はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

浪々歳々 4

2020年05月02日 10時10分28秒 | 浪々歳々
孔明の警護をしている兵士たちが、趙雲の姿を見ると、とたんに威儀をただして、起立する。
不意に走った緊張に、執務室にいた孔明の主簿をはじめとする文官たちも、いっせいに趙雲と馬良を見た。
そうして、部屋の主にて、荊州三郡の主、孔明は、筆を止めると、顔をあげた。
意外そうに目を開くが、それも一瞬のことである。蝋で固めたような青白い顔をしたまま、孔明は言う。
「久しいな」
孔明が言うと、趙雲も答える。
「まったくだ」
馬良は、というと、礼をとりかけていたのであるが、緊迫感のあるふたりのやり取りのあいだにあって、一瞬にしてその場から忘れられてしまった形となった。
孔明はすこしも、馬良を見ない。
戸惑いつつ、成り行きを見ていると、趙雲が、これもまた、何事かと見つめている文官たちに言った。
「すまぬが貴兄ら、席を外してくれぬか。軍師と大事な話があるのだ」
「そういうわけには参りません」
と、孔明より先に口を開いたのは、甲高い声をした、年若い主簿である。
「ご覧下さいまし、この、軍師の決済を待っている書類の山を! わずかな時間も惜しいほどなのでございます。いかな趙将軍とて、邪魔は許されませぬ」
その主簿は、孔明がどこからか拾ってきた男である。
たしかに有能で、孔明に無比の忠誠を誓っているにはちがいないのであるが、たまに分限というものを忘れて、ひどく居丈高な態度を取ることがある。
馬良も、何度もやりあったことのある若者だ。
しかし、趙雲は、孔明から目を外さないまま、言う。
「聞こえぬか。俺は外せ、と申したのだ」
恫喝ではなかった。
しかし、その押し殺した声の醸し出す威圧感に、主簿はぐっと言葉を詰まらせ、黙って、抱えていた書簡を卓に置く。
それを合図に、馬良と趙雲、孔明以外の人間が、すべて部屋から退出した。
「よいか?」
と、趙雲がたずねると、孔明は、今朝、馬良の屋敷を出たのとおなじ、血の気のない顔で苦笑する。
「よいもなにも、これでは、わたしはなにもできない」
「ひどい顔色だな。ろくに食べてないのであろう」
馬良がおどろいたことには、趙雲はまるで兄弟にするように…いや、馬良は弟の馬謖にさえ、こんなふうにすることがないと思うが…卓に座ったままの孔明の頬に触れ、わずかな力で上を向かせた。
孔明はとりたて嫌がるでもなし、趙雲がおのれの顔をのぞきこむのをゆるし、自身もまた、無感情な眼差しを趙雲に向けている。
正直なところ、馬良は、この二人がこれほどに仲が良いとは知らなかった。
だいたい、孔明は、親友同士の無邪気なじゃれ合いさえ、嫌がった。

襄陽時代、酔っ払って、めずらしく解放的になった龐統が、背後から孔明に抱きついたことがある。
孔明は上戸なので、酔っても自分を失うことはないのであるが、龐統が抱きついたとたんに、いきなり振り向きざまに龐統の顔のど真ん中に猛烈なゲンコツを食らわした。
おかげで、龐統の顔の均整が、ソラマメみたいにいびつに歪んでいるように見えるのは、実は孔明が横っ面を殴ったせいだ、などというまことしやかな噂が流れたこともある。
もちろん、龐統は、孔明と知り合うまえからソラマメであったのだが。
後日談として、孔明は、龐統への詫びに、戦記オタクの龐統のため、叔父の蔵書の貴重な何冊かを贈ったという話である。

それはともかくとして…
「なにが気にかかっているのだ、龐統か」
「埒もない。龐統とはうまくやっている」
「ならば曹操か?」
「どうかな。いろいろだ」
はぐらかす孔明に、趙雲は言う。
「江東であろう」
すると孔明は、片手で、おのれの頬に触れていた趙雲の手を払いのけ、つまらなさそうに顔をそむけた。
「さきほど主簿が言った言葉が聞こえなかったのか。わたしは忙しい。言いたいことがそれだけならば、出て行ってくれ」
「それはないよ、亮くん、趙将軍は、きみを心配して飛んできたのだよ」
とたん、孔明はぎょっとして、馬良のほうに顔を向ける。そして無情にこう言った。
「なんだ、良くん、いるならひと言、ここにいる、と言ってくれたまえ」
趙雲も気まずそうに言う。
「貴殿、退出しておられなかったのか」
「最初から、ずっとここにおりました」
自分も、その他大勢のひとりなのか、ひどいじゃないか、と馬良は思ったが、一対二の、場違いな輩をとがめるような空気にいたたまれない。
「…出て行きます」
昨夜の様子を心配し、趙雲を連れてきたのは自分である。
なのに邪魔者あつかい、というのは理不尽だ。
孔明は、馬良が退出の礼を取ると、わずかに引き止めるか迷ったようであるが、しかし傍らにいる趙雲の姿をちらりと見て、結局、引き止めてくれなかった。





『主騎とは、ああいうものなのか?』
真面目な馬良は、いま見た光景を、ご丁寧に分析していた。
劉表の主騎を見たことがあるが、主人のうしろに付いて、口を挟むこともなく、周囲の様子をじっと番犬のように窺っていた。
もちろん、それは現在の劉備の主騎をつとめる魏延も同様である。
あんなふうに、いきなり主たる人間の領域に踏み込み、傍若無人に振る舞うのは、それこそ主騎というものを趙雲が勘違いしている、としか思えない。
だが、孔明はそれを是としているようである。
馬良は、ちらりと扉のほうを見る。あの扉越しに、いまどんな会話がなされているのか。
気になる。
とはいえ、育ちが良い馬良は、そのことが逆に足をひっぱって、盗み聞きができない。
そうやって、孔明と趙雲の話が終わるのを待っていると、おなじく追い出された文官たちが書類を抱えてやってきて、馬良に孔明の代理を頼んできた。
どうやら、仕事が進まないのに業を煮やした短気なのが、
「軍師が駄目なら、馬良でいいや」
と判断したのを先頭に、ほかの文官たちも馬良を頼ってくるようになったらしい。
『あきれるほどに仕事の虫ばかり集めたものだな』
と、ミツバチの如く書簡を運んでくる文官たちをながめやり、そこに真面目とか、熱心、というよりも、どこかに『せねばならぬ』といった強迫めいたものを感じ取り、馬良はひとり、友の身を案じた。





かなり長い時間が経過した。
そろそろ陽が傾きつつある。
仕事もひと段落し、帰り支度をはじめている者もあらわれた。
仕事を頼んでくる者もいなくなり、手持ち無沙汰になった馬良は、さて、どうしたものかと思っていると、ようやく孔明の執務室より趙雲があらわれた。
見たところ、趙雲は憔悴しているでも、苦りきっているでもない。
「将軍、軍師は如何?」
「うむ…重症だな」
その言葉にぎょっとした。
この人は、医術の心得もあるのか?
「そういうわけで、俺は明日の用意があるのでこれにて失礼いたす。貴殿は如何なされるおつもりか?」
「そういうわけとは、どういうわけなのか、ご説明をいただけますか」
「ああ、申し訳ござらぬ。軍師は、明日から休暇をとることに相成りました。俺はいまから主公の了解を戴きに参ります」
「軍師が、それを承知したのですか」
馬良は、驚嘆とともに趙雲を見た。
江東の開国派をことごとく、その弁舌で沈黙させ、劉備の起死回生のための活路を切り拓いた男に対し、どんな説得をしたのだ、このひとは。
「で、貴殿は、われらとともに付いてこられるのか?」
「軍師さえよろしければ」
「ならば助かる…あれは俺だけでは面倒を見きれぬ」
孔明は、趙雲には、おのれの心が抱えているものを打ち明けたのだ。
そう思うと、馬良はすくなからず、思いもかけない多面性を持ち合わせる武人に嫉妬すらおぼえたが、それは表には出さなかった。





趙雲が行ってしまったあと、馬良は、孔明の執務室をそおっと覗き見た。
茜色に染まる部屋の卓で、孔明は、気むずかしそうに頬杖をついて、夕陽に染まるもろもろの物と、その作り出す濃い影をながめていた。
馬良は、はつらつとした孔明を期待したのであるが、残念ながら、そんなにすぐ回復するような悩みではないらしい。
趙雲とは、どんな会話があったのだろうか。
「大丈夫かい、亮くん」
「もとより大丈夫さ。わたしはよいが、きみ、代わりにいろいろ忙しい目にあわせてしまったようだね、すまなかった」
「気にしないでくれたまえ。それより明日から休暇だって?」
「表の声が聞こえたのだがね、君が良いのであれば、一緒に来てほしい。でないと、気詰まりで仕方ないからね」
「気詰まり?」
すると孔明は、ちいさなため息をついて、嘆かわしい、というように頭を軽く振る。
「子龍も疲れているのだよ。主公を批判するつもりではないから、ここは親友の君にだけ打ち明けるのだが…子龍は、奥向きの警護などという仕事には向いておらぬのだ。人と人の間に入って、互いがうまく行くように調整し、なおかつ警備をする、なんていうのは、子龍の器にあまる」
「あまる、というと、趙将軍は、奥向きの警護ができないほどの小さい器だと?」
「逆だよ。子龍の器には仕事がちいさすぎて、かえって疲れてしまうのだ。みな、あまり気付いておらぬようだが、あれは明日からでもわたしの代わりをできるくらいの能力があるぞ。
主公もそれをわかっていて、趙雲を桂陽の太守から、奥向きの警備に替えたのだ」
「なぜだね?」
孔明がこれほどまでに趙雲を高く買っている、という事実にうろたえつつ、馬良はたずねた。
すると、孔明は、にやりと不敵に笑う。
「女だよ。奥向きの警護となると、自然と女と接する機会が多くなる。主公は、早いところ子龍に妻を娶らせたいと考えているので、女の多い環境に子龍を置いて、よい出会いを作ってやろう、などと考えておられるのだ。
自分が幸せだと、人も幸せにしたくなるらしいな。もちろん、子龍も主公のお考えには気付いている。だが、本人はまったくその気がないので、主従は悲しくすれちがう。これは疲れるぞ」
「家庭も、なかなかよいものだけれどね。しかし本人にその気がないのなら、苦痛だろうな。きみ、間に入ってやればいいじゃないか」
「いやだ。よけいに面倒になりそうな気がする」
「面倒? どうしてだい」
「わたしがどうしても思い通りにできない人間は、この世に三人いる。教えてあげよう。姉上、主公、そして子龍だ」
「なるほど、それでは駄目だな」
納得しながら、趙雲の話題になると、孔明が、すっかり以前のような、生き生きとした調子を取り戻していることに、馬良は気付いていた。
なにやら落ち着かない。
「亮くん、きみが明日から休むのは、趙将軍のためなのかい?」
「そうだとも。わたしはちっとも疲れちゃいないのだが、わたしが休まねば、主騎たる子龍も休めぬであろう。
子龍も意地っ張りでな、最初は、わたしの様子がおかしいとか、体を壊したら大変だとか、わたしのことばかり言っていたのだがね、実はどうも、わたしにかこつけて、おのれの境遇を訴えたかった様子なのだ。
あの男が愚痴をこぼすところなど初めて見たよ。なかなか貴重な体験だった。わたしも、心配りが足りなかったと、おおいに反省しているところなのだよ」
ははは、と孔明は高らかに笑う。
『肉を斬らせて骨を絶つ』
そんな言葉が馬良の脳裏を過った。

つまり趙雲は、孔明に休めと説得したのであるが、孔明は、もともと天邪鬼であるから、けしておのれの体調の不良を認めずに、かえって頑なになってしまったのだ。
これでは埒が明かぬと判断し、趙雲は、策を切り替え、自分が休みたいので、孔明にも休んでほしい、と頼む作戦に出た。そうしてそれは、みごとに成功した、というわけである。
そんな心理戦が密室で数時間にもわたり繰り広げられていたのだ。
しかし出てきた趙雲が、けろりと涼しい顔をしていたのを思い出し、孔明の評価も妥当である、ただ者ではない、と馬良はあらためて感心した。
孔明の話を聞いて、あれこれ想像しているほうが、よっぽど疲れる。
だが…
『亮くんが、趙将軍の駆け引きに気づかぬ、というのも、らしくない。やはり相当に心身に疲労がたまっているのだ』
重症だ、と趙雲が言ったのも、そういった点にあるのだろう。
以前の孔明ならば、趙雲の思惑もすぐに看過しただろう。看過したうえで、その策に乗っただろう。
だが、孔明は、ほんとうに気づいていない様子である。
『明日からの休暇、友として、亮くんが芯から心安らかにできるように努力せねば』
と、固く誓った馬良であった。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)


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