輝ちゃんの9月19日 採血の結果が・・・
俺のかかりつけのドクターは猪狩先生。怖い先生。
γ-GTが41の測定値になった。2007年から採血し一番低い数値となった。
正直だな数値は。6月12日から酒を一滴も飲んでいない。
朝起きてのだるさが消えた。一日中襲ってくる不快感もなくなった。
腰痛を克服できれば・・・。
ゆっくりでいい でもあきらめるな
部屋の中を整理していたら紙袋が出てきた。以前、ホームルームで書いてもらった感想文だ。
読み始めたらきりがない。Uさんが昨日フェイスブックで入籍したと報告があった。
通信制高校の門をくぐってくる多くの人は何かを背負っている。
くぐってしまうと意外と話をしなくゆるい高校生活を送れる。
そんな中で、ちょっと違う袋を開けてみたらコピーが入っていた。
科学技術学園高等学校前校長飯田吉郎先生が31年前に書いた文章だ。
いやらしい貧しい表現で申し訳ないが、どーんと殴られた感じだ。
日本のどこかでこのような学びが営まれていることを期待して紹介しよう。
それでも灯は消えない
この一年間をふりかえってみて、通信制高校を悩ましている共通の課題は、高校中退者の転・編入学に、どう対応するかであろう。高校が国民的教育機関となった現在でも、学力についていけないものは、容赦なく切りすてていくという、今の高校教育のありようが変わらないかぎり、これからも中退生徒は増えていくだろう。また、これらの生徒の最後のとりでが通信制高校ということにもなる。私たちは、たえず通信制高校とはなにか、ということを問いつづけなければならぬ、一種の宿命のようなものを背負っている。
ある有名校の校長は、自己紹介のとき、こんな皮肉をまじえることがある。「私の学校は、東大の秀才から刑務所の受刑者まで、巾広い教育を行っている。」私は、この一片のことばからみても、通信制高校をあずかる校長は、いわばバケモノにも似た大物にちがいないと敬意を表することにしている。朝日新聞(十月二十日)は、「受刑者も高卒資格OK 千葉刑務所 通信教育の拡充図る」の記事をのせている。無期懲役など長期刑の受刑者を収容している千葉刑務所では、受刑者でも高校卒業の資格が取れるようにと、県教委に通信教育の拡充を要請しているという。教育の機会均等は、受刑者にも適用されるべきであろう。が、その実現のためには、これまでの通信制高校の形態では、不可能に近いだろう。一口にいえば、受刑者を対象とする新しい専門の通信制高校の誕生を必要としよう。多様化は、さまざまな方向に展開しつつあるかに見える。読売新聞(十月十八日)は、「大学受験のバイパス-----検定制度利用のすすめ」(土師政雄)の文章をのせている。東京の予備校・代々木ゼミナールでは、来年四月から、「大検コース」という新しいコースをもうけるという。高校からはみ出た人を対象として、文部省の大学受験資格検定試験で資格をとる指導をし、あわせて大学の受験勉強もしようというわけである。ある高校生は、「それ、いつできるの。オレ、今の高校やめて行きたい。」という。ある教育ママは、「子どもの大学受験を考えると、これは最も効率的で、新しいエリートコースになるんじゃないかしら!」と強い関心をしめしているという。通信制高校は、こうした状況の変化に、どう対応すべきなのか。私たちの課題は、果てしなく広がっていく宿命の輪のようなものを感じる。
通信制高校をつつむ周囲の、きびしい変化に驚いているとき、幸 長生「碩信讃歌」の一本は、私に限りないはげましを与えてくれたように思える。長い間、大分県立碩信高校で通信制教育に情熱を燃やしつづけてこられた、一人の校長の魂の歌ごえの軌跡に、私はたいへん感動した。「長い教師生活の中で、多くの生徒と共に泣き笑いながら歩んできたが、それぞれの教育の場で、感動のドラマが展開され、それぞれが心の糧として残るものである。…この『碩信讃歌』も、その中の一駒であり、私の終生忘れ得ない教師としての魂の記録でもある」(はじめに)という。
本書は、わずか四十ページの小冊子ではある。が、幸氏の通信制教育のおりおりの感動のもようが、短歌、漢詩などをとおして、みごとに構成されている。入学式より卒業式までの感動の歌ごえを、少し拾ってみよう。
わが夫 入学の朝 病にて
代りて座る 新妻のあり (入学式)
書きて消し 消しては書ける 筆跡の
にじみよごれし レポート着く朝 (レポート添削)
学窓に ひまわりのぞく 面接日
幼な児おきし 生態たくまし (面接日)
過去を生き 今をたくましく 生きにける
生徒らの語らい 我が指標となり (生活体験発表)
金と銀 メダル首に 帰りけり
白きラインに 青春の軌跡 (定通全国大会優勝)
はるばると 耐えて学びし 幾星霜
学びの道は 生命果つるまで (卒業式)
「碩信讃歌」に感動したあまり、その中から六首をぬき出してみた。が、この一本は、まことに通信制教育の実践の中から生まれた、珠玉の作品集であるといってよい。いわば通信制教育に惚れぬいた、一人の教師の感動の魂の記録である。単に自らの情熱を対象に注ぐのみではなく、その注いだ情熱が再び自分に回帰して、自らを通信制教育の魂の技師にまで形成していく、といった氏の精神のありように、私は感動する。
氏は、この本の終わりに「私の青少年の記」という一文を収めている。「一九四二年、物資欠乏のとき、広島の学校へ進学。その年、唯一人の母は他界した・・・・・・。一九四五年八月六日、動員先の造船所で、ピカドンの閃光を受け・・・・・・“ピカツ”の瞬間、海に飛び込んだ。キノコ雲、死の広島の街を、学友、恩師、下宿の家族を求めてのさまよい。黒焦げの死体が累々と川血に浮かぶ。その日の手帳に、「今日もなお 君の死場所が かわりつつ 頭を垂れて 相生橋渡る」の歌が記されている。八月十五日終戦。宮島の寮で心のきずなが断たれたようで、涙が出てしょうがなかった。その日の手帳に「稲妻や 夜空を迎え 目に涙」の句がある、という。
私には、この珠玉の作品「碩信讃歌」を生み出した根源に、原爆体験をくぐりぬけてきた人の、いわば現代のペスタロッチにも似た強い愛の精神がうずまいているように思える。これらのことが、氏の通信制教育への異常なまでの情熱を燃焼させていったのではないかと推測する。私は幸氏の「碩信讃歌」の中に、通信制教育の「それでも灯は消えない」夢と希望を見た思いがする。
(昭和五十八年十二月)