韓福《かんぷく》が出してくれた茶を飲みつつ、三人はたがいの近況を語り合った。
「玄徳さまは、軍師の策のとおり、兵を温存させるべく、曹操の動きを見張ってらっしゃいます。
陸口《りくこう》も烏林《うりん》も、いまのところ動きがなさそうですね」
「こうも何もないと、却ってよくない。曹操に力を与えるだけだ」
趙雲が言うと、胡済は部屋の窓を気にする。
そして、外にだれもいないとたしかめてから、ふたたび口をひらいた。
「叔至《しゅくし》(陳到《ちんとう》)どのの細作《さいさく》の情報なのですが、烏林で疫病が発生しているようです」
「なんと」
孔明と趙雲は顔を見合わせた。
まさに、周瑜が予見したとおりになったのである。
「どうかされましたか」
ふしぎそうにする胡済《こさい》に、孔明はかくかくしかじか、と周瑜の予想したことを説明した。
すると胡済もさすがに驚いたようで、腕を組んでうなる。
「さすがですね、いや、われらのほかに荊州《けいしゅう》の情報にくわしい者が周公瑾のそばにいるのか」
「どういうことだ」
「叔至どのによれば、流行っているのは風土病らしいのです。
おそらく、烏林の要塞の建築に借り出された地元の民から兵卒たちにうつったのでしょう。
妙な病でして、地元の者は重症にならないのですが、よそ者は、まるで魂が弾かれるように重症になり、死ぬ者すらいるとか。
曹操は、この病を防ぐのに、かなり手を焼いているようです。
そのうえ、北方の者たちは、やはり船に慣れないようでして、連戦の疲れもあって、船酔いがおさまらないようなのです。
そこへきて流行り病でしょう。曹操からすれば天を仰ぎたくなるほどでしょうね」
曹操憎しで、孔明は天罰だと言いかけたが、胡済によい影響を与えないことに気づき、黙った。
その代わり、趙雲が口をひらく。
「そんなありさまでは、まともに戦える者は少なかろうな」
「わたしが曹操だったら、風土病がおさまり、兵が船に慣れるように、春を待ちますがね。
ただし、そうすればするほど、荊州の民は兵糧や資金だけではなく労働力も搾り取られ、悲惨な目に遭うのです」
第二のふるさとである荊州を、これ以上、曹操に蹂躙されたくない孔明は、そこに曹操がいるかのように、部屋の隅の空間をにらんだ。
「わたしが周都督だったら、曹操を挑発して長江に引っ張り出すのだが」
「たしかに、水上でなら曹操の兵も弱る。
だが、曹操もそれをわかっているから、半端な挑発では出陣しないだろう」
趙雲に言われ、孔明はそのとおりだな、と思い直した。
そもそも、曹操の船団が小出しで出てくるのをいちいち叩くのもきりがないから、曹操自身が大軍を率いて出てくるように仕向けなければならない。
なるほど、そう考えると、勝つためには曹操に、自分が勝てるかもしれないと確信させなければならないわけだ。
そうなると、どうすればいいか……
「ところで偉度や、おまえはたくさん荷物を抱えてきたようだね、中身はなんだい」
すると、胡済は、はっとして、自分の持ってきた葛籠《つづら》をふり返った。
そして、顔を桃色に染めて、恥じ入る。
「申し訳ありませぬ、本来の目的を忘れるところでした」
言って、胡済は葛籠の中から、たくさんの書状を取り出した。
目を丸くする孔明に対し、書状をひとつひとつ分けながら、胡済はいたずらっぽく、にっ、と笑う。
「これは、軍師の配られた手紙に対する、皆さま方の返書です」
「では」
「はい。中身の詳しい内容は分かりませぬが、わたしが受け取ったさいには、皆さまは全員が明るい顔をなさって、軍師にくれぐれもよろしくとおっしゃっておりました」
「おどろいた。偉度よ、おまえは自ら手紙を回収してまわったのか」
「ひとりでではありませぬよ。さすがにその時間はありませんでした。
わが兄弟や、例の便利屋たちに手伝ってもらって、手紙を回収したのです。
どうぞ中身をおあらためください」
「よくやってくれた、ありがとう、偉度」
孔明が頬を紅潮させて、胡済の手を取っていたわるようにぽんぽんと軽くたたくと、こそばゆいのか照れているのか、胡済はふいっと顔をそむけてしまった。
「あなたのその、分かりやすすぎるところ、どうにかなりませんか」
「これがわたしだ、慣れろ」
言いつつ、孔明は手紙をひとつひとつ丁寧に開いて見る。
馬良を筆頭に、弟の馬謖、ぜひに陣営に加わってほしかった陳震に廖立《りょうりつ》はもちろんのこと、司馬徽《しばき》(水鏡先生)の私塾で一緒だった仲間や、手紙だけでしかやり取りしていない者たちまでもが、色よい返事を寄越してくれていた。
孔明は満足して、大きく鼻から息を出す。
「これでよい。荊州の主だった有能の士は、ほとんどが良い返事をくれた」
「軍師、手紙についてなのですが」
と、胡済はまた声をひそめた。
「皆さま方に手紙を配って、引き抜きをしようとしていたのは、軍師だけではないようです」
「曹操の手の者か」
孔明がたずねると、意外にも胡済は首を横に振った。
「どうやら、周公瑾のもとにいる龐士元(龐統)どのも同じことをしたようなのです……この戦で曹操は負ける、孫将軍の家臣になるのが御身のため、一族のためになる、と」
「で、そちらへの返事は、みなどうしたのだろう」
胡済は軽く肩をすくめた。
「中には両天秤にかけている方もいるかもしれませんが、ほとんどが軍師のお誘いに傾かれているようでした。
それはそうでしょう、軍師と士元どのでは、立場がちがう。あちらは周公瑾の功曹にすぎず、あなたは劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)の軍師。
しかも荊州に深い縁があるのは、周公瑾ではなく劉豫洲のほうですし、やはり馴染みのあるほうに、皆さまがたは賭けたくなるものなのでは」
「そうか。おまえの言うとおりかもしれぬ」
応じつつ、孔明は龐統を少しばかり気の毒に思った。
胡済の言う通りで、周瑜は龐統を家臣として重く扱っていない。
もし重く用いているのであれば、もっと表に出てきていいはずだ。
周瑜はおのれの才覚を信じ切っていて、この戦のほとんどを独力で切り抜けられると思っているのだろう。
と同時に、自分と龐兄はいま、まちがいなく競争相手になっているのだなと実感する。
どちらが勝つか。
いや、勝たねばならない。
劉備のためにも、荊州の人々のためにも。
つづく
「玄徳さまは、軍師の策のとおり、兵を温存させるべく、曹操の動きを見張ってらっしゃいます。
陸口《りくこう》も烏林《うりん》も、いまのところ動きがなさそうですね」
「こうも何もないと、却ってよくない。曹操に力を与えるだけだ」
趙雲が言うと、胡済は部屋の窓を気にする。
そして、外にだれもいないとたしかめてから、ふたたび口をひらいた。
「叔至《しゅくし》(陳到《ちんとう》)どのの細作《さいさく》の情報なのですが、烏林で疫病が発生しているようです」
「なんと」
孔明と趙雲は顔を見合わせた。
まさに、周瑜が予見したとおりになったのである。
「どうかされましたか」
ふしぎそうにする胡済《こさい》に、孔明はかくかくしかじか、と周瑜の予想したことを説明した。
すると胡済もさすがに驚いたようで、腕を組んでうなる。
「さすがですね、いや、われらのほかに荊州《けいしゅう》の情報にくわしい者が周公瑾のそばにいるのか」
「どういうことだ」
「叔至どのによれば、流行っているのは風土病らしいのです。
おそらく、烏林の要塞の建築に借り出された地元の民から兵卒たちにうつったのでしょう。
妙な病でして、地元の者は重症にならないのですが、よそ者は、まるで魂が弾かれるように重症になり、死ぬ者すらいるとか。
曹操は、この病を防ぐのに、かなり手を焼いているようです。
そのうえ、北方の者たちは、やはり船に慣れないようでして、連戦の疲れもあって、船酔いがおさまらないようなのです。
そこへきて流行り病でしょう。曹操からすれば天を仰ぎたくなるほどでしょうね」
曹操憎しで、孔明は天罰だと言いかけたが、胡済によい影響を与えないことに気づき、黙った。
その代わり、趙雲が口をひらく。
「そんなありさまでは、まともに戦える者は少なかろうな」
「わたしが曹操だったら、風土病がおさまり、兵が船に慣れるように、春を待ちますがね。
ただし、そうすればするほど、荊州の民は兵糧や資金だけではなく労働力も搾り取られ、悲惨な目に遭うのです」
第二のふるさとである荊州を、これ以上、曹操に蹂躙されたくない孔明は、そこに曹操がいるかのように、部屋の隅の空間をにらんだ。
「わたしが周都督だったら、曹操を挑発して長江に引っ張り出すのだが」
「たしかに、水上でなら曹操の兵も弱る。
だが、曹操もそれをわかっているから、半端な挑発では出陣しないだろう」
趙雲に言われ、孔明はそのとおりだな、と思い直した。
そもそも、曹操の船団が小出しで出てくるのをいちいち叩くのもきりがないから、曹操自身が大軍を率いて出てくるように仕向けなければならない。
なるほど、そう考えると、勝つためには曹操に、自分が勝てるかもしれないと確信させなければならないわけだ。
そうなると、どうすればいいか……
「ところで偉度や、おまえはたくさん荷物を抱えてきたようだね、中身はなんだい」
すると、胡済は、はっとして、自分の持ってきた葛籠《つづら》をふり返った。
そして、顔を桃色に染めて、恥じ入る。
「申し訳ありませぬ、本来の目的を忘れるところでした」
言って、胡済は葛籠の中から、たくさんの書状を取り出した。
目を丸くする孔明に対し、書状をひとつひとつ分けながら、胡済はいたずらっぽく、にっ、と笑う。
「これは、軍師の配られた手紙に対する、皆さま方の返書です」
「では」
「はい。中身の詳しい内容は分かりませぬが、わたしが受け取ったさいには、皆さまは全員が明るい顔をなさって、軍師にくれぐれもよろしくとおっしゃっておりました」
「おどろいた。偉度よ、おまえは自ら手紙を回収してまわったのか」
「ひとりでではありませぬよ。さすがにその時間はありませんでした。
わが兄弟や、例の便利屋たちに手伝ってもらって、手紙を回収したのです。
どうぞ中身をおあらためください」
「よくやってくれた、ありがとう、偉度」
孔明が頬を紅潮させて、胡済の手を取っていたわるようにぽんぽんと軽くたたくと、こそばゆいのか照れているのか、胡済はふいっと顔をそむけてしまった。
「あなたのその、分かりやすすぎるところ、どうにかなりませんか」
「これがわたしだ、慣れろ」
言いつつ、孔明は手紙をひとつひとつ丁寧に開いて見る。
馬良を筆頭に、弟の馬謖、ぜひに陣営に加わってほしかった陳震に廖立《りょうりつ》はもちろんのこと、司馬徽《しばき》(水鏡先生)の私塾で一緒だった仲間や、手紙だけでしかやり取りしていない者たちまでもが、色よい返事を寄越してくれていた。
孔明は満足して、大きく鼻から息を出す。
「これでよい。荊州の主だった有能の士は、ほとんどが良い返事をくれた」
「軍師、手紙についてなのですが」
と、胡済はまた声をひそめた。
「皆さま方に手紙を配って、引き抜きをしようとしていたのは、軍師だけではないようです」
「曹操の手の者か」
孔明がたずねると、意外にも胡済は首を横に振った。
「どうやら、周公瑾のもとにいる龐士元(龐統)どのも同じことをしたようなのです……この戦で曹操は負ける、孫将軍の家臣になるのが御身のため、一族のためになる、と」
「で、そちらへの返事は、みなどうしたのだろう」
胡済は軽く肩をすくめた。
「中には両天秤にかけている方もいるかもしれませんが、ほとんどが軍師のお誘いに傾かれているようでした。
それはそうでしょう、軍師と士元どのでは、立場がちがう。あちらは周公瑾の功曹にすぎず、あなたは劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)の軍師。
しかも荊州に深い縁があるのは、周公瑾ではなく劉豫洲のほうですし、やはり馴染みのあるほうに、皆さまがたは賭けたくなるものなのでは」
「そうか。おまえの言うとおりかもしれぬ」
応じつつ、孔明は龐統を少しばかり気の毒に思った。
胡済の言う通りで、周瑜は龐統を家臣として重く扱っていない。
もし重く用いているのであれば、もっと表に出てきていいはずだ。
周瑜はおのれの才覚を信じ切っていて、この戦のほとんどを独力で切り抜けられると思っているのだろう。
と同時に、自分と龐兄はいま、まちがいなく競争相手になっているのだなと実感する。
どちらが勝つか。
いや、勝たねばならない。
劉備のためにも、荊州の人々のためにも。
つづく
※ 胡済が持ってきた知らせは、まずは良い知らせ。
さて、次回は……? おたのしみにー(*^▽^*)