《新連載(短期集中/毎週火曜日)》
私の台湾物語②
それは西郷隆盛から始まった
下高原 洋(漁業コンサルタント)
▲西郷菊次郎
「西郷堤防」を造った菊次郎とは
台北の東約 60 キロのところに宜蘭県がある。高速道路を使うなら、車で 30 分ほどで着く。その宜蘭県に広がる宜蘭平野は、温泉や肥沃な土壌と豊かな水、農産物に恵まれた風光明媚なところである。台湾の理想郷と称されるほどだ。
そんな理想郷も昔は違った。台湾は台風の多いことでも知られているが、台風シーズンにもなると、宜蘭河が氾濫して大きな被害を出していた。水害だけではない。その都度、疫病も蔓延していたのである。
その惨状から住民を救おうと、堤防を築いた日本人がいた。明治 30(1897)年から同 35(1902)年の間、宜蘭庁長を務めた西郷菊次郎である。艱難辛苦の計画承認から明治 33(1900)年に着工し、翌年9月に竣工した。たった1年5カ月の工期で宜蘭河堤防が完成したのだ。
3年後には第2期工事が完成し、宜蘭の街は強固な堤防に守られ、安心して生活できる環境が整った。この堤防が出来たおかげで、長年悩まされてきた洪水から宜蘭河周辺の住民は解放されたのである。
▲当時の絵葉書にもなった「西郷堤防」
堤防は、西郷菊次郎の名をとって、「西郷堤防」と呼ばれた。西郷といえば、日本人なら誰でも幕末の英雄、西郷隆盛の名前が浮かぶだろう。しかし、台湾人が「西郷」と聞いて思い浮かべる人物は、けっして隆盛ではなく、菊次郎なのだそうだ。
しかも、驚くことに菊次郎は隆盛の実子だったというではないか。それも長男というから、さらに驚いた私である。そんな面白い話を知ってしまうと、もう居ても立ってもいられない。西郷堤防を見てみたいと思い、台湾の友人と宜蘭を訪れることにした。
宜蘭駅から文昌路をまっすぐ宜蘭河方面へ歩いて20分くらいの所に「西郷憲徳政碑」があった。宜蘭河沿いの中山橋(西門橋)のそばである。その堤防はけっして過去の遺物ではなかった。
現在も、宜蘭河流域の住民をしっかりと守っていたのである。菊次郎の偉功は今でも、語り継がれていた。しかし、よほどのもの好きか、台湾史か西郷一族に興味を示す研究者でない限り、日本人観光客はほとんど来ない。
さて、堤防の完成で長年悩まされてきた洪水から解放された宜蘭の住民たちが感激したのは言うまでもない。住民有志が記念する石碑を建てることにした。明治 38(1905)年、「西郷憲徳政碑」と刻んだ石碑を堤防近くに設置して菊次郎を顕彰したのである。
それだけでは終わらない。大正12(1923)年に、菊次郎の名前を取って「西郷堤防」と命名されると、宜蘭の人士により大きな石碑が建てられた。この上に最初につくられた石碑を載せて中山橋の西側に設置をしたのである。
しかし、昭和20(1945)年の日本の敗戦によって日本人は台湾から去り、大陸から国民党軍がやって来た。その4年後、国共内乱で国民党軍が毛沢東率いる中国共産党軍に敗北する。
逃げ場を求めた国民党軍の残党とその家族約200万人が台湾に雪崩れ込む。こうして台湾は国民党に実質的に支配されることになった。
この戦後の混乱によって顕彰碑の存在が分からなくなっていたが、1990 年に発見される。そして、宜蘭県文化局により中山橋横の堤防上に移築され、現在も菊次郎の徳政を後世に伝え続けているのだ。
それにしても、戦後の日本人は台湾で功績を残した西郷菊次郎のことを、あまりにも知らなさすぎる。日本統治時代の台湾で巨大な烏山頭ダムと灌漑用水路を建設し、不毛の土地を穀倉地帯に変えた八田與一は有名だが、もう一人、こんな素晴らしい日本人がいたことを、私たちの子供や孫たちに伝えるべきではないのか。
では、西郷菊次郎とは一体どんな人物だったのか、しばらくお付き合い願いたい。
西南戦争で片足を失い米国留学
西郷菊次郎は、西郷隆盛の長男として奄美大島で生まれた。万延2年(1860)のことである。このとき父親の隆盛は 35 歳だったが、初めての子だった。母親は愛加那という名の島の女性である。
どうして西郷隆盛は奄美に流れてきたのか。そのいきさつをご存じでない人もいるだろうから、ごく簡単に説明しておく。
西郷隆盛は文政 10(1828)年、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で下級藩士の長男として生まれた。島津斉彬が薩摩藩主になった2年後の嘉永6(1853)年、ペリーが「黒船」で浦賀に来航したことで日本はてんやわんやの大騒動に。このとき起こったのが攘夷論争である。
その翌年、西郷は斉彬の江戸参勤に伴って江戸に赴く。「御庭方役」となった隆盛であるが、開明派の斉彬から影響を受け、藤田東湖にも会って国事を深く考えるようになる。
安政5(1858)年、大老となった彦根藩主の井伊直弼らが勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、さらに紀州藩主の徳川慶福(のちの14代家茂)を次期将軍にすることを画策した。
これに対する徳川慶喜を推す一橋派や水戸藩との間に政争が勃発するが、井伊らが強硬手段に出て、反対派の大名、公卿、幕臣、そして諸藩士らを粛清した。これが世にいう「安政の大獄」である。
薩摩に戻っていた島津斉彬は、鹿児島城下の天保山で薩摩軍の軍事訓練を行う。江戸に攻め入ろうとしていたという説もあるが、なぜか斉彬が急死してしまう。幕府から追われる身となった勤王派の僧侶である月照を西郷隆盛は薩摩藩で保護しようとする。
しかし、斉彬亡き後、藩の実権は斉彬の父・斉興が握っていた。幕府に忖度する斉興は、月照を保護するどころか、西郷に「始末しろ」と命じる。藩の変心に西郷が絶望したのは言うまでもない。
こうして西郷が月照と真冬の錦江湾で入水自殺をはかった。月照は死んだが、西郷は息を吹き返す。そんなわけで、西郷は奄美大島に渡って潜伏生活を送ることになった。「菊池源吾」と名乗って。
西郷はすでに結婚していたが、島では愛加奈を「妻」として迎え、菊次郎を授かる。長男の菊次郎が9歳になったとき、大久保利通が薩摩藩に進言したことで、西郷が島から呼び戻されることに。
ところが、島に戻るには問題があった。薩摩藩では、鹿児島本土以外で娶った妻を本土に連れ帰ることは禁じる規則があったのだ。仕方がない。西郷は愛加奈を島に残し、菊次郎を連れて鹿児島に戻る。
西郷はどうも教育熱心だったようだ。菊次郎が 12 歳のとき、アメリカに留学させたのである。西郷の意外な一面だろう。
2年半の留学を終えて帰国した菊次郎を待っていたのは、西南戦争だった。菊次郎も薩軍の一員としてに参戦する。17 歳のときだった。戦闘中、菊次郎は右足に激痛を感じる。政府軍の銃弾を受けたのだ。負傷した菊次郎は政府軍に投降する。右足は膝から下を切断するしかなかった。
奇しくも政府軍を指揮していたのは、叔父の西郷従道だった。そう、隆盛の弟である。この戦争で西郷隆盛は戦死する。片足を失くして義足をつけた菊次郎。障害者となりながらも、周囲に心優しく接し、心を強く持つ。
▲菊次郎の叔父、西郷従道
そんな菊次郎を、叔父の西郷従道は何かと面倒をみる。「せっかくアメリカに留学したのだから、外交官はどうだろう」と外務省入りを勧めた。23 歳の菊次郎も乗り気である。
▲菊次郎が学んだジョンズ・ホプキンス大学
こうして晴れて外交官となった菊次郎は、米国公使館や本省に勤務した後、明治20(1887)年6月に再びアメリカへ。新渡戸稲造と同じジョンズ・ホプキンス大学で政治学を学ぶ。帰国した菊次郎は明治 23(1890)年1月に宮内省式部官となる。そして日清戦争が勃発した。
菊次郎、台湾へ赴任
日清戦争で清国に勝利した日本は明治 28(1895)年、下関条約で台湾を清国から割譲される。日本領土となった台湾という新天地に菊次郎が向かう。台湾総督府参事官心得を命じられたのだ。台湾に赴任する途中、菊次郎は奄美大島に立ち寄り、実母と再会を果たす。34歳のときだから、25年ぶりの再会だった。
ところで、菊次郎が赴任した当時の台湾は、疫病や風土病に加えてアヘン中毒患者がうようよといた。それだけではない。原住民や匪賊・土匪の襲撃も後を絶たなかった。割譲前と状況は変わっておらず、治安が最悪だったのである。
明治維新直後にこんな事件が発生した。明治4(1871)年 10 月、台風で台湾に漂着した宮古島の島民 54 人が先住民に殺害されたのである。日本政府は清国に抗議し、賠償金を要求した。すると、清国から何とも気の抜けたような返答が返事が。
「台湾は『化外の地』なので、わが清国政府は関知しない」
要するに、台湾は清国が実効支配していない地なので一切責任を負わない、というわけだ。
しかし、54人もの多くの日本人が殺害された大事件である。日本政府としては、「はい、そうですか」と言って放置するわけにはいかない。
事件から3年後の4月、明治政府は陸軍中将だった西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し、台湾出兵を決断した。そして翌月、約3000名の日本兵が台湾に上陸し、1カ月の間に先住民を制圧する。日本側の戦死者は20名にも達しなかったが、マラリアなどの風土病で600名近くが病死した。
その後、日清戦争に負けて清国が台湾を日本に割譲する。しかし、台湾を風土病が蔓延する「化外の地」と見なしていたくらいだから、「厄介払いができて清々した」というのが本音だったに違いない。
さて、日本の領土となった台湾には、台湾総督が赴任することになった。初代総督は樺山資紀だったが、以来、2年9カ月の間に、桂太郎、乃木希典と3人が交代している。
その間、台湾に対する軍人による統治政策は、治安行政の域を出なかった。いたずらに莫大な国費を消耗するのみで、完全に行き詰まっていたのである。当然、社会の風当たりは激しかった。台湾統治の問題は世論の非難攻撃の的となり、台湾を「1億円でフランスに売却せよ!」という議論まで起こる。
台湾人にしても、彼らの預かり知らないとこで起きた日清戦争で台湾が日本に割譲され、北方から日本人が統治にやって来ることなど到底、受け入れられる訳もない。つまり、現在のような「親日」台湾の姿など、まったくと言っていいほどなかった。
従って、抗日活動をする匪賊、貧困による略奪を繰り返す土匪が横行する。さらに、台湾に赴任する日本人の多くが、台湾人を卑しい民族と低く見て、蔑み差別する者も少なくなかった。このように日台の融合は困難を極めていたのである。
そんな中、児玉源太郎が4代目の台湾総督に就任、治安改善のために治安部隊の大増員を行う。しかし、抗日勢力を徹底的に取り締まるだけではなかった。医師である後藤新平を民政長官として登用し、疫病風土病やアヘン中毒の撲滅と衛生観念の理解にも力を入れたのである。
児玉総督は経済政策でも手腕を発揮した。殖産局長に農業経済学と植民地経済に詳しい新渡戸稲造を迎えたのである。こうして日本の英知を結集、インフラ整備や農業改革を中心に台湾の発展に全力を注ぐことになった。
匪賊を堤防工事に起用
▲台湾地図
台湾に着いた翌年、菊次郎は台北県支庁長に任じられ、さらにその1年後には宜蘭の初代庁長を拝命する。今でいうなら義蘭県知事だ。
宜蘭の庁長となっていた菊次郎も、宜蘭の平定に腐心する中、宜蘭発展の手立てをひたすら模索する。その一つが宜蘭河堤防の構築だった。台湾での要職に就いた菊次郎は、台湾のために粉骨砕身で働くことを心に決めたのだ。
父親の隆盛が好んで使った「敬天愛人」(天を敬い人を愛す)や「命もいらず、名もいらず、学位もいらず、金もいらぬ人は、始末に困る人なり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」(『南洲遺訓』)といった仁愛と無私無欲の遺訓が菊次郎に大きな影響を与えたのかもしれない。
さらに薩摩藩独自の「郷中教育」を受けたことも、台湾発展の大義に向かって全力を注ぐ原動力になったことだろう。郷中教育とは、勉学や武芸を先輩・後輩で教え合薩摩藩独自の青少年教育制度で、3つの教えが重要視されていた。「負けるな」「嘘をいうな」「弱い者いじめをするな」である。
堤防建設を前にして、菊次郎は誰もが思いつかなかったことを提案した。堤防工事に匪賊たちを雇用するというのだ。彼らに安定収入を提供することで治安の改善を図るという計画を上申して予算の獲得に成功した。
匪賊たちの雇用は一時的なものに留まらず、菊次郎は多くの事業を立ち上げる。雇用の拡大と安定に寄与することで、治安も改善された。抗日運動も徐々に終息に向かう。
菊次郎は、誰に対しても分け隔てなく接したので、台湾人たちの信頼を徐々に、そして確実に得ることになる。幼少期を奄美大島で過ごしていた菊次郎。その頃の奄美大島では、サトウキビの生産による厳しい年貢の取り立てで労働者たちは苦しめられていた。まさに「黒糖地獄」と言われた島の状況である。
それを目の当たりにした菊次郎少年の心に労働者へのいたわりが芽生えていたとしても不思議ではない。また後に西南戦争に参戦して多くの若者たちの死に直面した。そして自らも被弾して障害者になった菊次郎である。
弱い者への優しさと誠実な心を自然と身につけていたのかもしれない。貧困の苦しみ、明日をも知れぬ世の中の乱れと不安を抱える台湾が、幕末の日本と重なって見えていたのではないだろうか。
ここで、もうお気づきかと思うが、菊次郎は西郷家の長男と言われている。ところが、なぜか普通は次男に付けられる、菊次郎の名が付けられている。一体どういうことか。そこには、西郷と台湾の間にもう一つ名前の由来にまつわる不思議な縁があった。
実は、西郷隆盛には島妻の愛加奈と結婚する前、台湾女性との間に子供をもうけていたという説があるのだ。幕末に台湾占領を計画していた薩摩藩からの密命を受けた西郷は、偵察のために一時期、台湾に滞在していたことがある。そのときに知り合った台湾女性との間に、男の子が生まれという。
それを知った菊次郎が台湾赴任中、隆盛の子供を探し出して面会したというから面白い。真偽のほどは定かでないが、これが本当なら、菊次郎に「次男」のような名前を付けた理由も納得できるのではないだろうか。
ちなみに、菊池一族をルーツとする西郷隆盛は、奄美大島に潜伏する際、「吾が源は菊池なり」という意味で菊池源吾と名乗る。西郷家の家紋にも菊が使われており、隆盛にとって菊は特別なものだったようだ。名前にその菊の字を付けた菊次郎もまた、隆盛にとって特別大切な存在だったに違いない。
▲今も残る「西郷憲徳政碑」
「西郷憲徳政碑」の碑文を見ると、最後にはこう記されている。
「西郷公をしのぶに糸を買って像を刺しゅうする事なかれ、家々に線香を立て供える事もしてはいけない。最もふさわしい事は晋人が羊祐を記念して彫った『落涙碑』のようにすることである。西郷公の栄光を永々に伝えるべく、ここに碑を建立し、公の徳をたたえるものである」
今日、多くの日本人が台湾を訪れるが、このことを知る日本人は極めて少ない。「恩ある人を決して忘れてはいけない」という台湾宜蘭人の誠意に頭が下ったものである。同時に、台湾の人からこの史実を教えられたことを、日本人として恥ずかしく思った旅でもあった。私の台湾への旅はまだ終わらない。(つづく)
【下高原洋(しもたかはら ひろし)さんのプロフィール】
昭和28(1953)年、横浜市生まれ。日本大学付属の中・高校から日本大学入学。大学では、あの強豪のアメフト部(日大フェニックス)に所属した。25歳のとき、川崎市北部中央市場の開場に伴って独立する友人と水産仲卸を起業する。事業所を6市場に拡大して役員に就任、量販店(スーパーマーケツト)、飲食店(寿司・中華・喫茶甘味処等)を手掛けた。また出向でヒラメ養殖場、公園墓地販売、観光歴史館、ホテル・旅館の再生事業に携わる。鮪一船買い(獲れた鮪を全部買う)の会社代表に就任。その後、給食会社や銀行寮の食堂長などを経て、日本遠洋鰹鮪漁業協同組合連合会に就職した。鮪船向けの餌料買い付けと販売、船員派遣などの業務に就いた後、南アフリカのケープタウンに8年間単身赴任するが、同連合会の解散で退職する。退職後は全国漁業協同組合連合会に就職して業界NPOに出向し、水産庁の助成事業と東日本大震災の復興支援事業に従事し、令和元(2019)年に退職。同年、南アフリカのケープタウンに短期移住を決行したが、新型コロナの蔓延により半年で帰国、現在に至る。白井市南山在住。