テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

死にゆく者への祈り

2012-07-14 23:23:30 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
ジャック・ヒギンズのハードボイルド小説です。
主人公のマーティン・ファロンは偶然自分に射撃の天賦の才があることを知り、IRAのテロ活動に加わることになった。後に無辜のスクールバスを誤爆したことを悔い、組織から離れようとするが、身にまとわりつく硝煙は消しようもなく、隠遁中にギャングに利用され、暗殺を行う羽目になる。その暗殺行為を、うらぶれた教会の神父に目撃されるが、一計を案じ、告解という形で神父の教義上の戒律を利用し他言を封じた。なおも神父の口を封じようとするギャングからも狙われ、神父の不幸にも盲目な姪とのふれあいを通じ、ファロンは自分の信義を再び取り戻し、全ての悪しきものから、神父、姪を守り、くずおれるように死んでゆく、というお話しです。
恐らくはヒギンズの最高傑作であり、あまりにもロマンチックな展開に目をつぶれば、人間の矜持を描いた数々の小説のなかでも、白眉の出来映えです。
暴走するIRA、暴力を行動原理とするギャング、そんな渦の中から、はかない善良さを救おうとする強固な決意に心をうたれます。

そういえば、初めて猿臂(えんび)という言葉を知ったのはこの本からでした。
ギャングのボスの弟、小汚い屑野郎が盲目の姪の乳房に猿臂をのばす、という情景があり、猿のように長い腕(もしくは肘)を余計に伸ばして不埒なことをする、とでもいう意味でしょうか。空手や相撲の世界ではそれなりに使われている言葉らしいのですが、この小説で目にするまで、知らない言葉でした。どちらにせよ、猿という語を含む成語には、あまりいい意味のものは少なく、外見や行動からなのでしょうか、矮小な人間の比喩として用いられる場合が多いような気がします。もっとも現代の社会では、猿にも劣るような人物(大津の教育委員会、教師、加害者とその親などがその好例)が、金や権力や地位を盾に、大きな顔をしているので、申し訳ないような気がするのですが。