はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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虚舟の埋葬 15

2009年08月03日 19時29分15秒 | 虚舟の埋葬
「大丈夫でございますか」
文偉が問うと、とたん、楊儀は不機嫌そうに顔をしかめた。
「なにを大丈夫だと問うか。これほど目出度いことはないというのに」
「目出度い?」
鸚鵡返しにすると、楊儀は、声を立てずに、肩を震わせて笑った。
篝火に浮かび上がるその顔は、慣れ親しんだ上役のものではなく、悪鬼のそれに見えた。
「やはり、丞相は、考えを改めてくださったのだ。魏延めの首を、ようやく取ることができる。のう、文偉よ、魏文長を討ち、その後、成都に帰ったあとは、だれを武官の長に据えるべきかな。姜維であろうか。それとも王平かな」
「斯様なことは、陛下がお決めになります。いまは」
いまは、丞相の死を悼み、すみやかに行動を、と続けようとした文偉であるが、楊儀ははげしく顔をゆがめた。
「いまは、なんだという。陛下はお喜びになっておられるだろう。なんだ、その顔は。知らぬとは言わせぬぞ。みなは黙っているが、気づいておるはずだ。
陛下は、丞相が、いつおのれの地位を襲うかと、恐れておられたのだ。その心配がなくなったのだから、陛下のために目出度いと言って、なにが悪い。
丞相は亡くなられた。陛下は安堵されておる。下手に丞相のことを口に出せば、ご不興を買う可能性がある。水のように臨機応変に動かねばならぬぞ。わたしは、丞相とちがうということを、陛下に示さねば」
劉禅の気持ちを勝手に代弁し、支離滅裂な話を、うわ言のように語る楊儀を、文偉は呆然と見つめた。
あれほど孔明に庇われていながら、この男の本音は、これだというのか?
「丞相の死を、悲しく思われませぬのか」
「悲しいとも。それなりにご恩もある。しかし、文偉は若いから知らぬか。あの方は、先主の時代より、いつ帝位を襲うか判らぬ者として、つねに警戒されてもいたのだ。丞相が亡くなったことで、かえって真の平安が蜀に訪れよう」
「平安ですと? まだ世に賊がはこびっているというのに?」
文偉が言うと、楊儀は、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「勝ち目のない戦を繰り返す意味がどこにある。戦はもうよい。寿亭侯と共に荊州が失われた時点で、われらに勝ち目はもうなくなっていたのだ。丞相はそれを分かってくださらなかった。先主が亡くなられ、陛下がお若いことを幸い、ご自分の好きなように蜀を変えてしまわれた。
丞相の頑なさを、陛下は恐れていたのだよ。今後は、我らは蜀にあり、呉と魏がたがいに潰しあうところを眺めていればよい。そして、両国が疲弊したところを奪うのだ。
魏文長のように、血気にはやる男は不要だ。やつは、自分こそが先帝の志を引き継いだ、丞相はそれを曲げておる、などとうそぶいて、やたらと兵を動かそうとするが、蜀の内情を知らず、猪のように突進するばかりで能がない。たしかに兵には詳しいかもしれぬが、それとて、漢中の周囲では、というだけだ。やつこそ、井の中の蛙というべき輩ぞ。
魏文長を斬れという丞相の言葉は、死に際に、ご自分の過ちに気付き、今後は、つつしんで国を守り、漢中から北へは出てはならぬと、伝えようとしていたのだ。あの方も誇り高いゆえ、最後に己の過ちを口にすることは憚られたのであろうが、わたしには判っている」
「丞相を、愚弄なさるおつもりか?」
思わず声を尖らすと、するどく楊儀が睨みつけてきた。
「黙れ、おまえは長く内地にあり、平和のなかで物事を考えてきた。おまえや、おまえが懇意にしている蒋琬の考えなぞ、所詮は実情から遠い、机上の空論にすぎぬ。前線で命の駆け引きをしてきたわたしとは、重さがちがうのだ!」

それでは、魏延と同じではないかと、文偉は呆然と、憎憎しげに顔をゆがませる楊儀を見つめた。
楊儀は、そもそも、関羽に心服し、劉備の配下に加わった人物であった。
関羽や劉備など、先代の時代の武将をことさら美化し、かれらの生き様を称揚しながらも、志は引き継がず、安寧と地位を求めた。
それなのに、逆に、その生き様を冷徹に見据え、志を引き継ぎながらも、その手法は踏襲しなかった孔明に、ずっと反発を抱いていたのだ。

いや、嫉妬だ。
自分こそ先帝の志を守っていると思い込み、安全な場所にいて命を危険にさらすことも稀であった男が、本来、自分が座るべき地位にいることを、ずっと恨みに思っていたのだ。
諸葛孔明の人生は、楊儀が思っているように、安全であったろうか。
命を危険にさらしてこなかっただろうか。
安穏たる道ではなかったことを、二十年間、そばにいて、文偉は知っている。

なぜ。
文偉は、もうこの世にはいない孔明に、心で呼びかけた。
先代の時代を知っているという、その感傷から、楊儀を使い続けたのか。
楊儀の内側にある暗い想念を、読み通してもなお、許して、気づかぬ振りをして、使い続けたのか。
だとしたら、諸葛孔明という人は、なんと孤独で、なんと偉大であったのだろうか。
わたしには駄目だ。
このひとを許すことができそうにない。

「成都への帰還の準備をいたします」
それ以上、会話をつづけたくなかった。
楊儀のなかに押し殺されていたものが、溢れ出るさまを、眺めていたくなかった。
文偉は、楊儀に礼を取って、その前から去った。
風が吹き、腰に帯びた、翡翠の飾りが、丁丁と音を立てて揺れる。
楊儀は、自分が孔明の後継に選ばれたのだと、頭から信じ込んでいる様子である。
だが、それはない。
貴殿には、なにひとつ渡さぬ。
急激に冷えていく心のなかで、文偉はつぶやいた。


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