※
心地のよい朝であった。
ほととぎすの鳴き声と、厨で食事の支度をしている女たちの気配で目を覚ました馬良は、しばらく寝台のうえでぼんやりとしていた。
村に逗留して四日。
すっかり馴染んで、小ぶりの部屋の、どこになにがあるのか、すっかり把握している。
洗濯をしてもらった衣を羽織りつつ、部屋を見回す。
質素な農家の一室である。
りっぱな機屋があり、家のなかに客室がきちんとあるのだから、質素といえども、貧しい、と括るほどでもない。
娘が文字を読めない、というのも、恥じることでもない。
家事に一日を追われる身で、勉学に励めというのはムリな話である。
それに家屋はまだ建って数年、といったふうで、調度品にも中原の文化を思わせる装飾がほどこされている。
どこか洗練されているのだ。
そういえば、ここの家人はみな、言葉がきれいだな、と馬良は思う。
洛陽を中心に考えて、そこから遠ざかれば遠ざかるほど、言葉はちがってくる。
広大な中国大陸では、その差も大きい。
まして南方の田舎村となると、通常の会話においてさえ、齟齬が生じるのがあたりまえなのであるが、この村に来てから、馬良は不便を感じたことが無かった。
今日は期日の五日目であるが、と思いつつ、馬良が機屋の様子を見るために表にでると、ざばざばと水音がする。
見ると、井戸のかたわらで、孔明が顔を洗っていた。
孔明は馬良に背を向ける形で、結髪をほどき、癖のついた黒髪を指で梳いている。
とうとう織物が完成したのだ。
「ごくろうさま、亮くん。言葉どおり、期日までに仕立て上げることができるとは、さすがだよ」
と馬良がよろこび駆け寄ると、その気配に、孔明は振り返った。
が、
振り返った孔明の顔を見たとたん、馬良の言葉から出たのは
「今すぐ眠りたまえ!」
だった。
孔明の容貌はひどいものであった。
双眸はまるで兎のように赤く、げっそりと頬はこけ、肌は全体に青白い。
あきらかに貧血だ。
それなのに目は奇妙に興奮して、らんらんと輝いている。
なまじ、元がすばらしく、本人も、すばらしい内容をさらに引き立てる工夫をつね日頃凝らしているだけに、くずれたときの反動はすさまじい。
まるで地の底から、封印された古代の神が数百年ぶりに這い出してきたような有り様であった。
「そんなに、ひどいかね」
孔明は、不思議そうにして、おのれの頬に手を当てる。
「鏡を見ていないのかい。まるで幽鬼か妖怪だよ。
村の人間が見たら逃げ出すくらいだ。
ほら、部屋は用意してくれているのだ。いますぐ眠りたまえ」
「うむ…たしかにまぶたが重い気がする。
しかしね、少しばかり語りたいのだが、機織というのはやはり、素晴らしい。機を織っているあいだは、頭の中にあった悩みはすっかり真っ白になっているのだ。
そうやって作業に没頭しているうち、わたしは悩むこと事態が馬鹿馬鹿しいということに気づいた。周瑜はたしかにすばらしい男であったけれども、だが、つまるところ私ではない。そして、彼は故人なのだ。
周瑜は私にとって、最高峰に位置する人間になるだろうが、なぜだろうね、ふしぎと必ずおなじ高みに登れる予感がしているよ。まるで生れ変わったような気分なのだ」
「それはいいことだ」
と、馬良は友の復活を、心から喜んだ。
表情は恐ろしげであるが、その上にきらめく明るさは、たしかに孔明のものである。
「趙将軍もきみのことを心配していたようだよ。会ったのかい?」
「ああ、布が完成したときに呼んだよ。彼らしく、「よくやった」としか言わなかったけれどね。いまは機屋にいるよ。
自画自賛はあえて避けたいところであるが、子龍は私の布を見て、言葉をなくすほど感動しているらしい」
「そんなに素晴らしいものなのかい」
「是非見てくれたまえ」
孔明は得意げに胸を張る。
そうして、馬良と一緒に機屋に戻ろうとするので、馬良は再度、眠るように諭した。
朝に眠るのは身体によくない、と、こういうときばかり常識を口にする孔明を、むりやり部屋におしこめるようにして、馬良は孔明を寝かしつけた。
そうして、出来上がった衣はどんなものかしらん、とわくわくして機屋に行くと、すでに趙雲と、花嫁一家がやってきて、完成品をながめていた。
馬良は、花嫁一家が、これで救われる、とよろこぶ様を期待していたのであるが、しかし空気が重い。
布を手にしている趙雲が、うなだれる一家に、
「努力だけは認めてやってくれまいか」
と、謝っている。
そんなにひどいものができてしまったのか。
しかし、確かに努力はしたのだ、ここはがんばって、友を応援してやらねば、と馬良は気負って趙雲の背中ごしに、ひょいと完成品を覗き見たが、
ひとめ見るなり、馬良はううむ、と唸ってしまった。
そこにあるのは、なんとも強烈な衣であった。
精巧かつ高度な技術をもって、織り込まれたであろうことは、素人目にも容易にわかる。
技巧的なものだけならば、すばらしいといえるのであるが、問題はその全体の印象であった。
天才の、天才たるがゆえの暴走で、布は出来上がってはいたものの、文様の形といい、その配置、配色といい、あまりに斬新すぎた。
ただ飾っておくだけならば目をみはるほどのできばえなのであるが、これを着てみたいか、と尋ねれば、十人が十人とも、
「きれいだけれど着たくない」
と答えるであろう。
機織に夢中になるあまり、実用的なことはすっかり頭からはじけ飛んでしまったようだ。
真っ白になったのは、悩みだけではないらしい。
実用を考えて、さらに工夫を凝らすことができるのが、つねに現場に立つ職人なのであるが、
孔明は職人ではないので、天才職人との戦い、つまり、機織の技術だけを追求してしまったので、キテレツな結果が生じてしまったわけだ。
それほどに、時代の先の先を行ってしまったシロモノが、そこにあった。
これを着こなせる女は、それこそ孔明のことばではないが、天才に立ち向かうくらいの峻厳な気負いでもって、袖を通さねばならないであろう。
馬良に気づいた趙雲が、がっくりとうなだれている家族のほうを気にしつつ、馬良の腕を取って機屋の外に出た。
「軍師はどうした?」
「寝ております」
「そうか、それではこの家の者たちが、おかしな気を起こさぬように見張っていてくれぬか。
俺はちょっとひと走りして」
「代わりの衣を市場から仕入れてくるのでございますか」
と、先回りした馬良であったが、趙雲は首を振った。
「いや、ちょっとひと走りして、地主の息子と話をつけてくる」
「…ハナシ?」
ぴんときた。
馬良は自分の勘の良さをうらめしく思った。
「ちょっと一走り、干し肉を買ってくる」
というくらいのさりげなさで趙雲は話をつけてくる、などと言ってはいるが…
「なりませぬぞ」
「話をするだけだ」
「なりませぬ! ただの話で終わるとは思えませぬ。趙将軍ともあろうお方が、なんという浅慮な」
趙雲は、ちいさくため息をつくと、頭を振った。
「わかっておる。しかし、ほかによい策が浮かばぬのだ。せっかく軍師の気持ちが持ち直したというのに、ここで娘を救えなかったとなれば、前よりもっと落ち込むであろう」
ああ、なるほど、と馬良はまた、理解した。
つまり、趙雲としては、花嫁一家にも同情している。
してはいるが、趙雲の中では、それより、孔明がふたたび自信喪失になってしまうことのほうが、ずっと大問題なのだ。
冷たいのだか、温かいのだかわからない人だな、と思いつつ、馬良は智恵をしぼってみた。
「そうだ、ゆうべの放火魔は如何なさいました。やつを役所に突き出して、地主が火付けを指示したと証言させる、というのは」
「うむ、あいつか。残念ながら様子を見に行ったところ」
「死んでいたのですか?」
「いいや。豚に囲まれつつ、元気に眠っていた。だが、くりかえすようだが、期日は今日なのだ。正規な手続きにこだわっていると、娘は救えぬ」
「困りましたなぁ」
とんだ休暇になったものだと思いながら、馬良はけんめいに智恵をしぼる。
馬良はいままでの経験から、孔明を絶対的に信じていた。
その期待を孔明は裏切ったことがない。
一度もだ。
だから、生じた結果について、こんなふうに頭を使わねばならないことは一度もなかった。
孔明にすっかり依存する癖がついていたと反省しつつ、馬良はあれやこれやと考える。
「やはり、市場へ行って、べつの衣を仕入れてくるしかないのでは?」
「これほどの精巧な技巧をこらした布はそうはあるまいよ。
市場で売っているようなものでは、偽物だとすぐにばれてしまうぞ」
そうして趙雲は、いささかやつれた顔をして、ぼそりとつぶやく。
「やはり話をつけに」
行くべきかと皆まで言わせず、馬良はさえぎった。
「このような田舎でその勇名を地に落とすような真似をなさってはなりませぬ。
第一、亮くんが眠っているあいだに、貴殿のそのような振る舞いを見過ごしたとなったら、亮くんは一生、わたしを許さないでしょう」
実際に、孔明は怒り狂うであろう。
その恐ろしいさまを、馬良は想像することすらできない。
趙雲は、馬良の言葉に、とりあえず肯いてはいるものの、どこか不満げだ。
孔明が朝方までずっと起きていたのと同様に、主騎である趙雲も眠っていない。
冷静沈着が売りの武将が、そこいらの猪武者と変わらぬ有り様に劣化しているのは、睡眠不足が原因なのだ。
「趙将軍、ともかく落ち着きなさい。布は、とりあえず完成をしているのです。もしかしたら地主は布を見て、たしかに約束どおりであるといって、おとなしく引っ込むかもしれませぬ。それまで様子を見ても悪くはありませぬぞ」
「いささか楽観的に過ぎぬか」
趙雲が漏らした、思わぬ弱気なことばが、馬良の世話焼き気質を刺激した。
それはつまり、過剰なまでに、人のためにおのれを犠牲にしても、なんとかしなくては、と努力をしてしまう、損で自虐的な行動の発動を意味していた。
「大丈夫、お任せなさい。私も亮くんとともに、司馬徳操のもとで学んだ男ですぞ。たかが地方の地主、亮くんがいなくても。なんとかしのいで見せましょう。
趙将軍は、地主たちが来るまで眠って、英気を養ってらっしゃい。ちょうど亮くんも眠っているのだし」
「大丈夫なのか」
と、趙雲は眉をしかめる。
その、いまひとつな自分への信頼に、ひっそりと傷つきつつ、馬良は孔明を真似て、胸を張って見せた。
「ええ、大丈夫ですとも。さあ、お休みなさいませ」
趙雲は、あまり我を張って眠らないでいると、かえって馬良を傷つけるのではないか、という心優しい配慮から、
あまり納得していない様子ではあるが、仮眠をとるために、去っていく。
馬良は、趙雲がすっかり見えなくなるまで、必死に孔明の様子を想像し、参考して、虚勢を張っていたが、
しかし実は、なんの策も浮かんでいなかった。
いまから実家に帰って、幼常(馬謖)によい策を立ててもらうというのは、ダメ?
ふと気づくと、機屋の戸口に花嫁と花婿の一家が立っていて、じいっ、と馬良を見ている。
どうやら、馬良が趙雲に大丈夫だと請け負ったところから会話を聞いていたらしい。
この細くてちいさな若旦那(馬良はふつうの身長なのであるが、身の丈八尺の孔明や趙雲とならぶと、たしかに小さく見えた)が大丈夫だと言っている。
それならば信用してもよいのかしら、という顔をしている。
馬良は汗をたらたら流しつつ、
「任せておくがよい、ぞんぶんにもてなしてもらっただけの礼はするぞ」
と、これまたよせばいいのに言い切った。
どんどんドツボにハマりつつある自分に、はげしい自己嫌悪をおぼえつつ、カラカラと高らかに笑ってみせると(孔明がいつもそうするからだ)、余裕綽々、というふうにゆったりと歩いて、さりげなく門を出る。
そうして人がいないのをたしかめて、猛然と走り出して、ちかくを流れる小川の土手へ逃げ込んだ。
孔明の機織のお守りがてら、ちょっと気分転換に外を散歩したときに、みつけた静かな場所である。
「ああ、どうしたらよいのだ!」
だれに言うとはなしに、おもわず小川のせせらぎに向かって叫んでみる。
しかし、答えるのは逍遥とした風の声ばかり。
ここでうまく危機を乗り越えれば、日ごろこうむっている孔明への恩を返すことができるし、孔明の面子も保たれる。
しかし乗り越えることができなければ、花嫁は地主の息子のもとへいかねばならなくなり、機織をすることで周瑜という男の存在を乗り越えるきざしをみせている孔明は、ふたたび自信を喪失する。
もちろん、孔明を援けることができなかった馬良も趙雲も、おなじくらいに落ち込むだろう。
責任重大ではないか、とあらためてことの重さにうろたえつつ、馬良はうなった。
しかしあせればあせるほど、よい策は浮かんでこないのであった。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)
心地のよい朝であった。
ほととぎすの鳴き声と、厨で食事の支度をしている女たちの気配で目を覚ました馬良は、しばらく寝台のうえでぼんやりとしていた。
村に逗留して四日。
すっかり馴染んで、小ぶりの部屋の、どこになにがあるのか、すっかり把握している。
洗濯をしてもらった衣を羽織りつつ、部屋を見回す。
質素な農家の一室である。
りっぱな機屋があり、家のなかに客室がきちんとあるのだから、質素といえども、貧しい、と括るほどでもない。
娘が文字を読めない、というのも、恥じることでもない。
家事に一日を追われる身で、勉学に励めというのはムリな話である。
それに家屋はまだ建って数年、といったふうで、調度品にも中原の文化を思わせる装飾がほどこされている。
どこか洗練されているのだ。
そういえば、ここの家人はみな、言葉がきれいだな、と馬良は思う。
洛陽を中心に考えて、そこから遠ざかれば遠ざかるほど、言葉はちがってくる。
広大な中国大陸では、その差も大きい。
まして南方の田舎村となると、通常の会話においてさえ、齟齬が生じるのがあたりまえなのであるが、この村に来てから、馬良は不便を感じたことが無かった。
今日は期日の五日目であるが、と思いつつ、馬良が機屋の様子を見るために表にでると、ざばざばと水音がする。
見ると、井戸のかたわらで、孔明が顔を洗っていた。
孔明は馬良に背を向ける形で、結髪をほどき、癖のついた黒髪を指で梳いている。
とうとう織物が完成したのだ。
「ごくろうさま、亮くん。言葉どおり、期日までに仕立て上げることができるとは、さすがだよ」
と馬良がよろこび駆け寄ると、その気配に、孔明は振り返った。
が、
振り返った孔明の顔を見たとたん、馬良の言葉から出たのは
「今すぐ眠りたまえ!」
だった。
孔明の容貌はひどいものであった。
双眸はまるで兎のように赤く、げっそりと頬はこけ、肌は全体に青白い。
あきらかに貧血だ。
それなのに目は奇妙に興奮して、らんらんと輝いている。
なまじ、元がすばらしく、本人も、すばらしい内容をさらに引き立てる工夫をつね日頃凝らしているだけに、くずれたときの反動はすさまじい。
まるで地の底から、封印された古代の神が数百年ぶりに這い出してきたような有り様であった。
「そんなに、ひどいかね」
孔明は、不思議そうにして、おのれの頬に手を当てる。
「鏡を見ていないのかい。まるで幽鬼か妖怪だよ。
村の人間が見たら逃げ出すくらいだ。
ほら、部屋は用意してくれているのだ。いますぐ眠りたまえ」
「うむ…たしかにまぶたが重い気がする。
しかしね、少しばかり語りたいのだが、機織というのはやはり、素晴らしい。機を織っているあいだは、頭の中にあった悩みはすっかり真っ白になっているのだ。
そうやって作業に没頭しているうち、わたしは悩むこと事態が馬鹿馬鹿しいということに気づいた。周瑜はたしかにすばらしい男であったけれども、だが、つまるところ私ではない。そして、彼は故人なのだ。
周瑜は私にとって、最高峰に位置する人間になるだろうが、なぜだろうね、ふしぎと必ずおなじ高みに登れる予感がしているよ。まるで生れ変わったような気分なのだ」
「それはいいことだ」
と、馬良は友の復活を、心から喜んだ。
表情は恐ろしげであるが、その上にきらめく明るさは、たしかに孔明のものである。
「趙将軍もきみのことを心配していたようだよ。会ったのかい?」
「ああ、布が完成したときに呼んだよ。彼らしく、「よくやった」としか言わなかったけれどね。いまは機屋にいるよ。
自画自賛はあえて避けたいところであるが、子龍は私の布を見て、言葉をなくすほど感動しているらしい」
「そんなに素晴らしいものなのかい」
「是非見てくれたまえ」
孔明は得意げに胸を張る。
そうして、馬良と一緒に機屋に戻ろうとするので、馬良は再度、眠るように諭した。
朝に眠るのは身体によくない、と、こういうときばかり常識を口にする孔明を、むりやり部屋におしこめるようにして、馬良は孔明を寝かしつけた。
そうして、出来上がった衣はどんなものかしらん、とわくわくして機屋に行くと、すでに趙雲と、花嫁一家がやってきて、完成品をながめていた。
馬良は、花嫁一家が、これで救われる、とよろこぶ様を期待していたのであるが、しかし空気が重い。
布を手にしている趙雲が、うなだれる一家に、
「努力だけは認めてやってくれまいか」
と、謝っている。
そんなにひどいものができてしまったのか。
しかし、確かに努力はしたのだ、ここはがんばって、友を応援してやらねば、と馬良は気負って趙雲の背中ごしに、ひょいと完成品を覗き見たが、
ひとめ見るなり、馬良はううむ、と唸ってしまった。
そこにあるのは、なんとも強烈な衣であった。
精巧かつ高度な技術をもって、織り込まれたであろうことは、素人目にも容易にわかる。
技巧的なものだけならば、すばらしいといえるのであるが、問題はその全体の印象であった。
天才の、天才たるがゆえの暴走で、布は出来上がってはいたものの、文様の形といい、その配置、配色といい、あまりに斬新すぎた。
ただ飾っておくだけならば目をみはるほどのできばえなのであるが、これを着てみたいか、と尋ねれば、十人が十人とも、
「きれいだけれど着たくない」
と答えるであろう。
機織に夢中になるあまり、実用的なことはすっかり頭からはじけ飛んでしまったようだ。
真っ白になったのは、悩みだけではないらしい。
実用を考えて、さらに工夫を凝らすことができるのが、つねに現場に立つ職人なのであるが、
孔明は職人ではないので、天才職人との戦い、つまり、機織の技術だけを追求してしまったので、キテレツな結果が生じてしまったわけだ。
それほどに、時代の先の先を行ってしまったシロモノが、そこにあった。
これを着こなせる女は、それこそ孔明のことばではないが、天才に立ち向かうくらいの峻厳な気負いでもって、袖を通さねばならないであろう。
馬良に気づいた趙雲が、がっくりとうなだれている家族のほうを気にしつつ、馬良の腕を取って機屋の外に出た。
「軍師はどうした?」
「寝ております」
「そうか、それではこの家の者たちが、おかしな気を起こさぬように見張っていてくれぬか。
俺はちょっとひと走りして」
「代わりの衣を市場から仕入れてくるのでございますか」
と、先回りした馬良であったが、趙雲は首を振った。
「いや、ちょっとひと走りして、地主の息子と話をつけてくる」
「…ハナシ?」
ぴんときた。
馬良は自分の勘の良さをうらめしく思った。
「ちょっと一走り、干し肉を買ってくる」
というくらいのさりげなさで趙雲は話をつけてくる、などと言ってはいるが…
「なりませぬぞ」
「話をするだけだ」
「なりませぬ! ただの話で終わるとは思えませぬ。趙将軍ともあろうお方が、なんという浅慮な」
趙雲は、ちいさくため息をつくと、頭を振った。
「わかっておる。しかし、ほかによい策が浮かばぬのだ。せっかく軍師の気持ちが持ち直したというのに、ここで娘を救えなかったとなれば、前よりもっと落ち込むであろう」
ああ、なるほど、と馬良はまた、理解した。
つまり、趙雲としては、花嫁一家にも同情している。
してはいるが、趙雲の中では、それより、孔明がふたたび自信喪失になってしまうことのほうが、ずっと大問題なのだ。
冷たいのだか、温かいのだかわからない人だな、と思いつつ、馬良は智恵をしぼってみた。
「そうだ、ゆうべの放火魔は如何なさいました。やつを役所に突き出して、地主が火付けを指示したと証言させる、というのは」
「うむ、あいつか。残念ながら様子を見に行ったところ」
「死んでいたのですか?」
「いいや。豚に囲まれつつ、元気に眠っていた。だが、くりかえすようだが、期日は今日なのだ。正規な手続きにこだわっていると、娘は救えぬ」
「困りましたなぁ」
とんだ休暇になったものだと思いながら、馬良はけんめいに智恵をしぼる。
馬良はいままでの経験から、孔明を絶対的に信じていた。
その期待を孔明は裏切ったことがない。
一度もだ。
だから、生じた結果について、こんなふうに頭を使わねばならないことは一度もなかった。
孔明にすっかり依存する癖がついていたと反省しつつ、馬良はあれやこれやと考える。
「やはり、市場へ行って、べつの衣を仕入れてくるしかないのでは?」
「これほどの精巧な技巧をこらした布はそうはあるまいよ。
市場で売っているようなものでは、偽物だとすぐにばれてしまうぞ」
そうして趙雲は、いささかやつれた顔をして、ぼそりとつぶやく。
「やはり話をつけに」
行くべきかと皆まで言わせず、馬良はさえぎった。
「このような田舎でその勇名を地に落とすような真似をなさってはなりませぬ。
第一、亮くんが眠っているあいだに、貴殿のそのような振る舞いを見過ごしたとなったら、亮くんは一生、わたしを許さないでしょう」
実際に、孔明は怒り狂うであろう。
その恐ろしいさまを、馬良は想像することすらできない。
趙雲は、馬良の言葉に、とりあえず肯いてはいるものの、どこか不満げだ。
孔明が朝方までずっと起きていたのと同様に、主騎である趙雲も眠っていない。
冷静沈着が売りの武将が、そこいらの猪武者と変わらぬ有り様に劣化しているのは、睡眠不足が原因なのだ。
「趙将軍、ともかく落ち着きなさい。布は、とりあえず完成をしているのです。もしかしたら地主は布を見て、たしかに約束どおりであるといって、おとなしく引っ込むかもしれませぬ。それまで様子を見ても悪くはありませぬぞ」
「いささか楽観的に過ぎぬか」
趙雲が漏らした、思わぬ弱気なことばが、馬良の世話焼き気質を刺激した。
それはつまり、過剰なまでに、人のためにおのれを犠牲にしても、なんとかしなくては、と努力をしてしまう、損で自虐的な行動の発動を意味していた。
「大丈夫、お任せなさい。私も亮くんとともに、司馬徳操のもとで学んだ男ですぞ。たかが地方の地主、亮くんがいなくても。なんとかしのいで見せましょう。
趙将軍は、地主たちが来るまで眠って、英気を養ってらっしゃい。ちょうど亮くんも眠っているのだし」
「大丈夫なのか」
と、趙雲は眉をしかめる。
その、いまひとつな自分への信頼に、ひっそりと傷つきつつ、馬良は孔明を真似て、胸を張って見せた。
「ええ、大丈夫ですとも。さあ、お休みなさいませ」
趙雲は、あまり我を張って眠らないでいると、かえって馬良を傷つけるのではないか、という心優しい配慮から、
あまり納得していない様子ではあるが、仮眠をとるために、去っていく。
馬良は、趙雲がすっかり見えなくなるまで、必死に孔明の様子を想像し、参考して、虚勢を張っていたが、
しかし実は、なんの策も浮かんでいなかった。
いまから実家に帰って、幼常(馬謖)によい策を立ててもらうというのは、ダメ?
ふと気づくと、機屋の戸口に花嫁と花婿の一家が立っていて、じいっ、と馬良を見ている。
どうやら、馬良が趙雲に大丈夫だと請け負ったところから会話を聞いていたらしい。
この細くてちいさな若旦那(馬良はふつうの身長なのであるが、身の丈八尺の孔明や趙雲とならぶと、たしかに小さく見えた)が大丈夫だと言っている。
それならば信用してもよいのかしら、という顔をしている。
馬良は汗をたらたら流しつつ、
「任せておくがよい、ぞんぶんにもてなしてもらっただけの礼はするぞ」
と、これまたよせばいいのに言い切った。
どんどんドツボにハマりつつある自分に、はげしい自己嫌悪をおぼえつつ、カラカラと高らかに笑ってみせると(孔明がいつもそうするからだ)、余裕綽々、というふうにゆったりと歩いて、さりげなく門を出る。
そうして人がいないのをたしかめて、猛然と走り出して、ちかくを流れる小川の土手へ逃げ込んだ。
孔明の機織のお守りがてら、ちょっと気分転換に外を散歩したときに、みつけた静かな場所である。
「ああ、どうしたらよいのだ!」
だれに言うとはなしに、おもわず小川のせせらぎに向かって叫んでみる。
しかし、答えるのは逍遥とした風の声ばかり。
ここでうまく危機を乗り越えれば、日ごろこうむっている孔明への恩を返すことができるし、孔明の面子も保たれる。
しかし乗り越えることができなければ、花嫁は地主の息子のもとへいかねばならなくなり、機織をすることで周瑜という男の存在を乗り越えるきざしをみせている孔明は、ふたたび自信を喪失する。
もちろん、孔明を援けることができなかった馬良も趙雲も、おなじくらいに落ち込むだろう。
責任重大ではないか、とあらためてことの重さにうろたえつつ、馬良はうなった。
しかしあせればあせるほど、よい策は浮かんでこないのであった。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)