はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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虚舟の埋葬 14

2009年08月02日 16時15分49秒 | 虚舟の埋葬
その後、姜維が帰還し、楊儀と文偉、そして姜維は、連れ立って孔明の元へと向かった。
孔明は、三人に、魏延は、自分が死んだらかならずや北谷口より、兵を率いて南下してくるだろうと説き、それを防ぐため、自分の喪を伏せさせ、魏延を北谷口に置き去りにし、気づいて追ってきたところを迎撃せよ、と伝えた。
先に、趙直の夢占いの一件を、孔明によって伝えられていた姜維は、後顧の憂いを失くすためという孔明の言葉に沈黙し、異議を唱えてこなかった。

しかし、多くの問題も起こしたとはいえ、長い間、ともに戦ってきた仲間である。
魏延にも、言い分があるのではないか。
改悛の余地があるならば、機会を与えてやるべきではないのか。
時間が経つごとに、文偉は、そのことを強く思うようになっていた。

姜維は孔明の幕舎から立ち去ろうとしない。
姜維の顔色は、目に見えて悪くなり、まるで自分が死に行く人のようである。
孔明のために、遠方の村へ薬草を採りに行った健気さを思えば、哀れであった。
孔明より授かった策のための準備があるのであるが、文偉は、あえて姜維に声をかけずに、そのままにした。
師弟というのも違う。まるで親子のようだ。
子と、その父が、最期の別れに臨んでいる。
別れまでの短いあいだに、孔明が、姜維といることで、すこしでも苦しみが軽くなればよいと思った。
時間が足りないといって嘆き、これからの姜維の身を案じた孔明のことを思うと、また悲しくなってくる。
文偉は、姜維の分まで采配をすることにして、時間を過ごした。かえって、体と頭を使っているほうが、苦しまずに済み、冷静でいられた。




風の強い夜であった。
その夜、孔明は静かに世を去った。
姜維が、激しく感情を乱すところを、文偉は初めて見た。それは最初で最後のこととなる。
文偉は、号泣し、取り乱す姜維をなだめ、孔明の遺体を、侍医とたちが丁寧に整えていくのを見守った。
燭の明かりに浮かび上がる、孔明の遺体を見て、文偉は涙しながらも、おもわず笑ってしまった。
あんな薄暗がりで、懸命に自分を隠していたくせに、なんであろう、その表情は、まるで寝入っているかのように穏やかで、面貌はすこしも崩れておらず、無垢な少年のようであった。
激しく泣きつづける姜維の背をなぜたり、肩を抱いたりしてなだめつつ、文偉は、自分のもっとも美しく、楽しかった時代が、ともに棺に納められていくのを眺めていた。
自分の一部もまた、この人と共に、葬られていく。
二度と、戻ることはない。

姜維を、幼い弟にするように、けんめいになだめながら、ふと視線をおぼえて顔をあげれば、楊儀が、こちらを見て、目で、外へ、と伝えてくる。
文偉は、姜維が感情の波にさらわれて、自刃してしまわぬかと、そのことを恐れていたので、駆けつけてきた馬岱に姜維の世話を頼み、自分は楊儀とともに外へ出た。
風がうなり声をあげて、すべての幕舎を揺らしている。
それでも孔明は、自分の喪を伏せよと命じたため、ほかの幕舎は、日ごろと変わらぬ静謐さを保っている。
すでにほとんどが寝入っており、たまに、風の音のなかにまぎれて、馬のいななきが聞こえてくるだけだ。
振り返れば、孔明の幕舎だけが、異様な活気を呈しており、文偉は、自分が歩きながら夢を見ていて、目を覚めたなら、孔明がまだ生きているのではないかと夢想した。
生きていて、自分がこんな夢を見たのだと、笑って話せたら、どんなによいだろう。
愚かしい考えに、自分を叱る。
いまから、こんな心の弱いことでどうするのか。
ふたたび溢れた涙袖で拭い、濡れた頬を、秋風が乾かしてくれるのを待った。

「これより、各将をあつめ、すみやかに陣をととのえ、成都へ帰還する」
楊儀が言った。
自分よりも冷静な先輩官吏に、やはり、この方は、多くの経験を踏んでいるだけに、強いのだなと文偉は思う。
「文偉よ」
ふと、楊儀が、いつになく、声を殺して尋ねてきた。
篝火に浮かぶ楊儀の顔を見て、文偉は、思わず、後ずさりをした。
それは、悲しみと歓喜が複雑に混じった、人のものとも思えぬ不気味な顔をしていた。
悲しみはわかる。
しかし、なにを喜ぶ?
孔明を失った悲しみのあまり、狂ってしまったのではないか?
文偉がうろたえ、言葉を失くしていると、見ているのか見ていないのか、焦点も定かではない目で、楊儀は言った。
「我らは、成都に帰らねばならぬが」
「はい」
「その前に、魏将軍を討つ。さて、だれを殿(しんがり)にするべきか」
「何平が適任かと」
何平は、冷静な男である。
過度に感情的にならずに、命じられたとおりに動くことが可能だ。
そうか、と楊儀は満足そうに頷いて、それから肩を震わせた。
涙をこらえているのではない。
笑いをこらえているのである。
なぜに笑う。
孔明の死によって、楊儀の緊張が一気に解けてしまい、狂乱の域に達してしまったのか。
ぞっとする眺めであった。
これを狂っているといわずして、なんといおう。
文偉は、楊儀の心が、想像以上に痛めつけられているのを知った。


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