【連載】呑んで喰って、また呑んで(94)
一ツ木通りの誘惑
●東京・赤坂見附
大学を卒業後に勤めていた出版社が、2年も経たないうちにあえなく倒産した。その後、知人の紹介で総合月刊誌編集部や医学専門誌などを転々と。最初の出版社で同僚だったKさんの紹介で戦略研究所の創設に参加したのだが、これも半年間もただ働きだった。
途方に暮れていると、このときに一緒だったМさんから電話が。
「もう就職口、決まった?」
「いいえ、まだなんです」
「よかった。今度、軍事専門誌をつくることになったんだ。知り合いが資金を出すから心配ない。君も来ないか?」
「もちろん、参加します!」
何のあてもなかったので、即答した。Мさんは月刊誌『文藝春秋』の記者をしていたので、とにかく顔が広い。断る理由はこれっぼっちもなかった。
事務所は赤坂の一ツ木通りをちょっと入ったところにあるマンションの一室だった。一室と言ってもだだっ広い。150平米は裕にあったろうか。メンバーが一人、また一人と集まってきた、結局、総勢9人になったろうか。雑誌の名前も決まった。『New Message』である。こうして1980年9月に新雑誌が創刊される。参考までに創刊号の目次を見てみよう。
「USAのパンタグラフィック戦略論」
「浮上したソ連潜水艦の謎」
「カーターVSレーガン国防論争」
「NATO軍VSワルシャワ条約機構軍」
「ソ連陸軍の対核戦略」
「民族とゲリラ(アフガニスタン論)」
「'80ビルマは恩赦で変身する」
といった専門的な記事ばかり。ちなみに、私が執筆したのは「日米安保条約締結20周年記念日米セミナー」。3日間にわたって行われたセミナーには、アメリカ側からフォード前大統領を筆頭にジャッジ・モンタナ州知事、ムーラー元統合参謀本部議長、ミッテンドーフ前海軍長官、上院議員3名、下院議員2名らが。
その他にも、スタンフォード研究所戦略研究センター、ジョージタウン大学戦略国際センター、ヘリテイジ・ファンデーション、ハドソン研究所からの研究者も。私も日本側準備スタッフとして会場となったホテルに1週間ばかり泊まり込んだ。セミナー初日には、米側はフォード前大統領、日本側からは岸信介元首相が基調演説を行っている。
そんな固い話はさて置き、先にも触れたように、その雑誌社は一ツ木通りから約50メートル入ったビルの一室にあった。当然、呑み屋には事欠かない。悪友からの電話がひっきりなしにかかってきた。
「いま赤坂見附にいるんだけど……」
呑む誘いであるのは、ミエミエである。が、心優しい私は、まだ午後4時過ぎにもかかわらず、取材と称して午後3時から営業している居酒屋へ。昼の日中から呑む酒は美味い。この店では、私なりに決めていた。まず升に注がれた樽酒を半分ぐらい呑む。つまみはあん肝である。
あん肝を3分の1ほどつまんだところで、樽酒をお代わりする。こうして3時間ほど居酒屋で悪友と歓談してから、同じ一ツ木通りに面したスナックに顔を出す。この店でウイスキーの水割りをチビチビとやって、カラオケも歌う。段々といい気持ちになってくるので、真っ直ぐ家路につくことはない。
今度は20メートルほど離れたところにあるラウンジ・バーに足が向く。このバーには記者仲間だけではなく、国際政治学者や大学教授、自衛隊関係者、国会議員秘書もよく連れて行ったものである。そんなわけで、帰宅するのはいつも深夜だった。こんなことを連日の如く繰り返していただろうか。
なにしろ一ツ木通りの近くに編集部があったばかりに、誘惑が多すぎた。帰宅しようとしても、タクシーが拾えなかったときなんか、ホテルのロビーで朝までくつろいだことも。そのホテルこそ、大火事で全焼し、数多くの死傷者を出したホテル・ニュージャパンである。
いかん、報告が遅くなった。この軍事専門誌の編集長はというと、私を誘ってくれたМさんである。このМさんには大変世話になったが、これほど癖のある人も珍しいだろう。えーっ、と驚かされたことも少なくない。
上智大学で空手部のマネージャーをやっていたからなのか、血の気が多いというか、すぐにカッとなる。百貨店の店員の態度が悪いと、肩を震わせて怒り狂う。脳の血管がいつ破裂しても不思議ではない興奮状態である。ある軍事評論家をМさんがカウンター・バーに誘った。Мさんがつかつかと一番奥の席に向かう。自らすすんで。ところが、座って間もなく、店員に吠えた。
「なんでこんな奥に座らせるんだ!」
叱られた店員は、キョトンとするしかなかった。Мさんの奇行は尽きない。(つづく)