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ゲバラ家の人たち 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑮

2023-07-29 05:23:22 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑮

ゲバラ家の人たち

プエブラ(メキシコ)

 

 

 私と妻は、ホームステイ先のGuevara(ゲバラ)家の親戚の女の子Teresa(テレサ)の7歳の初聖体拝領式に招待された。いつも明るいテレサはとても緊張している様子だったが、場違いな仏教徒の私たちも同じくらい緊張していた。
 カトリックでは、1歳頃に洗礼式を行い、7歳から9歳頃にprimera comunión (プリメラ・コムニオン)と呼ばれる初聖体拝領式を行う。カトリック教徒としての自覚を持てるようになり、正式に自分の意志でカトリック教徒になるための儀式だ。
 聖体拝領式では、キリストの心と一体になる為、神父からキリストの身体を表すhostia(オスティア)と呼ばれる薄焼きのパンが参加者に与えられる。

 厳粛な儀式の後は、家族、親族、友人が一同に会し、お祝いのFiesta(パーティー)を行うのが習わしだ。そのパーティーの様子は、前回紹介したインディヘナの友人フアンの家とはあまりにかけ離れた光景である。
 現在のメキシコがどう変わったか知らないけれど、1979年当時は、中産階級とインディヘナはお互いにすむ世界が違うのだということを皆が自然に受け入れ、お互いに干渉せず、違和感なく生活していたようだった。
 インディヘナは先住民としての誇りを胸に秘めながらも、貧しい境遇を定めと受け入れ、ほとんどのメスティソや白人達は、インディヘナの境遇に関心がなかったように感じられた。


▲ 聖体拝領式の後のフィエスタ(パーティー)。ティアラをつけているのがテレサ


 ゲバラ家の主、フアンカルロスは、街一番のスポーツクラブ Club Alpha 2の支配人をしており、地元の名士の一人だった。彼はジョークが大好きで、テキーラやラム酒で酔っ払うといつもみんなを笑わせてくれた。彼のお得意は、蚊のジョークだ。
 うるさく顔の前を飛び回る蚊を捕まえて、両手の平で作った空洞に閉じ込めた想定で、ブーンッと息を吹き入れながら、「どうだ、この野郎! どれだけ鬱陶しいか思い知ったか!」というやつだ。
 私はこのジョークが大好きで、何度か真似して友達に披露してみたことがある。残念ながら、期待するほど受けたことはなかった。やはりフアンカルロスの演技力には脱帽するしかない。あたかも手の平の中の蚊が「チクショウ! 何なんだよ、このくそオヤジ!」と毒づく様子が目に浮かぶからだ。
 セニョーラのカルメンは、フアンカルロスとは正反対の控えめで穏やかな人である。慈善活動にも熱心だった。長女のカルメンマリアはその頃、銀行員と婚約中で、幸せの真っ只中だった。「チャーリー」の愛称で呼ばれている長男のカルロスはというと、明るくて、アメリカかぶれのお調子者。そうだ、雌のダルメシアン(大型犬)のレイナもいた。

 ゲバラ家は家族全員が友達のような、とても幸せそうな一家だった。私たちに、まるで家族の一員のように接してくれた。プエブラで、実り多い生活ができたのは、彼らのおかげである。私たちには、花壇、サッカーグラウンド、そしてプールを見下ろす申し分のない部屋をあてがってくれた。

 余談だが、メキシコには当初、私一人で渡った。プエブラで最初にお世話になったのは、街外れの小さな家である。6畳に満たない、窓のない部屋だった。小さな天窓があることはあったが、何しろ私は閉所恐怖症である。閉塞感に耐えきれず、数日で音を上げた。
 母子家庭の親子には申し訳なかったが、メキシコ側の留学生受け入れ機関に、事情を説明し、他の受け入れ家庭を紹介して欲しいと泣きついた。しかし、返ってきたのは「そんなことはできない」という冷たい返事。
 その環境では、暮らしていくのは無理だろうと確信した私は、できたばかりの友人のネットワークを総動員して引っ越し先を必死で探した。その結果、巡り会えたのが、ゲバラ家だった。私は幸運に感謝したものである。
 
 あれから45年―。
 フアンカルロスは心臓麻痺で亡くなり、カルメンも病気で他界した。カルメンマリアは銀行員と結婚し、幸せな家庭を築いたらしい。ロサンゼルスに移住した「チャーリー」は、実業家として成功していると聞く。今でも無性に彼らに会いたくなる。

 

▲ 左からチャーリー、フアンカルロス、カルメン、筆者、妻の若菜、カルメンマリア

▲フアンカルロス家の庭で日曜日のランチ

 

 

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


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