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シリコンバレーの思い出 【連載】頑張れ!ニッポン⑥

2024-10-17 05:20:29 | 【連載】頑張れ!ニッポン

【連載】頑張れ!ニッポン⑥

シリコンバレーの思い出

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 

▲サンフランシスコの金門橋

 

販売会議でサニーベイルへ

 半導体を語る時シリコンバレーを抜きにしてはできないだろう。現状がどうなっているか報道されること以外は知らないが、1980年代後半から2000年になるまで度々訪問した時の事を述べてみたい。
 その頃は日本の半導体が急成長して世界の半導体の半分を生産するまでになり、1990年頃にピークアウトして凋落へと向かった時期である。もちろん当時はピークアウトしたとか、これから長期的に凋落するなどとは全く思っていなかった。
 シリコンバレーはサンフランシスコから南へ50~80キロのところの一帯を指すが、シリコンバレーと言う名の街がある訳ではない。その一帯の主な地名には、パロアルト、クパチーノ、サンノゼ、サンタクララ、サニーベイルなどがある。

 私が最初に訪れたのは、サニーベイルだった。私の勤めていた会社の米国法人が開催した半導体関連の販売会議に出席するためである。アメリカへ行くのは初めてで、ひどい時差ボケのため会議中にしきりにコックリをして顰蹙を買ったようだった。
 それはさておき、会議に出たついでに1週間程各地を回って半導体市場の調査をしたのだが、実は市場調査のついでに会議に出たというのが本当のところだ。そして、これをきっかけに、その後たびたび米国の市場調査をやるようになった。
 西海岸だけではなく、東部や中西部も現地の営業マン(アメリカ人)と一緒に顧客や日本企業の現地法人を回ったのである。当時はDRAM(パソコンのメインメモリとして使用)が最大の関心事で、お互い知り得た情報を交換した。もちろん社外秘事項には十分気を付けたのは言うまでもない。

アメリカのダイナミズムを感じた

 シリコンバレーで回った先を思い起こすと、HP(ヒューレットパッカード:現在パソコン出荷ではレノボに次いで世界第2)、サンマイクロ(ワークスステーションと呼ばれる中型コンピュータの大手)、アップル(パソコン、スマホiPhoneでおなじみ)、シスコシステムズ(ネットワークのルーターなどの会社)等々がある。
 さらに競合他社の現地法人NECアメリカ(ローズビル)、日立アメリカ(サンノゼ)などを訪問して諸々の意見交換をした(もちろん日本を発つときに予め訪問の許可を得ての事だが)。
 シリコンバレーは南北約30キロはあると思われる広大な地域に上述のような地区があり、そこに色々なハイテク企業が点在している。主なものでは、アップル、AMD(Advanced Micro Devices)、NVIDIA(エヌヴィディア)などの半導体会社が点在している。 
 ソフト関係の企業ではグーグル、フェイスブック、ヤフーなどがある。電気自動車で世界ナンバーワンのテスラもシリコンバレーに進出している。そしてパロアルトには米国屈指の名門スタンフォード大学があり、同大学の研究者によってシリコンバレーの礎が築かれたとも言われている。

 上述の企業の殆どは1960年代から1980年代に設立されたが、同時に多くのベンチャーキャピタルが活性化し、スタートアップを支えたという。よく知られているように、1956年にトランジスタの発明者の一人であるウイリアム・ショックレーが「ショックレー半導体研究所」を設立した。
 そこからスピンアウトした技術者により「フェアチャイルド」が設立され、さらにそこからスピンアウトした技術者が「インテル」を設立したという歴史がある。この歴史を見るにつけシリコンバレーあるいはアメリカのダイナミズムや大きなエネルギーを感じる。

 

▲シリコンバレーの案内図

 

▲シリコンバレーを支えるスタンフォード大学(パロアルト)

 

若者だらけのアップル本社

 クパチーノという所にあるアップル本社を訪問し、若い男女二人と今後の市場動向などについて意見交換した時のことだ。帰り際に「半年後にまた来るのでよろしく」という意味のことを言ったが、彼らは「その時まで私たちがこの会社に居たらね」と明るく言ったのが印象的で、人の流動性が高いのかなと思ったものだ。
 こちらが年を食っているせいもあるが、訪問先で会う人たちはみんな若く明るく活力に満ちている印象を受けた。当地の気候は大変良く、いつ行っても快晴で、照り付ける太陽の日差しは強いが、日陰に入ると涼しい。

 私のいた会社の現地法人の幹部は日本人だが、彼らと話をする際に「釜原さん外で話しません?」などと言って、事務所の外の階段の踊り場みたいなところに連れ出すのである。そしてそこで話しながら彼らは何本もタバコを吸うのだ。
 事務所内は禁煙なので私を外に連れ出し、自分たちはタバコを存分に吸うのである。その踊り場は日陰になっているので、夏でも寒いくらいだ。半袖の私は我慢しながら長々と続く話を聞かされたので、ケシカランとも思ったが、興味深い話も聴くことができた。

 現地ではEメールが導入された頃で(当時日本の私の事務所にはパソコンが課に一台あるかどうかという状態でEメールなど聞いたことも無い)、部下が本社海外事業部にメールして様々な報告をするので困っているとぼやいていた。
 思うに、本社の海外事業部では海外とのやり取り上必要に迫られてEメールを導入したのだろう。現地法人の幹部はタバコの煙を吐きながら言った。
「これから本社に送るEメールは必ず我々を通すようにさせる」

 シリコンバレーは気候も良く活気に満ちていてみんな楽しそうだった。治安が悪いなどの問題はあるだろうが、もっと若ければこういう所に住んで見たいなと思ったものである。当時、日本に帰るとバブルが弾けたせいか皆元気なく下を向いて歩いていた。

 

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)


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