元禄期は五代前田綱紀の治下にあり、加賀藩政の極盛期ともいうべき、栄光に充ちた時代だった
しかし、太平に慣れた侍たちの風気は荒廃していた
その侍たちの悪業の1つ
1690年高崎半九郎ら9人の侍は町人たちの取り持ちによって19人の遊女を集め売春宿を営んでいたのが発覚し、流刑その他の処刑をうけた
19人の遊女は、奥能登へ流刑
その条件
★百姓は彼女らを勝手次第に使役してよい
★適当な見受け百姓がいなければ、肝煎が預かる
★奥能登の両郡から出してはいけない
★生活費は村から支給する
★身分は「お預け遊女」で、非自由民
★結婚は許される。その際は流刑人の束縛から放される
珠洲郡の宗右衛門方に預けられていた遊女「けん」が、甚七に望まれて結婚したが、病気と称して宗右衛門方に戻り、強く甚七家に帰宅を即したところ逃亡してしまった
それでなくとも排他的気分の強い山中の農村生活は、彼女らには辛いものであった
蔑視と差別観につきまとわれながらも、付近の村民が用事にかこつけて見物に出かけるような人気をわきおこさせた娯楽の乏しい僻地農村
変化の乏しい農村に、時ならぬ桃色ムードを撒き散らした「お預け遊女」も、やがて時と共に色褪せ忘れられた。遊女たちのその後の消息は不明ななかで、鳳至郡の「さよ」は1743年7月に71歳をもって病死している