るるの日記

なんでも書きます

太平洋戦争下の能登【国民一貫統制への洗脳・情報統制】コロナワクチン

2021-09-20 11:45:38 | 日記
昭和16年12月8日
日本は世界大戦の渦中に突入

前年から能登の町や村人たちは、すべて隣組に組織され、上意下達の末端の組織として、国民をあげて戦争に動員する役割を果たした
隣組は内務省の指導で、全国民を一貫統制し戦争に動員しようとするものだった

昭和19年
上戸村は満州開拓団送出指定を受ける
指定20年3月
先遣隊の一行は現地に入植した


昭和19年サイパン島の日本軍全滅
東條内閣総辞職
戦局ますます悪化
生活物資は底をつく
米収減収と徹底した供出制度
疎開者の転入による食料悪事情

昭和20年石川県は石川県下沿岸に製塩のための塩田築造や製塩指導員の養成を指示。製塩指導員講習が開催された。明治以降衰退しほとんど姿を消した珠洲の製塩が再び脚光を浴びたわけだが、このような付け焼き刃では成果が上がるはずのものではなかった

昭和19年末から20年6月頃にかけてフィリピン、沖縄などが次々とアメリカ軍に占領され、日本海軍はほとんど全滅。本土はB29の猛空襲にさらされた
能登半島はB29が北陸の都市を空襲する時の侵入目標となり、能登半島上空で旋回したあと、北陸の市街に爆弾の雨を降らせた

しかし太平洋戦争中、一切の情報は統制され、伝えられる戦況は真実とほど遠かったし、元寇のときのように、いまひとたびの「神風」を期待する幻想があった

、、、ついに日本政府もポツダム宣言を受諾し、8月15日降伏の詔勅が天皇みずからのラジオ放送で全国に伝えられた、、長い戦争はやっと終わった

戦場に兵士として赴いた人、満州開拓団の人々にも大きな犠牲を出して、この戦争は終わったのである


太平洋戦争下の能登・満州移民は貧乏村の幸せのためと一所懸命努力したのに

2021-09-20 09:24:02 | 日記
日本は満州への20年・100万戸移民計画を推進。目的は満州国の軍事上の必要と、日本国の農村の経済問題を解決しようとするため

珠洲の各村からも昭和11年から昭和20年まで約6百人もの人々が新天地に開拓の夢を託して満州へ渡った

西海村はこれという産業のない、半農半漁の出稼ぎ村、貧乏村でした。昭和13年に経済更生村に指定され、満州への分村計画こそ村の更生であり、住民の幸福への道であるとして、村をあげて『開け満州』『行け開拓へ』と純真な村民の決意を一途に燃え上がらせていた

理想であった地主自作農へ一歩一歩前進。希望に胸ふくらませて働く。村を発つ時誓いあった「一徳一心の理想郷建設」は目前に近づいた
一つ一つの努力の中で、
誰もがそうした意識を固めていた

しかし、そこ満州は中国の領土であり、中国の承認はもちろん諸国の支持を得てはいなかった
開拓地とされた土地にも、既に現地の民衆の手で開かれた耕地もあり、そこに日本人が移民することによって引き起こされる様々な困難な問題も日本国は予想されていたはず、、

だが満州事変以降、軍部が政治の主導権を握り、ジャーナリズムも国民の戦意をかりたて、冷静な判断を呼び起こせないほど、日本国内の風潮は、一途に戦争に向けて高ぶっていた

昭和13年、石川県から513名の満州開拓少年義勇軍が送り出された
地元新聞では
「少年義勇軍の首途、若き気魄を乗せて、青雲たなびく満州へ、新日本建設の513少年、行け彼方、けふ華やかな歓送」と歓送の模様を伝える

だれもが、まだ満州移民の破局的結果に気づかない

太平洋戦争下での能登・酒造業は今日の労務体制に反する

2021-09-20 08:26:46 | 日記
■満州事変をはじめた日本は
翌年満州国を立て
さらに翌年国際連盟脱退
昭和12年7月中国との全面戦争突入
戦争は軍主脳らの短期決戦の夢はかなく長期化していった、、

■以前とちがって能登の人々の生活にも、戦争の影響が及んでくるようになった
上戸村では7月以降12月まで5回にわたる兵士動員があった
4人
20人
43人
4人
2人
合計73人
430戸余りの村だったから、6軒に1人が動員されたことになる
馬も軍馬として17頭徴発された

この年はやくも6名の戦死者
8名の戦傷者を出した
戦死者は村葬をいとなみ
かえって村民の戦意をかりたてた

若山村では軍需干草729梱を供出し、第九師団経理部より受け取った収入金は軍人、遺族慰問資金に寄付された
また出征軍人に送る慰問袋の寄付金も集められた

■しかし中国との戦争が全面戦争を呈したことによって人々の生活を圧迫する作用も当然起こってくる

昭和12月9月
石川県は、各町村予算編成に厳しい注文をつけてきた。経費の徹底的節減である

珠洲地方の農民の伝統的な職場である酒造出稼ぎ業・杜氏にも暗い影をおとしはじめた
「酒造出稼ぎ業については、村は活動資金の補助を行い、絶えず技能の研究、智識の啓発に意を用い、職場擁護と開拓をしつつあり
しかれどもこれら労力利用の方途は、むしろ現・国策産業の一点にその国民労力を集結しようとする今日の労務体制に反する、、」


機械なしの酒造工程・【最終作業】上澄みを抜き取り火入れ【殺菌】

2021-09-20 07:20:05 | 日記
■澱引き(おりびき)
何日間か酒桶に静止しておいて
濁りかすが底に沈んで溜まるのを待ち、上澄みの部分を抜き取る
2回行う
1回目を一引
1週間経て2回目二引

できた清酒を酒桶に移して、しばらく保存する

蔵仕舞いして
従業員は一度帰郷

■酒の火入れ
間もなく杜氏以下数人が蔵へ来て
【酒の火入れ】を行う
酒を大釜に移して加熱
60℃が適温
時期は3月下旬~4月中旬が最適

純真な清酒でも、雑菌はあり酵母菌も生きたまま混ざっている
焦香(こげか)、日向香(ひなか)、不良木香などもあって腐酒を来すことがある
それを防ぐために火入れ作業を行う
火入れをしたら直ぐ蓋をして貯蔵
密閉封鎖

■以上が酒造蔵での作業であるが、各作業が複合してくるのは当然で、その頃は1日2時間睡眠で蔵仕事。それが100日余り休みなく続けられた。酒屋出稼ぎ人は杜氏を中心として団結し、滅多に不平を言わず働いた

機械なしの酒造工程・重い石でもろみを搾る〈今は機械で指一本〉

2021-09-20 06:45:01 | 日記
三段仕込みの三段目〈留作業〉の日から20日~24日で醪(もろみ)は熟成し搾る

この作業を
【槽(ふね)にのる】という
船頭が陣頭に立って、全員この作業をする

【槽】
長さ・9尺(270Cm)
幅・2尺(60Cm)
深さ・3尺(90Cm)
あて、銀杏、ひのき、等で頑丈に作られている

醪を槽の近くに据えた半切に運び
麻袋に杓子で計って入れ
まんべんなく、槽に積み込み
羽木の先に重さ10貫~30貫(100kg前後)位の石を、太い藁縄にからげたのを20~30個もつるして、その重みによって搾って清酒を取る
【現在は機械で指1本】

2昼夜で搾り切る
徹底的に搾った後は袋をむいて、酒粕を取り出す作業をする

搾った酒は、大酒桶に貯蔵
この間にもまだ発酵があるから
品質・風味に変化が生じる