【連載】頑張れ!ニッポン②
海外出張で見た欧州の余裕
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
▲チューリッヒ郊外のバーデン
初めての海外出張はスイスへ
1970年代の後半、すなわち私が30代後半の頃である。同僚と二人で初めての海外出張をさせてもらった。半導体関係の人は20代からどんどん海外に行っていたので、私はかなり奥手だったのだろう。
私が働いていた会社は、米国のウエスティング社の他にスイスのBBC社ともパワー半導体に関して技術交流をしていた。BBCといっても、あの英国の放送局のことではない。スイスに本社を置くブラウン・ボベリという重電関係の会社のことである(今はABBというスウェーデンの会社に吸収されている。
出張先はというと、スイスのチューリッヒ郊外のバーデンにあるBBC社の工場だった。そんなわけで、チューリッヒに日曜日の午後に到着し、予約していた小さなホテルに転がり込んだ。
チェックインの後、フロントで教えてもらってバスで市内観光に出かけることにした。なにしろ初めての海外旅行である。滅多にない機会なので、時差ボケを物ともせず、同僚と夜のチューリッヒへと繰り出したのだ。まずマイクロバスで十数人の観光客と一緒に小さなナイトクラブのような所に連れていかれた。
ワインなどを飲みながらアルペンホルンの演奏に聴き入っていたのだが、やはり時差ボケが襲ってきたのか、猛烈な睡魔が……。もう目もトロントロンである。我慢できずに目を閉じた。しばらくすると、急に周りの雰囲気が変わったような気配が。
ふと目を開けると……金髪のストリッパーが一糸まとわぬ、あられもない姿で体をくねらしているではないか。なんだ、なんだ。ケシカラン! これは眠っている場合ではないぞ! 私は必死に目を見開いたものである。
工場は博士だらけ
翌朝、私たち二人を出迎えにBBC社の車がホテルにやってきた。その車に乗せられて工場に到着。10人ほどの技術者と名刺交換する。驚いたことに、全員の名刺に「ドクター」と書かれていた。その後、会う人会う人は、管理職を含めて全てドクターだった。どうやら同社では大学卒の技術者は皆ドクターのようである。
まったく日本とは違うではないか。少なくとも私が現役の頃は、博士号を持つ新入社員が入ってくることはきわめて稀だった。もっとも、仕事をしながら論文を書いて、どこかの大学から博士号を取得する人は結構いたが……。
日本では、大学の博士課程を修了して博士号を取得しても、専門を活かせる働き口を見つけるのに苦労する。高度な教育を受けた人の活躍場所が少ない、あるいは活かせないという話をよく耳にするが、技術分野での国際競争は激しくなる一方なのに、こんなことで大丈夫だろうかと思う。
▲BBC社の半導体試作ライン(当時パワーデバイスのラインはクリーンルームではなかった)。右端が筆者
BBC社の工場は、重電の工場らしい広大な敷地である。その一角にパワー半導体のラインがあった。昼食は、社員食堂の一角に設けられたゲスト用の部屋でとることに。食事中での会話で覚えているのは、こんな質問だった。
「日本の家は木と紙でできていると聞く。それは本当か?」
私から、こんな質問をした。
「趣味は何ですか?」
相手が答えた。
「乗馬です」
「………」
会話が途切れた。
いきなり乗馬と言われても、困ってしまう。文化や生活の違いを痛感したものである。
定時になると家路を急ぐ
食事を終わったのを見計らって目の前に箱が出された。蓋を開けると、葉巻がズラリと並んでいる。
「お好きなものをどうぞ」
乗馬の次が葉巻である。
私は取りあえず高そうなものを選んで口にくわえた。みんな思い思いに葉巻をくわえ、煙をくゆらせながら工場の敷地を悠々と横断した。私は今はやめているが、当時はタバコを吸う習慣があったのだ。
工場の会議室では、技術者が入れ代わり立ち代わりやって来て、双方の技術情報の交換に没頭した。夕方になったので、同僚と一息つくことに。ふと辺りを回り見まわすと、なんと誰も居なくなっていた。
日本では定時になってもダラダラとしてなかなか家に帰ろうとしない。が、こちらはまるで違う。その素早さに呆れて、思わず同僚と顔を合わせたものだ。
後年英国に出張した折、夕方のロンドン市内を歩いていると、みんな急ぎ足で地下鉄の駅へ向かっていた。何故あんなに急ぐのかと現地の人に聞くと、「みんな一刻も早く家に帰りたいのだ」と言う。日本は逆だ。朝の出勤時にみんな急ぎ足で職場へと向かうのである。
存在感があった日本だが…
スイスでの滞在は10日間ほどだった。後半はドイツのミュンヘンの工場を訪問する予定だったので、移動日の休日にジュネーブのレマン湖畔へ観光に出掛けた。湖畔の土産店に入ると、恰幅のいい金髪のおばさんが、
「いらっしゃいませ! どうぞ手に取って見てください!」
などと流暢な日本語で愛嬌を振りまいていた。
レマン湖で遊覧船に乗ったが、スピーカから早口の案内が英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語などで流れてくる。最後に日本語も流れて来たので、レマン湖畔にはハリウッドスターなど有名人の別荘が沢山あることが分かった。
さて、この出張を通して感じたことが二つある。一つは日本の存在感の大きさである。東洋人と見れば日本人と思うのだろう。レストランでは「ハラきり、ハラきり」と言われ、観光船のアナウンスでは日本語が流れる。土産店には日本語が流暢なスタッフがいる。
間違いなく彼らは日本人を観察しており、その存在を意識している!それだけ金を落としているという事だろうが。
もう一つ感じたことがある。当時ヨーロッパは経済が停滞していて元気がないと言われていた。確かにその通りの印象を受け、悠々と歩いている人々やきれいな街並みに活気を感じなか
った。
しかし、きれいな街並みと悠々と生活を楽しんでいる様子を見ると、豊かさと余裕を感じるのである。当時の日本経済は伸びていたが、みんなあくせくと働いており、豊かさや余裕とは無縁の生活をしていたように思う。少なくとも私はそうだった!
▲レマン湖を背にする筆者
BBCでは乗馬を趣味とし(たまたま会話した人だけかも知れないが)、葉巻を楽しむ(お客がいる時だけかも知れないが)、定時になったらサッサと帰宅する(これは毎日かも?)。
「サラリーマンにとって、どちらが幸せだろうか?」「日本の働き方は、このままで良いのか?」と、スイス出張から帰国後、しばらくの間考え続けたものである。45年以上経った今でも思い出すのは、余程強いインパクトを受けたからだろうか。
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)