布類〉】
能登では真綿

【調〈郷土産物〉】
いりこ
なまこ
雑魚の干物
じゃこ
塩鯖
うるし
胡麻油

■力役
成年男子の4分の1~3分の1が
鳥屋にあった軍団に交代で勤務し
珠洲は賊の侵入や異変に備えて設けられていた狼煙に烽子として詰める者もいた
農閑期に軍船の製造

力士や歌舞人など、特別な技能で中央に貢ぎだされた者もいた

■贄(にえ・天皇の食膳に供する物)
毎月142隻でワカメを京に送った
他に薬としての
かくま草
かやのみ
桃の核
さるはじかみ

■朝廷まで、荷造りし運ばねばならない

品目が集まると、品目ごとに仕分けし、作られた荷物には、品目が採れた住所・納税者の名を記した木札を付ける。それを運脚夫に徴発された者が舟で能登国衙まで運び集積。そこから役人に引率されてさらに京まで運んだ
往路18日、復路9日が標準
納期は調糸は7月30日
その他は11月30日

■バカバカしくてやってられない
戸籍、計帳の登録を偽り
逃亡、浮浪したりする者が増えていった


古代の珠洲郡四郷【日置・草見・若倭・大豆(大足)】の成り立ちを調べる

2021-09-17 10:19:43 | 日記
■珠洲郡四郷

珠洲郡には
大和朝廷の大宝律令による命令で
日置・草見・若倭・大足の四郷と
余戸が置かれた
一郷は50戸ずつの編成が原則だったから、四郷は珠洲郡地域の中心地になっていた

■日置郷は松波川下流域
小木~松波は日置庄といった
小木の九十九湾は日置の海と称した
小木の日和山は日置山といった

★日祀(ひまつり・日神祭祀)用の料田を【日置田】という。出雲国の「内外日置田二町」は出雲大社の祭祀用のものであったし、日祀りにあたった日置氏も認められるから
日置郷は日祀り関した名称だ
小木~松波の沖は有名な難所で舟の海難が少くなかった。海路の無事を願う日祀りがさかんに行われていたのだろう

■草見郷は鵜飼川下流域
まず中世~近世の文書の
「若山庄内直郷」に注目

次に三州式社記の
「加志波良比古神社が直郷柏原村にあった」という記事に注目。この記事は見逃すことはできない

つまり、加志波良比古神社があったところが、中世以降は直郷とよばれ、若山庄に包摂されたが、それは神社の鎮座地まで変えてしまったわけではない

加志波良比古神社の元来の祭神は
★加志波良比古命(地主神・海上から見附島を見つけて上陸しときた〈海上からの客人信仰〉)
★伊加志穂比古神
★猿田彦神(交通神)

したがって、加志波良比古神社が
鵜飼川流域、今の鵜飼町柏原にあることに目がいく。式内社は地域の中心的な信仰対象であった性格を思えば、草見郷は、今の鵜飼川流域であっただろう

■若倭郷は若山川流域

■大豆(大足)郷は大谷村
谷は「山のなだり」という意味
大足(おおたり)
大谷(外浦に流れ出る名ヶ谷川・間川下流域)
大谷は越前気比神社の神領になっていた

大和朝廷が支配した能登国珠洲郡の役所の所在地と郡司の名を調べる

2021-09-17 09:10:24 | 日記
大和朝廷は701年大宝律令ができ、支配した地方に、【評制】に変わり【郡制】をしいた

■郡衙(ぐんが・郡の役所)はどこに置かれたか?

この問題に関しては【地割】に注目する
付近の自然地形による【傾斜線地割】とは異なる【方格地割の方四町】地域が存在する
奥能登では輪島市の中心部
珠洲市の正院地域に
方格地割地域が存在

★郡衙は珠洲正院にあった
正院という地名は、地方官衙やその施設の領域をさす古代語。加えて
方格地割の存在にて、珠洲郡衙の所在地は今の正院地域にあったであろう

■郡司は誰か
珠洲郡の政治にあたった郡司の名を知りうる史料が無い。しかし能登の他の三郡(能登郡・羽咋郡・鳳至郡)とも郡司は、【能登臣氏】の者である
それは、赴任という形式ではなく、同族関係を結んだ

珠洲郡の若山川流域の人々が
能登郡の人々とともに、【若倭部】とされていた相互関係を見ても、珠洲郡の郡司も、能登臣氏一族がつとめた可能性が大きい

■能登国の本格的整備時期は奈良時代末

能登国に専任の国司【守】が任じられたのは760年以後、つまり奈良時代末から後であった
よって能登国の本格的整備もこの後であったと考えられ、能登国分寺ができたのは843年であった
したがって、珠洲郡衙が方格地割された方四町に整備されたのも、能登国府や国分寺の整備過程の関連においてなされたのであろう