【連載】呑んで喰って、また呑んで(78)
年越し蕎麦で長寿に
●日本/全国
大晦日の慣習となったのが、「年越し蕎麦」だ。江戸時代の中頃からが庶民の間に広がった風習という。
では、なぜ蕎麦なのか。もともと縁起担ぎだったらしい。蕎麦は細く長く伸びるので、「健康長寿」「家運長命」の願いと重なり合う。栄養学的にも、蕎麦にはルチンが含まれているので、毛細血管の壁を強くしたり、高血圧の予防にも効果的だとか。
また、こんな説もある。蕎麦は他の麺類よりも切れやすい。だから、その年の災厄を大晦日にきれいさっぱりと切り捨てるという意味もあるのだそうだ。
「31日の大晦日に食べる意味はわかったけど、何時ごろに食べたらいいの?」
そんな悩みを抱く人も少なくない。
私の子供の頃はどうだったのか。私が生まれ育った大阪は「うどん文化」にもかかわらず、大晦日だけは蕎麦を食べていた。いつ食べたのかというと、テレビで「紅白歌合戦」を家族そろって観る。それから「行く年くる年」という番組が始まろうかというときに、お袋が「年越し蕎麦」をつくり始めたものである。そんなわけで、蕎麦を食べるのは除夜の鐘が鳴ってからだった。
ところが、縁起を担ぐ人に言わせると、「ダメ!」らしい。新しい年を迎えるには、年が変わろうとする間際や年をまたいで食べるのは禁物なのだそうだ。うどん派で、しかも縁起なんか信じない私なんか、「別にいつ食べてもいいではないか」と思うのだが……。
つい最近知ったことがある。蕎麦は関東の食い物で、うどんは関西だと信じて疑わなかったのだが、じつはそうではないらしい。なんとなんと、蕎麦屋の一号店は江戸ではなく、大坂だったというではないか。
さてと、400年以上前の天正11(1583)年に遡ってもらおう。この年、「太閤さん」こと豊臣秀吉が大坂城の築城を始めたのである。大規模な土木工事だから、大勢の土木作業員が全国各地からやって来た。
肉体労働者の常ですぐに腹が減る。そんな彼らに手っ取り早く食事を提供しようと蕎麦を売る店が現れた。工事現場は砂地だったので、蕎麦屋のことを「砂場」と呼ばれるようになる。そのうち大坂の町中に一般庶民向けの蕎麦屋がオープンした。そう、日本最初の蕎麦屋は江戸ではなく大坂だったのである。
まさに「目からウロコ」けではないか。江戸に蕎麦屋が登場したのは、徳川家康が江戸城に入城してからのことだ。当時の江戸はというと、大都市ではなく、さびれた寒村ばかりで人口も極めて少なかった。
このころの上方では蕎麦はすたれ、うどんが主流になっていたらしい。江戸でもうどん屋がほとんどで、蕎麦屋が目立ってきたのは江戸中期以降のことである。蕎麦が江戸の代表的な麺類になったのは、幕末になってからで、約4000軒の蕎麦屋が営業していた。江戸三大蕎麦というと、「砂場」「更科」「藪」が有名だが、「砂場」の由来は大坂から来ているのは言うまでもない。
偉そうな講釈はこの辺で止めておこう。
蕎麦と切っては切れないのが、日本酒だ。真昼間に日本酒が呑みたくなったら、江戸っ子なら蕎麦屋に行く。それが粋な江戸っ子だろう。
私は浪速っ子だが、関東に出てきて半世紀は経つ。だから、「蕎麦屋で日本酒」という風習にも馴染んだ。居酒屋がオープンしていない時間帯だと、躊躇なく蕎麦屋の暖簾をくぐることにしている。近頃はファミレスでもアルコールを呑む人が少なくないようだが、どうもファミレスでは雰囲気が出ない。
近所の呑み仲間であるナベちゃんも、事あるごとに蕎麦屋で呑んでいる。私もよく誘われるが、いつも呑みすぎて記憶が定かでなくなる。ちなみに、ナベちゃんは東京生まれ、東京育ちの江戸っ子だ。
もう一人を忘れてはいけない。大阪生まれのユウちゃんである。今年は江戸っ子一人と浪速っ子二人の三人がつるんで一次会、二次会、そして最後に蕎麦屋で締めくくったものだ。いつもベロンベロンである。
ちなみに、この呑兵衛三人組を「三馬鹿大将」と誰かが名付けたそうな。この命名をいたく気に入ったのか、ナベちゃんは「三馬鹿」を刷り込んだ三人の名刺までつくってご満悦。おまけに、北海道から「馬」肉と「鹿」肉まで定期的に取り寄せる念の入れようだ。うー、困った人である。では皆さん、よいお年を!