【連載】頑張れ!ニッポン⑨
日本の環境がベンチャー企業を阻む
釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)
ベンチャー企業は日本では生まれにくいし、生まれても大きくなれないと言われている。実は私も半導体のベンチャー企業を支援する社団法人の手伝いをしていた事があるので、その辺の事情について多少は知っている。とは言っても、10年以上前のことなので、最新情報でない点はお許しを。ま、私の話は殆どそうだが……。
私の実感だと、日本でベンチャーがなかなか生まれない第一の要因は、起業精神に富んだ人間が米国などに比べて少ない事ではないかと思う。以前にも書いた通り米国の学生は卒業したら先ずは起業を目指し、それが叶わない時は企業等への就職を考える。教授も良いアイデアを持つ学生には起業を勧め、場合によっては学生と一緒に起業したりすることもある。
日本の学生は、公務員、企業などに就職し、組織の歯車になるとしても安定した生活を望む傾向が強いようだ。実は私もそのような道を選んだひとりなので、企業を目指す学生を批判的に言う資格は無いと思っている。但し、私の場合は60年も前の大昔のことなので、時代も社会も今とは全然違っていた事をご理解願いたい。
若くない起業家たち
さて、私が出会った半導体ベンチャーの起業家を見て先ず感じた事がある。彼らのほとんどが若くない。はっきり言うと、かなり年を食っているいるのだ。ベンチャーと言えば20~30代の若者が大きな夢を抱いて会社を起こすというイメージがあるが、私の経験ではそういう人に出会ったことは無かった。
実際には会社の中では自分のアイデアを実現できず、やむを得ず独立してそのアイデアを事業化したいと会社を立上げた人が多い。そのような経緯で起業した人は大体50歳前後になっており、サラリーマンとしての先行きがある程度見えてきた年齢でもある。
このまま会社で我慢するより、独立して自分の好きな事をやろうと決意するのだろう。しかし、現実は厳しく、会社設立当初は無収入の時期が続く事が多い。家族を抱えていたりすると、当面の、日々の生活の為の下請け業務に明け暮れている内に、目指していたアイデアの事業化が出来ないまま時間が過ぎてしまう。そして当初の目的を変えて設計請負業を続ける事になる。
失敗を許さない日本
ベンチャー企業を見ていて次に感じるのは、失敗は許されないという空気が存在する事だ。大げさに言えば、失敗を許さず失敗を恐れる文化が日本にはあるのではないだろうか。
先日テレビを見ていてつくづく感じたことがある。それはH3Aロケットの初号機が、打ち上後すぐに爆発してしまった後の記者会見の時の事だ。JAXAの責任者が打ち上げ経過の説明の中で、「打ち上げ時の貴重なデータが得られたので、今回の打ち上げには大きな意味があった」という趣旨の説明をした時、「何故失敗を認めないのか、そういうのを失敗と言うんです!」と詰め寄る記者が居た。
新しい事をやる時は失敗はつきものだ、そのリスクを取って新しい事にチャレンジしているのである。このテレビ放送から大分経ってから、今度は米国でのロケット打ち上げが報道された。
新しい方式のロケットが打ち上げ後に爆発したが、その時の記者会見で、責任者のイーロン・マスク氏(電気自動車世界1のテスラ社の創業者でもある)が、胸を張って言った。
「ロケットは目標の高さまで上がらなかったが、打ち上げ過程で多くのデータが得られた。今後につながる大きな成果だ」
ロケットが爆発してもその捉え方は日米でこうも違うのだ。
▲イーロン・マスク
▲火星移住を目指すイーロン・マスクの巨大ロケット
渡米し西海岸にある大学の教授になっている日本人から聞いた話だが、米国ではベンチャーを立ち上げた人は、たとえ失敗しても、そのチャレンジ精神を称えられ、尊敬すらされる。だから、再挑戦する機会がいくらでもあると聞いた。その教授の仲間が起業して何度も失敗したが、失敗する度に大きな家を購入したとも話していた。
俄かには信じられない話だが、シリコンバレーにはベンチャーキャピタルの会社が沢山あって、これはと見込んだスタートアップには出資する。その企業が倒産したら、ベンチャーキャピタルは出資金を失うが、起業した本人は損をしないのだ。家が建つかどうかは兎も角、再チャレンジの機会はありそうだ。
ベンチャー企業が破綻した時、米国ではチャレンジ精神を称えるが、日本では多くの借金を抱えて敗残者扱いで二度と立ち直れない。これでは日本でベンチャーなどやる人は出てこないだろう。
企業横断的なコミニティが必要
3番目に感じる事は、米国と比較すると、日本はベンチャーキャピタルが極めて少なく、出資額も桁違いに少ないという事だ。出資に当たって企業の実力や将来性を評価する能力を持っている人、いわゆる目利きの人も少ない。要するに起業に際して資金調達する為の環境が無いのである。仮にあったとしても、貧弱としか言いようがない。
4番目に感じる事は、スタートアップを立ち上げる為のコミニティの存在の重要さだ。シリコンバレーでは、会社間の人間の交流が多いと聞く。人材の流動性が高いのである。それは会社への忠誠心が薄い事の表れかも知れない。
そしてシリコンバレーの中には企業横断的なコミニティがあり、様々な人が情報を交換している。その中で何か新しいアイデアを基に事業をやろうという時に、そのアイデアの持ち主のもとに関連する分野の技術者や経理、営業、弁護士などの専門スキルを持った人達が集まってチームができあがる。
そして、その数名のチームがスタートアップを立ち上げる。日本にもこうしたコミニティをつくろうと努力している自治体はある。私が少し関係したことがある自治体では横浜市、北九州市、福岡県、熊本県などがある。
残念ながら、今のところ世間の注目を浴びるほどのベンチャーは半導体関係では出てきてないようだ。世界に発信できるベンチャー企業が現れて欲しいものだ。頑張れ、ニッポン!
【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】
昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)