【短期集中連載】
噛んで延ばそう健康寿命(中)
【油井香代子(ゆい・かよこ)さんのプロフィール】長野県生まれ。ゆい・かよこ香代子さんのプロフィール信州大学人文学部卒業後、明治大学大学院修士課程修了。医療・健康・女性問題について新聞や雑誌などに執筆する。また、テレビやラジオなどで医療問題を中心にコメントや解説も。2007年よりイー・ウーマン「働く人の円卓会議」議長。最近は、高齢社会の医療をテーマに寄稿、講演活動も行う。著書に「医療過誤で死ぬな」(小学館)、「あなたの歯医者さんは大丈夫か」(双葉社)など多数。
胃ろうが外せた
胃ろうで口から食べられなかった高齢者が、噛む治療と口腔リハビリで普通の食事ができるまでに回復した例もある。
神奈川県茅ケ崎市で開業する黒岩恭子・村田歯科医院院長は、寝たきりの高齢者や障害者を診療し、口腔・咽頭ケアや摂食嚥下機能を回復する口腔リハビリに30年近く取り組んできた。
その患者で、70代後半(当時)の男性Cさんは脳梗塞の後遺症で左半身が麻痺し、食べることも話すこともできなかった。ベッドに横たわるだけの日々。誤嚥性肺炎を繰り返していたこともあり、胃ろうとなり自宅で妻の介護を受けていた。
黒岩院長は歯科衛生士と共に週一度、患者宅を訪問。口腔ケアを行い、飲み込みの様子をチェックし、口の周囲の筋肉、舌、頬などを刺激する口腔リハビリを開始。食べる姿勢、食べ方、調理方法まで摂食嚥下に関わる生活上のきめ細かい指導も欠かさなかった。Cさんは半年後、少しずつ口から食べるようになり、1年後には胃ろうを外せるまでに回復、軟らかいご飯も食べられるようになった。
「噛む機能がよみがえるにつれ、Cさんは脱水症状や低栄養状態が改善され、意欲を取り戻していきました。体力もつき、呼吸機能のリハビリもできる理学療法士に歩行訓練を始めてもらいました」
リハビリとの相乗効果で、Cさんは日を追うごとに元気を取り戻していき、家の中を歩けるようになったという。
会話する力 再び
「噛む治療」により胃ろうから普通食となり、認知機能が回復した高齢女性を紹介しよう。
治療に携わったのは河原英雄・河原英雄歯科医院(福岡市)院長、岩崎貢士・いわさき歯科(埼玉県熊谷市)院長等、日本顎咬合学会の歯科医師たちだ。
埼玉県の有料老人ホームに入所している女性Dさん(87)は昨年、心不全で入所して胃ろうを造設、食べない生活が半年続いていた。その間に認知機能が低下し問いかけにも反応しない状態に。それが噛める入れ歯と、口の中を刺激し、口腔ケア、噛むリハビリで口から食べられるようになり、半年後には普通の食事を自分で食べるまでに回復した。
治療は医療費がかからず、患者への負担も少ない入れ歯の調整と摂食機能療法だ。まず、合わない入れ歯を河原さんが噛めるように調整し、岩崎さんらが口腔ケアや舌の運動などを行った。その日からDさんはリンゴの薄切りを前歯で噛むことができた。
「長い間噛んで食べなかったために咀嚼筋が衰えて使えなくなっていましたが、回復する可能性が十分ありました」と、当時の様子を岩崎さんは話す。翌週から訪問診療を開始し、口腔ケア、食べてのみ込むリハビリを実施。Dさんはゼリー、ヨーグルト、いなりずしと食べられる物が増え、半年後、朝昼は普通の食事を自分で食べるまでに。今年10月の診療時には周囲との会話も増え、減量が必要なほど体重が増えたという。
噛むことが脳を刺激、認知機能を回復させることが最近の研究で分かってきた。逆に認知症は噛む力が弱いほど発症リスクが高まる。歯を失って噛めなくなると、約2倍も認知症リスクが高まるという厚生労働省などの研究もある。噛むことは認知症予防でもある。
インフル予防に効果
健康寿命と噛む力には密接な関係があると述べてきたが、噛む能力を維持するため欠かせないのが口の中を清潔にする口腔ケアだ。
口腔ケアが高齢者の誤嚥性肺炎予防につながることは知られているが、インフルエンザ予防にも効果的であることも分かってきた。介護施設などでは、歯科衛生士による口腔ケアで発症率を激減させた例が報告され、学校での集団感染を減らす可能性もあるという。
2009年、東京都杉並区で実施された「歯みがき推進モデル校」での試みもその一つ。小学校2校で給食後に歯磨きをしたところ、そうでない学校と比べインフルエンザでの学級封鎖が減少した。
「子どもの頃から口の中を清潔にする習慣を身に付ければ、虫歯だけでなく風邪などの感染症予防にもつながります」。試みを推進した当時の同区歯科医師会会長の高橋英登・井荻歯科医院院長は話す。
「大切なのは継続して学校全体で取り組むこと。洗面設備の設置や改修、学校歯科医師による保護指導など、行政との密接な連携が必要不可欠です。毎年流行するインフルエンザ対策の一つとして、社会全体で取り組んでほしい」
子どもの歯磨きとインフルエンザ予防には、まだ明確な医学的根拠はないが、高橋院長の臨床経験からも、口腔内の状態が健康を左右し、時には高齢者の寿命にも直結するという。
「口腔ケアなどの歯科医療の充実は感染症や生活習慣病の予防になります。口腔ケアを加えた定期検診の実施で、膨張する医療費を抑えることにもなります」
厚生労働省は予防医療の推進をうたっているが、多くの人に浸しているとはいえない。杉並での試みのように医療現場の声を反映させれば、予防医療がより具体的に見えてくるのではないだろうか。
訪問診療で口腔ケア
口腔ケアとインフルエンザ予防の関係を紹介したが、高齢者の誤嚥性肺炎が口腔ケアで減少することは医学的に常識になりつつある。
その先駆けとなったのが1999年、権威ある英国の医学誌「ランセット」に発表された米山武義・米山歯科クリニック院長(静岡県駿東市)らの研究だ。歯科衛生士による専門的な口腔ケアを行うと、誤嚥性肺炎の発症が約40%減り、肺炎を発症しても軽くて済む上、死亡者数の減少にもつながったというものだ。
最近の医療・介護現場では、口腔ケアで誤嚥性肺炎を予防した例が多数報告されている。
「寝たきり状態の高齢者の中には、誤嚥性肺炎を繰り返す人が多い。訪問診療で歯科衛生士が口腔ケアをすると、その回数が半分以下になることが分かってきました」。東京都杉並区の高橋英登・井荻歯科医院院長は話す。
同医院の患者にも同様の傾向があるという。誤嚥性肺炎を繰り返していた90代の女性の場合、初診時には長期間入れ歯を外さず口の中が汚れていたが、歯科衛生士が訪問し、入れ歯の洗浄と口腔ケアをしたところ、誤嚥性肺炎が減少し、食欲が出て元気になったという。
誤嚥性肺炎は口の中の細菌が気管に入って起きる。口内の汚れに加え、飲み込む力が衰えることでいっそう起きやすくなる。口腔ケアと嚥下リハビリを組み合わせることで予防効果が高くなる。
「高齢者の死因のトップは肺炎ですが、うち誤嚥性肺炎が7割以上を占めるとされています。インフルエンザの死亡者もほとんどが高齢者であり、この二つを予防すれば、高齢者死亡を減らすことにつながります」
専門的な口腔ケアは患者にとって医療費も安く、手軽に受けられる感染症予防法といえよう。
家庭でできる口腔ケア
歯科医師や歯科衛生士による専門的な口腔ケアが、感染症や誤嚥性肺炎の予防につながる事例を紹介した。だが一般家庭で毎日、専門的なケアするのは難しい。
「週1回の訪問診療時に、歯科医師などから口腔ケアの方法を教えてもらいましょう。間違えると汚れを十分落とせない上、口内を傷つ嫌がられたり、誤嚥を誘発します」。
障害者や高齢者の口腔ケアに長年取り組んできた黒岩恭子・村田歯科医院院長(神奈川・茅ヶ崎市)は、こう話す。
「噛んで飲みこむ能力が低下している人は、ブラッシングで口腔内の清掃を行い、舌や頬の内側、上顎、口の奥の咽頭を清掃し刺激して、飲み込む(嚥下)力を引き出すことが大切です」
口腔ケアは食後に3回行うのが基本だが、嚥下機能が衰えた人は食前に行うと効果的という。具体的には頬をもむ、上顎や頬の内側に指を入れてマッサージする、軟らかい歯ブラシで歯茎や頬の内側をなでる、舌をスプーンなどでマッサージなど。食前に唇や口内を刺激すれば、嚥下反射が改善して誤嚥の予防につながるそうだ。
「忘れてはならないのが口腔内の乾燥対策。高齢になると唾液の分泌が減ってきます。口の中が乾燥すると飲み込みにくく、むせやすく誤嚥になりやすい。食前に唾液腺をマッサージして唾液の分泌を促し、必要なら保湿剤を口内に塗り潤いを補うと良いでしょう」
唾液腺は耳の下(耳下腺)、下顎(顎下腺)、舌の裏(舌下腺)の3か所にある。マッサージの方法は歯科医師らの指導で行うことが大切だ。自宅できる基本的な口腔ケアやリハビリを家族やヘルパーが毎日担い、それを歯科医師がチェックして専門的なケアや治療を行う。この積み重ねが症状の改善や誤嚥・感染症予防になり、介護負担の軽減につながる。
医師や歯科医師だけでなく、理学療法士や言語療法士など複数の医療職によるチーム医療で大きな効果が出ます。胃ろうやチューブで栄養を摂るしかない患者さんが、口から食べる治療により胃ろうが外れ、元気になっていく可能性は高いのです」と黒岩院長は話す。(つづく)