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私の台湾物語③ なぜ熱血教師6人は惨殺されたのか

2021-05-31 06:53:50 | 【連載】私の台湾物語

《新連載(短期集中/毎週火曜日)

私の台湾物語③

なぜ熱血教師6人は惨殺されたのか

 

下高原 洋(漁業コンサルタント)

 

 

台湾に赴任した伊沢修二と7人の熱血教師

 渡台した菊次郎と時を同じころ、台湾教育を語る上で、忘れてならない人物がいる。近代日本の音楽の祖であり、頌歌「仰げば尊し」を作曲したと言われる伊沢修二だ。なんと、この「仰げば尊し」は、今でも台湾の卒業式で歌われ続けているというではないか。

 当時文部省の学務部長心得だった伊沢は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「教育こそ最優先すべき」と説き、日本全国から集めた優秀な教師を引き連れて台湾へ渡った。その教師たちの氏名を列記しよう。山田耕三、揖取道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の7名である。

 明治 28(1895)年6月、伊沢修二と7名の教師によって、当時は芝山厳と呼ばれた緑豊かな小高い丘に、台湾初の日本語教育学校が設立された。その跡地は今、台湾を旅行したことのある日本人なら、必ずと言っていいほど訪れる故宮博物院と士林夜市からほど近い。現在は芝山公園と呼ばれる地域にある。

 さて、台湾に足を踏み入れた教師たちは、学校用地として、芝山厳恵西宮(道教の廟)の一部を借りたので、学校は「芝山巌学堂」と命名された。しかし、学校を開校したものの、日本人がつくった学校を警戒していたのか、誰も自分たちの子供を入学させようとは思わない。弱りはてた伊沢は地元の有力者を集めて説得にかかった。

「自分たちがここに来たのは戦争をするためでも、スパイをするためでもない。台湾人を日本の良民とするための教育をするためです」

 月謝をとるどころか、逆にお金を払って学校に来させることもあったという。こうして6人の生徒がようやく集まる。10 代後半から 20 代前半の若者たちだ。やがて教師たちの熱血溢れる指導が周辺住人に伝わった。やがて生徒数が21人に増えたので、甲・乙・丙の3組に分けて授業を行うまでになる。

「台湾は植民地ではなく日本の新たな領土である」

 そんな考えを持つ伊沢は、日本人と台湾人が相互に理解し合い、共に学ぶことを理想としていた。当時、アジア・アフリカを植民地支配していたヨーロッパ列強が現地で行った教育とはまったく違っていたのである。だから、日本人教師と台湾人生徒が寝食を共にすることもあった。

 しかし、この年の暮れになると、再び台北で治安が悪化した。日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発したのである。日本人教師たちの身の危険を案じた周辺住人は、

「ここにいると危ないから、どこかに避難してください」

 と勧めた。しかし、教師たちは平然として答えた。

「私たちは武器を持っていない。何も持たずに民衆の中に入って行かなければ、教育というものはできない。もし私たちが襲われて死ぬことがあっても、それは台湾の生徒や人々に日本国民としての精神を具体的に見せることになるでしょう」

 教育に命を懸けていると言われると、住民たちは説得を諦めるしかなかった。その頃、台湾に出征中の北白川能久親王がマラリアに罹り、台南で死去する。それに伴い伊沢と教師の一人である山田耕造が親王の棺とともに日本本土に一時帰国していた。そうした中、あってはならない惨劇が起こる。

6人の教師が惨殺された芝山厳事件

 明治 29(1896)年1月1日、6人の教師と用務員の小林清吉が元旦の拝賀式に参列するため、生徒を引き連れて船着場にたどり着く。ところが、前日からの匪賊騒ぎで船が1隻も見当たらない。どうしたものかと思案していると、運悪く船着場に抗日匪賊の集団と遭遇する。その数は 100 人はいただろうか。

 理想に燃えて度胸の据わった教師たちである。匪賊たちに教育の重要性を熱っぽく説諭した。しかし、そんな理想論を聞くような匪賊ではない。教師たちは説得を諦めた。

「拝賀式に出席するのは無理だな。今日は君たちは家に帰りなさい」

 そう生徒たちに言って芝山巌に戻ろうとした。生徒たちは芝山厳学堂も狙われて危険なので避難するよう教師たちに懇願するが、教師たちは「死して余栄あり、実に死に甲斐ありと」と受け入れず、芝山厳学堂に戻った。悲劇が待ち受けているのも知らずに。          

 教師たちが再び芝山巌を下山しようとしたときだ。船着場で遭遇した匪賊たちが待ち伏せていた。血に飢えた彼らは、蛮刀を振りかざして教師たちに襲い掛かる。抵抗する暇もなかった。瞬く間に一面が血の海である。

 用務員の小林を含む7人全員が惨殺されてしまう。6人の首は切り取られていた。残りの一人は遺体そのものも見つからなかったという。そればかりか、着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。

 なぜ、このようなおぞましい 惨劇が起きたのか。

「日本人の首を取ったら賞金が貰えるぞ」

 そんな流言を信じて襲撃を仕掛けたと言われている。このショッキングな事件は「芝山厳事件」と呼ばれ、台湾の日本人社会を戦慄させたのは言うまでもない。もちろん、日本政府も事件を重大視した。殺害された教師たちの葬儀が厳粛に執り行われる。

 しかし、この事件で芝山巌学堂が閉鎖されることはなかった。殉職した教師たちの意志を引き継ぎ、3カ月後に授業が再開されたのだ。

 6人の教師たちの教育への情熱は、単なる「熱血教師」で終わるものではなかった。台湾人の若者を命を懸けて教育するという犠牲的精神が「芝山巌精神」と言われて台湾人の心の中に刻まれる。こうして6人の教師は台湾で「六氏先生」と呼ばれるようになった。

 この「芝山巌精神」は当時の日本人教育者に大きな影響を与えたようである。日本国内では「彼ら6人に続け!」と多くの人材が台湾教育の現場に志願した。さらに台湾人からも芝山厳学堂の教育者を目指すものが多く現れたという。

 昭和5(1930)には「芝山巌神社」が創建され、3年間で台湾教育に殉じた人々が台湾人教育者 24 人を含む 330 人も祀られている。境内には六氏先生を合葬する墓があり、社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」が建てられた。

 事件のあった年に建てられ碑の前では毎年2月1日に慰霊祭が執り行われた。芝山巌学堂こそ、戦前の台湾で「台湾教育の聖地」と称され、教育に携わる者なら必ず訪れたものである。

 ちなみに日本の台湾統治直後、総人口の 0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は昭和 18(1943)頃には、なんと 70%にもなったというから驚く。また終戦時には識字率が92.5%になっている。

 当時の教育水準の高さには目を見張るしかない。戦後の台湾が驚異的な経済発展を遂げた理由も、日本人教師たちが全身全霊を込めて台湾人に教育を施したことに求められるのではないだろうか。

 植民地の住民にまともな教育を施すどころか、その地の資源で莫大な富を得るなど搾取の対象としか見ず、住民を労働力として酷使し、奴隷扱いした欧米列強とは大きな違いである。

殺された一人の父親は『花燃ゆ』の主人公

 ところで、「六氏先生」の一人に、39歳の若さでこの世を去った楫取道明がいた。父親は、あの私塾「松下村塾」を多くの若者に思想的影響を与えた吉田松陰の親友だった楫取素彦である。

 幕末の歴史に詳しくなくても、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公で、俳優の大沢たかおが演じていたと言えばお分かりいただけるかもしれない。

 楫取素彦は松陰投獄後、松下村塾を支え、維新の志士たちの参謀役となった。明治新政府では、初代の群馬県令(知事)として勇名をはせる。

 この素彦のプライベートも興味深い。というか、少しばかり複雑である。素彦は当初、松陰の妹と結婚した。『花燃ゆ』では文(ふみ)が妻として登場するが、文は2番目の妻である。

 最初の妻は文の姉、寿(ひさ)だ。この寿との間に次男の道明を授かった。だが、寿が病死したが、悲しみに暮れる暇もない。群馬県令として多忙な日々を送っていたからだ。そして明治 16(1883)年、素彦は文と再婚する。

 一方、道明は父親・素彦や伯父・松陰の後を継ぐかのように教育者の道を進む。日本の領土となった台湾に道明の関心が向く。

「そうだ、現地で若者たちを教育しよう!」

 そんな希望をするために台湾に渡ったのだが、一命を落とす。志半ばだった。

 もう一つ、楫取素彦の子孫にまつわる話を付け加えよう。台湾に大きく関わる人物がいた。元大蔵官僚で、拓殖大学第16代総長も務めた小田村四郎氏である。道明の兄、希家(小田村家を継ぐ)の曾孫だ。小田村氏は「日本李登輝友の会」の会長、そして名誉会長として、平成29(2017)年に94歳で死去するまで日本と台湾の友好に務めた。何とも台湾と縁の深い一族ではないか。

日本時代の教育を懐かしむ老ガイド

 今から7年前、私は「六氏先生の墓」のある芝山公園を訪れた。すぐに私が日本人だとわかったのか、

「六氏先生は台湾の恩人だよ」

 と、たどたどしい日本語で私に話しかけてきた老人がいた。ボランティア・ガイドの唐さんである。唐さんは当時、82 歳。六氏先生の墓を訪れる観光客に公園の歴史を伝えていた。

 唐さんがズボンの後ろポケットから一枚の紙を取り出す。その紙には日本語の手書きの文章がつづられている。しゃべりたいことをまとめていたのだろう、声を出して読み上げ始めた。

「明治 28 年、すなわち 1895 年の下関条約の後に日本から渡ってきた先生、今の士林恵済宮で臨時教室を設けた」

 唐さんがつづける。 

「当時の台湾人の生活はとても苦しかった。勉強に行く時間がない。そんなわけで六氏先生が相談して、自分が貰った給料を一部出して生徒に施した。後で悪い噂が飛んできた。先生を殺す、と。これは生徒たちの報告でした。先生の答えは教育のためなら、命を犠牲にしても甲斐があると、逃げる必要がない、この偉大な精神は永遠にこの世に刻む、後に日本政府は教育の神は全島にまく決心があった。六氏先生は大和魂のこもった尊い神様でございます。皆様、都合があえば参拝してください、ありがとうございました」

 唐さんは日本が先の大戦で負けたことが残念でならない。日本がいなくなった後、大陸から中国人がまるで土足で座敷に上がるかのように台湾に入ってきたからだ。そして、日本の冷たい仕打ちにも怒りを隠さない。

 唐さんの語る場面がユーチューブでも紹介されている。私の記憶も若いときのように鮮明に憶えているわけではないが、だいだいユーチューブで話している内容とほぼ同じだと思うので、この動画から唐さんの語った言葉をいくつか紹介しよう。

「日本人負けて帰ってしまった。台湾人、沢山、支那に殺された。可哀想だよ」「もし戦争勝ったら、台湾まだ日本だった、そうだろ?」「台湾人、昔の日本精神教育受けている。僕も同じだよ」「最初勝っていた。欲張って負けた」「日本の教育悪くない」

 そして、唐さんは明治天皇の御製「新高の山のふもとの民草も茂りまさると聞くぞうれしき」に触れる。台湾の新高山は、富士山を抜いて日本で一番高い山だった。台湾を日本が統治していたからである。

「これ本当か嘘か判らないけど、嬉しい。天皇が国民の生活を喜ぶ、いいね」

 明治天皇の和歌に素直に感動する唐さん。さらに戦前・戦中に受けた日本の教育を懐かしむ。

「昔の教育はとても上手、今と違う。『父母の恩は山よりも高く海よりも深し』ですよ」

 今も健在だと、89歳か90歳になっているだろう。私が会ったとき、唐さんの話を聞いていると、まるで父や祖父の語りのように、私の心に響いたものである。

『教育勅語』を今も暗唱する老婦人

 ちなみに、大東亜戦争で日本人として戦った台湾人は 20 万人に及ぶ。

「私は日本のために、そして私の国のために戦った」という元台湾少年工の話を聞く機会があった。その人は、生活のために学校を途中で断念し、日本本土で少年工として働くことになる。

 日本人の先生から5円を「黙って受け取れ」と手渡されたという。当時の5円といえば大金である。日本に渡って、神奈川県の高座海軍工廠で戦闘機「雷電」の整備をすることに。

 技術を覚えながら勉強も。忙しくて、厳しい日々が続く。それでも悪い印象は残っていない。間もなくして終戦。台湾に戻ったが、日本で受けた教育のおかげで今日まで頑張れたという。

 他にも 70 年以上も前に教わった「教育勅語」を暗唱し、「茶道、華道、武道、精神、私は身につけた」と話す老婦人。「私は日本人です。今の若い日本人より日本人ですよ」

「日本の精神教育は日本が台湾に残した財産だよ」

 このように、日本統治時代を過ごした沢山の台湾人に出会う。それが台湾である。戦後日本人が忘れてしまった、あるいはなくしてしまった本当の日本が台湾にはある。机上で学ぶ歴史や知識ではなく、日本人の心と身体の奥深くに眠るDNAのようなものを呼び起こしてくれる国が、私が愛して止まない台湾なのである。

 しかし、長期間続いた国民党政権下の台湾は「反日教育」が行われた事実を忘れてはならない。日本の敗戦後、中国国民党が台湾の支配者となった。それから4年後、国共内戦に敗れた蒋介石率いる国民党軍が台湾に大挙して押し寄せ、日本色を一掃することに着手したのである。

 六氏先生の墓や 1936 年に建てられた「軍夫小林清吉君之碑」を撤去し、芝山巌神社も徹底的に破壊した。同神社の本殿があった場所には、蒋介石の側近である戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられる。

 戴笠といえば、国民党軍統局副局長として暗躍したスパイの頭目ではないか。神社の隣にある恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀ることにした。

 1958年になると、「芝山巌事件碑記」という碑が設置される。その碑には、日本人を襲った匪賊は「義民」に、惨殺された教師はまるで「侵略者の手先」のように記されているではないか。あろうことか、芝山厳は「反日」教育の場として利用されるようになったのである。

 歴史を歪めた「反日」碑は、今も建つ。雨農閲覧室では、抗日運動の成果の一つとして芝山巌事件を紹介する展示などが行われてきた。そんな「反日」の動きを止める出来事が起きる。台湾人の李登輝が中華民国総統に就任したのだ。

 京都帝国大学で教育を受けた李登輝は、すみやかに「台湾民主化」に乗り出す。状況は変わった。芝山巌学堂が開かれて 100 年後の 1995 年1月1日、芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学校の卒業生によって「六氏先生の墓」が芝山公園に再建されたのだ。さらに5年後の 2000 年には「学務官僚遭難之碑」も復元された。

 有難いことに、今も地元のボランティアが「六氏先生の墓」を守っている。次回は国民党政権下での台湾人の苦悩に触れてみたい。(つづく)


【下高原洋(しもたかはら ひろし)さんのプロフィール】
 昭和28(1953)年、横浜市生まれ。日本大学付属の中・高校から日本大学入学。大学では、あの強豪のアメフト部(日大フェニックス)に所属した。25歳のとき、川崎市北部中央市場の開場に伴って独立する友人と水産仲卸を起業する。事業所を6市場に拡大して役員に就任、量販店(スーパーマーケツト)、飲食店(寿司・中華・喫茶甘味処等)を手掛けた。また出向でヒラメ養殖場、公園墓地販売、観光歴史館、ホテル・旅館の再生事業に携わる。鮪一船買い(獲れた鮪を全部買う)の会社代表に就任。その後、給食会社や銀行寮の食堂長などを経て、日本遠洋鰹鮪漁業協同組合連合会に就職した。鮪船向けの餌料買い付けと販売、船員派遣などの業務に就いた後、南アフリカのケープタウンに8年間単身赴任するが、同連合会の解散で退職する。退職後は全国漁業協同組合連合会に就職して業界NPOに出向し、水産庁の助成事業と東日本大震災の復興支援事業に従事し、令和元(2019)年に退職。同年、南アフリカのケープタウンに短期移住を決行したが、新型コロナの蔓延により半年で帰国、現在に至る。白井市南山在住。

 

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