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【連載】私の台湾物語⑤(最終回) 日本と台湾は兄弟国

2021-09-14 05:43:11 | 【連載】私の台湾物語

《連載(短期集中/毎週火曜日)

私の台湾物語⑤(最終回)

日本と台湾は兄弟国

 

下高原 洋(漁業コンサルタント)

 

 

「私は日本人だった」と公言した李元総統

 ここで再度、私が何故、台湾を敬愛するかを話しておきたい。
 日本は敗戦により、米国から「憲法」という名の「占領基本法」と「アメリカ式民主主義」を与えられた。それを有難く受け入れた日本も日本である。
 当然、押し付けられた「憲法」も「アメリカ式民主主義」も、日本人に合わないものだった。まるでお下がりを着ているようなものでは、と思うのは私だけだろうか
 しかし、台湾には「千載一遇」の好機が訪れた。1975年の蒋介石没後、長男である蒋経国が国民党主席、つまり中華民国総統に就任する。蒋経国は自身の人気を高めるため、本省人を「お飾り」とも言うべき副主席に抜擢した。
 1988年に蒋経国が急死したことから、憲法の定めで国民党副主席が中華民国総統の座に就く。その人物こそ、日本の京都大学を卒業し、不屈の精神を持った李登輝である。総統になった李登輝は既得権益を内部から解体することに着手した。こうして台湾は「真の民主化」に動き始めたのである。

▲タイム誌の表紙を飾った李登輝

 

 李登輝が政権から去った後、台湾は野党勢力の民進党が政権を握る。国民党が一時期政権を奪取するが、長続きしなかった。民進党の蔡英文総統率いる台湾は、共産主義中国に正義感・義侠心・冒険心で立ち向かう。
「日本精神」を身に着けて戦う台湾を、私が羨まく思い、素晴らしいと敬愛するのは当然のことではないだろうか。
 12年間の「無血革命」を指揮した李登輝元総統は故人となったが、「天が台湾に与えた宝物」と言っても過言ではない。李登輝元総統の名言に「民之所欲、長在我心」がある。「民の欲するところ常にわが心にあり」という意味だ。
 黄さんと同じように、李登輝元総統は「私は日本人だった」と公言して憚らない人物だった。台湾と台湾人を愛して按ずるだけでなく、同様に、日本と日本人も愛し按じてくれた。この事実を私たち日本人は深く考える必要があろう。
 あの二二八事件で亡くなった台湾人を超えるくらいの数の日本人と元総統が話したという。つまり、2万人以上の日本人と話したことがあるということだ。なにも著名人だけではなく、修学旅行の日本人の少年少女たちとも気楽に日本語で話している。
「日本人は優しいし、素晴らしい。みんなも日本を誇りをもって愛しなさい」
 それが李元総統の口癖だった。有難いではないか。このように世界のどの国の元首よりも、日本人から愛された人物が李登輝さんだった。
 かつて国民党政権下の台湾では、子供たちに中国の歴史が教えられた。しかし、今は違う。民進党政権下にあるので、台湾の歴史を子供たちに教えている。教科書も日本統治時代を、国民党によって歪曲された史実ではなく、正しく紹介しているようだ。この連載で私が紹介した日本と日本人も功罪も、教科書では公平に記載されているという。
 また総統府をはじめとする統治時代の建物や道路、橋といったインフラも大切に扱われ、高雄駅を新設する際には、旧駅舎を壊すことなく移築された。今も台湾には、有形無形の「古き良き時代の日本」が息づいているのだ。

▲壊されずに保存された旧高雄駅舎

 

なぜ新型コロナに迅速に対応できたのか
 
 しかし、戦後の日本人は、日本人の美徳は知りたくない一方で、なぜか「反日」の話題には飛びつく傾向がある。「反日こそが知識人への第一歩」といった勘違いをしてきたことがわかるだろう。
 激動の時代を生き抜いてきた台湾人は、日本人と中国人の違いを日常生活の中で観察し続けてきた。たとえ隣国同士であっても、ここまで違うものかということを、痛いほど肌で感じてきたのである。
 戦後教育を受けた私たちの世代も、今の若者たちも、先人の偉業を知るべきだ。そして、彼らを敬うことができれば、日本は良い方向に必ず変わるに違いない。
 現在も黄さん家族との深い交流は、私が12年前に日カツ連を退社し、黄さんが7年前に他界した後も、残された家族、とくに次男のグレッグとは25年以上の付き合いが続いている。
 以前は黄さんの友人らが私を可愛がってくれた。しかし今は、グレッグの学生時代の友人や仕事仲間との交流が盛んだ。そんな友人の一人であるRさんは、エレベーター会社の経営者である。国民党支持者だが、
「娘のPTAの会合があるんだけど、一緒に行ってくれないか」
 と誘われたことがある。なぜ私を誘ったのか理解に苦しんだ。後日、エイミー(グレッグの奥さん)の日本語が堪能な妹に理由を聞くと、
「台湾では日本人の知り合いや友人がいることが自慢なんですよ。だから、誘ったんじゃないですか」
 へー、そうなのか。
 Rさんとは反対に、グレッグは熱狂的な民進党支持者なので、いつもRさんと口論している。
 日系の鉄工会社に勤務しているCさんも日本語が堪能だ。私が会話から疎外されないように通訳してくれる。だから、Rさんのジョークにも、私だけがワンテンポ遅れてしまう。結果的には二度の笑いを取るという功名を担っているというわけだ。
 黄さんの子供世代も「親日」であるだけでなく、真実の歴史教育を受けた孫世代までもが「私は日本人」と言って憚らない、「哈日族(ハーリー族)」と称される「日本の大衆文化が大好きの若者たち」も少なくない。
 ところで、私が台湾に行き始めた30年前と比べると、街が大変綺麗でゴミも目立たなくなった。台湾南部の街に行くと、路上のあちらこちらに檳榔(ビンロー)の紅い殻が吐き捨てられていたものである。ところが、そんな光景を今ではほとんど見なくなった。

▲台湾の各ターミナルで検疫を実施


 こうした台湾の徹底した衛生観念は、日本を手本にしたという。またデング熱を媒介する蚊の発生を防ぐため、清掃にも力を入れているのが現状だ。新型コロナが発生した当初、台湾が徹底した防御対策で新型コロナウイルスを抑え込んだのも、日本統治時代に培われた衛生観念があったからではないだろうか。

板垣退助を応急治療した後藤新平

 日本が新型コロナで右往左往しているとき、台湾の知人の一人は日本を心配して「今の日本には後藤新平は居ないのか!」と憂いていた。なぜ後藤新平の名が出てきたのか。とりもなおさず、台湾の医療発展に大きく貢献したからである。
 後藤新平は安政4(1857」年、陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の奥州市水沢区)に生まれた。江戸後期の蘭学者である高野長英が大叔父である。須賀川医学校を主席で卒業した後藤であるが、21歳のときに愛知県の医術開業免状を取得し、名古屋公立医学校や公立病院で働く。
 明治15(1882)に思わぬ事件に遭遇する。自由民権運動の板垣退助が岐阜で遊説演説を終えて会場を出ようとしたとき、暴漢に短刀で刺されたのだ。呑敵流小具足術という体術を学んでいたため、板垣は襲った相手に咄嗟に当て身をくらわせる。
 その効果があったのか、左右の胸、指などに計7カ所の傷を負ったものの、幸い致命傷に至らなかった。幸運はこれだけでは終わらない。このときに往診して応急手当てをした医師が、優秀だった。愛知県で病院長をしていた後藤新平である。手際の良い処置もさることながら、人柄の良さにも惚れ込んだ板垣は、「彼を政治家にできないものか」と側近に語ったとか。
 余談だが、この襲撃事件で板垣が吐いたという名言が有名だ。そう、「板垣死すとも自由は死せず」である。別に死ななかったが、この名言だけが独り歩きしたのか、誰もが知るセリフとなった。
 しかし、このセリフは板垣本人が発したものではない。暴漢を取り押さえた内藤魯一という元福島藩士が事件後、板垣が発した言葉としたものである。
 いずれにしても、人間は自分が刺されたときに後世に残るような名言なんか出てこないものだ。ある野党政治家が暴漢に刺されたとき、最初に発した言葉が「あっ、イタタっ! 何するねん、このアホ!」。ま、そんなもんだろう。

▲後藤新平
 

 話を戻そう。
 板垣退助が襲われた翌明治16年(1883)、後藤新平は内務省衛生局照査係副長に任命される。つまり、病院・衛生に関わる行政に携わる官僚になったのだ。その後、後藤は私費で2年間、ドイツに留学する。帰国した後藤を待っていたのが、内務省衛生局長という椅子だった。36歳のときである。
 そんなエリート街道まっしぐらの後藤に災難が襲う。衛生局長に就任した翌年に起きた相馬事件である。相馬事件が旧中村藩主の相馬誠胤が亡くなったが、旧藩士の錦織剛清が「家族に毒殺されたのではないか」と疑ったのだ。これに激怒した相馬家側が錦織を誣告罪で訴えた。
 そこまではいいが、錦織の疑いに、なぜか後藤新平が支持したのである。このことで後藤が連座して入獄することになった。災難と言えば災難である。しかし、1年後の明治27(1894)年に無罪放免となった。

公衆衛生を徹底させて「台湾近代化の父」に

 その翌年、後藤は臨時陸軍検疫部事務長官に就任する。最初の仕事が日清戦争の帰還兵を水際で検疫することだった。検疫と言っても、数十人、いや数百人を検疫するわけではない。
 なにしろ、日清戦争の帰還兵である。700隻近い艦船に乗って23万人を超える将兵が日本に戻ってくるのだ。まさに想像を絶する作業が待ち構えていたのである。
 空前の大規模検疫を陣頭指揮する後藤は、さっそく広島県宇品港沖の似島に検疫所を建設する作業にとりかった。板垣退助を治療したように、後藤新平の働きぶりはじつに効率がよかったのだろう、たった2カ月で400棟以上の検疫所を建てたのだ。
 こうして帰還将兵を検疫した結果、約1500人がコレラに感染していることが判明した。もし、この集団検疫が失敗していた場合、日本国内にコレラをはじめ、さまざまな病原菌を持ち込まれていたことだろう。
 後藤新平が陣頭指揮した水際作戦が大成功に終わったことは、欧米に大きな衝撃とともに伝わった。日清戦争でも勝ったが、防疫でも日本は欧米をはるかに凌駕する大成功を収めたからである。

似島の検疫所全景

▲台湾総督府(現・総統府)


 この後藤の仕事ぶりに注目したのは、もちろん欧米だけではなかった。当時、臨時陸軍検疫部長だった児玉源太郎も、いつか後藤を自分の部下として使いたがった一人である。そして、そのときがやって来た。明治31(1898)、児玉が第4代台湾総督に就任したのである。
 後藤同様、児玉も決断が早い。台湾の民政局長(民政長官)に後藤を起用したのだ。
 台湾でも後藤の動きには無駄がなかった。行政局長として、上下水道の整備や台湾縦貫鉄道の敷設、そして基隆港も築港する。
 そんなインフラ整備を行う一方、後藤は疫病対策にも乗り出す。当時の台湾は「瘴癘(しょうれい)の地」と称されるほど、マラリア、チフス、コレラといった疫病が蔓延していた。まず医療環境の抜本的に改善する必要がある。
 台湾各地に病院や診療所を設置したのを皮切りに、日本では普通だった手洗いやうがいの習慣を持ち込む。こうした公衆衛生の観念を徐々に、しかも確実に定着させたのである。いつの間にか台湾は「瘴癘の地」ではなくなっていた。
 台湾が新型コロナ対策で大成功を収めた理由も、元をたどれば後藤新平に行きつく。なぜ、知人の台湾人が「今の日本には後藤新平は居ないのか!」と憂いた説明にもなったに違いない。
 さて、台湾近代化の障害になっていたのが、数多い阿片中毒患者だった。とは言っても、急激に患者を減らすことは不可能である。国が患者を管理して徐々に減らすしかない。そこで後藤は公営のアヘン製造工場をつくった。阿片を国の専売制にしたのである。この策は功を奏した。
「約17万人もいた吸引者は、昭和10年ごろは約1万6000人と、十分の一に激減している。そして昭和14年には500人を割るほどの成果を得た。大正12年には、海関税務司のアグレンが、台湾のアヘン制度に学ぶべきだと万国禁煙会議で提案し、翌年5月3日の上海英字新聞『宇西西報』では、台湾アヘン政策の成功を絶賛した」(黄文雄氏著『台湾は日本人がつくった』)
 当然、行政の及ばない「化外の地」という汚名も返上される。後藤新平が「台湾近代化の父」と呼ばれる理由はお分かりになっただろう。
 サトウキビやサツマイモの改良と普及させました新渡戸稲造の存在も忘れてはならない。児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造の三人を「台湾近代化三羽ガラス」と呼んでもおかしくはない。今も彼らの功績は台湾で語り継がれている。

台湾と日本はいつまでも兄弟であってほしい

▲蔡英文総統

 これまで「台湾を愛した日本人」と「日本を懐かしがる台湾人」の例をいくつか紹介してきた。しかし、彼らはほんの一例に過ぎない。私も含めて、台湾が大好きな日本人はそこら中にいるだろう。また、日本が好きだが、その理由がわからない台湾人も少なくない。はたして今後も台湾の「親日」がつづくのだろうか。
 グレッグは父親の黄志明さんから国民党の卑劣さを良く聞かされたせいか、「反国民党」という強い意志を持っている。今の日本人はそうではないが、台湾人は政治に強い関心を持っているようだ。総統選挙の場合、その投票率は有権者の8割近い。日本では考えられない数字である。
 熱心な民進党支持者のグレッグに誘われて、私も民進党の集会やデモ、蔡英文総統が出席した音楽祭などに参加したことがあった。蔡総統を2、3メートルもの間近で対面したときなんか、思わず叫んでしまった。
「がんばって下さい。加油(チャイヨウ)!」
 そんな私に気づいたのだろうか、蔡総統は私の目を見ながら日本語で、こう返した。
「有難う!」
 このときの彼女の印象はというと、正直に言って、輝くようなオーラはない。ごく普通の中年女性、早い話が「おばさん」といった感じである。しかし、高雄に戻る新幹線の中で、言いようのない高揚感に包まれたことを、今でも鮮明に憶えている。
 国民の安全と幸福に命を懸けて立ち向かう蔡英文総統。私心がまったくないと言われている彼女を尊敬し、そして台湾をますます好きになった瞬間だった。文学的な言葉で表現すれば、私の「感動体験」だったのかも知れない
 このことをメールに書き連ねてグレッグに送った。すると、グレッグがいろんな友人知人に転送したらしい。エイミーの妹も私からのメールを受け取った一人だった。いたく興味を持ったのか、多くの台湾人に読んでもらおうと、すぐさま台湾語に訳してSNSに投稿したという。
 グレッグがいつもこう言っている。
「台湾は日本の法律上存在しない。在っても無いのと同じ。日本人は台湾を認めていないからさ。それが日本人が見た台湾ではないのかな」
 そう思っているグレッグだが、もう一度自身に問いかけたという。「なぜ我々台湾人は『親日』なのか」と。
 こんなにも日本人から邪険に扱われ、地球上から無くなっても、気にも留められない存在なのに、台湾人は日本が大好きである。しかも世界で一番の「親日」だ。グレッグは日本を知れば知るほど、グレッグは複雑な気持ちになってしまう。
 口を開けば「反日」の韓国、北朝鮮、中国に、なぜ日本はいつも忖度ばかりするのか。なぜ世界一の「親日」である台湾には見向きもしないのか。そんな日本にグレッグは首をかしげざるを得ない。もう一人のグレッグが囁く。
「だったら、日本を嫌いになればいいじゃないか!」
 そんなジレンマがある、とグレッグは私に告白したことがある。
「中国統一」という虚構を前面に出して、台湾を併合しようとする習近平の中国。その圧力と恫喝が繰り返されているにもかかわらず、台湾擁護と支援の声明も出さない日本政府に、台湾人はどう思っているのだろうか。
 彼らの不安や心情を思うと、何もできない日本政府が恥ずかしい。そう言う私自身も、自分を恥ずかしく思う。何もできない自分が情けないからである。
 台湾は日本と日本人にとって、兄弟のような国である。いや、これからは台湾が私たち日本の先生として、いい手本になることもあるだろう。そんな台湾を日本は絶対に見捨てはならない。
 台湾と台湾人を心から愛する私である。今後、台湾に何が起きようとも、私と台湾との関係が切れることはない。永遠なれ、台湾!(終わり)

 

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【下高原洋(しもたかはら ひろし)さんのプロフィール】
 昭和28(1953)年、横浜市生まれ。日本大学付属の中・高校から日本大学入学。大学では、あの強豪のアメフト部(日大フェニックス)に所属した。25歳のとき、川崎市北部中央市場の開場に伴って独立する友人と水産仲卸を起業する。事業所を6市場に拡大して役員に就任、量販店(スーパーマーケツト)、飲食店(寿司・中華・喫茶甘味処等)を手掛けた。また出向でヒラメ養殖場、公園墓地販売、観光歴史館、ホテル・旅館の再生事業に携わる。鮪一船買い(獲れた鮪を全部買う)の会社代表に就任。その後、給食会社や銀行寮の食堂長などを経て、日本遠洋鰹鮪漁業協同組合連合会に就職した。鮪船向けの餌料買い付けと販売、船員派遣などの業務に就いた後、南アフリカのケープタウンに8年間単身赴任するが、同連合会の解散で退職する。退職後は全国漁業協同組合連合会に就職して業界NPOに出向し、水産庁の助成事業と東日本大震災の復興支援事業に従事し、令和元(2019)年に退職。同年、南アフリカのケープタウンに短期移住を決行したが、新型コロナの蔓延により半年で帰国、現在に至る。白井市南山在住。


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