757年、越中国と合併していた能登国が、16年ぶりに再び能登国に独立した
708年に設置された能登国司が下級官人だったのと違って、760年には専任国司として〈高元度〉が任命された。もっとも当時高元度は遣唐使の阿倍仲麻呂らの消息を得るため長安に向かっていたのだが、、
〈石上奥継〉は北陸道巡察使に任命され、民俗の観察や田の検査をした。これは能登に律令政治をより厳しく及ぼす上で重要な意義を持っていた
前年、能登を含めた北陸道で摘発された浮浪人が、関東諸国で摘発された浮浪人とともに、雄勝(宮城県北東部)の柵戸として強制移住され、その数二千人
柵戸は【蝦夷の反乱】においての、朝廷側の拠点・【城柵】に定住させられ、平時には農耕にあたり、戦闘がはじまると武器をとって戦う
その柵戸へ送る浮浪人の大規模な摘発の翌年、巡察使・石上奥継による視察があった。とても威圧的であったことは間違いないだろう
高元度は翌年帰国したが、能登へは来任せず、国司に来任してきたのは761年に美濃介から転じた上毛野公牛養であった。田辺史大隅と同人である
ともかく、珠洲の地域は以後
益々強く律令政治に捕らえられることになった