人間は本来的に怠惰だ。必要に迫られて始めて思考する。というより、必要に迫られているときすでに事態は切迫しており、しばしば見受けられることだが、破局はもう目前に差し迫っているということでもある。
「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
だから人間は強制的かそれとも暴力的かでないかぎり思考しようとはしない。できれば何も考えずにいたいと常々おもっている。ところが、或る日のプルーストに次のような思考が現われた。
「私の就寝の舞台とドラマ、私にとってそれ以外のものが、コンブレーから、何一つ存在しなくなって以来、すでに多く年月を経ていたが、そんなある冬の日、私が家に帰ってくると、母が、私のさむそうなのを見て、いつもの私の習慣に反して、すこし紅茶を飲ませてもらうようにと言いだした。はじめはことわった、それから、なぜか私は思いなおした。彼女はお菓子をとりにやったが、それは帆立貝のほそいみぞのついた貝殻の型に入れられたように見える、あの子づくりでまるくふとった、《プチット・マドレーヌ》と呼ばれるお菓子の一つだった。そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせた」(プルースト「失われた時を求めて1・P.74」ちくま文庫)
「《プチット・マドレーヌ》と呼ばれるお菓子」の記憶が持つ暴力的かつ強制的なまでに強烈な印象が契機となって、あの長い「失われた時を求めて」を思考させる方向へ語り手を誘導したのだ。要するにプルーストは「《プチット・マドレーヌ》と呼ばれるお菓子」の記憶に「ショックを受けて思考する」ことになった。人間は一体何にショックを受けて思考し始めるか自分でも知らない。しかしこのショックによって喚起された記憶はあいまいなものではなく、喚起されるごとにはっきりと姿形を変えるものでもある。アルベルチーヌの印象。それは或るときはモル的なファシズム集団の一員として喚起される。その描写はまるでナチスの行進をおもわせる。読者は「等質な全体」とはそういうものだと理解するだけでなく、そのような「等質な全体」なら今でもしばしば街中で見かけるということに気づく。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
さらに或るときは、まったく違ったアルベルチーヌが出現する。ファシズム的な一切の要素から切り離されてさまざまに姿を変える。その都度、生成変化《として》登場する。しかしアルベルチーヌが変化《として》出現するとき、その都度、語り手の側もまた生成変化していることに注意しておきたい。
「そうしたさまざまのアルベルチーヌは、投光機(プロジェクター)から出てくるライトの無数に変わるたわむれのままに、その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがっていた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.434」ちくま文庫)
「そのときの私次第で、私のまえにけっして同一の姿をあらわさなかったそのアルベルチーヌの一人一人を、ちがったふうにとりあげなくてはならなかっただろう、そんなさまざまのアルベルチーヌは、あの多様な海ーーー便宜上私は単数で海と呼んでいるのだが、じつはつぎつぎに変わってゆくあの多様な海ーーーに似ていたのであって、そんな多様な海のまえに、ほかでもないニンフのアルベルチーヌが、浮きだしているのであった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.435」ちくま文庫)
「私の唇をアルベルチーヌの頬に向けるその短い行程において私が目に見たのは、十人のアルベルチーヌなのだ、そしてこのたった一人の少女がいくつもの顔をもった女神のようになって、私が近づこうと試みると、このまえバルベックで最後に私が見た顔は、またべつの一つの顔にとってかわるのであった」(プルースト「失われた時を求めて5・P.98」ちくま文庫)
このような現象に特異な点は何らない。思考はショックを受けないかぎり思考しないという人間の怠惰ぶりの証拠だからだ。ところがいったん決定的なショックを受けるとこんどは思考することから逃れられなくなるという模範例のような小説ではある。そして特異な点ではない点として身近な人物の死についての記述に言及しておくことは無駄ではないだろう。どのような身近さかは別として、一般に身近な人物の死について、その死が、思っていたほどに身近には感じられないということはしばしば経験することでもある。プルーストは次のように描いている。
「酸素の音はすでにやんでいて、医師がベッドから離れた。祖母は死んでいた」(プルースト「失われた時を求めて5・P.62」ちくま文庫)
「私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんーーー。私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった、彼女が病気の発作を起こしたあのシャン=ゼリゼ以来はじめて、無意志的で完全な回想のなかに、祖母の生きた実在を見出した」(プルースト「失われた時を求めて6・P.267」ちくま文庫)
「祖母の生きた実在を見出し」て始めて、語り手は、語り手自身の「苦しみ」を引き受け尊重していこうと決める。
「単に苦しむことをねがっただけではなく、私が受けた苦しみの独特さ(オリジナリティ)を、私がふいに、無意志で、それを受けた状態のままで、尊敬してゆこうとしたからだ」(プルースト「失われた時を求めて6・P.272」ちくま文庫)
実際の「祖母の死」から語り手による苦痛によってしか思い出すことができない「語り手に固有の祖母の死」に到達するまで、文庫本にして約七〇〇頁の開きがある。そのあいだは全然別の話がつづいている。そういうことはしばしばある。そしてどのような思考であるにせよ、それぞれに固有の時間をもつ、あるいは別の時間軸の導入がある、という認識を忘れるべきではないだろう。
さて、ジュネ。
「泥棒日記」の冒頭はこうだ。
「徒刑囚の服は薔薇色(ばらいろ)と白の縞(しま)になっている。もし、この、わたしが居心地よく思う世界を、自分の心の命ずるままに選びとったのだとすれば、わたしには少なくともそこに自分の欲するさまざまな意味を見いだす自由はあるだろう、ーーー《それで、花と徒刑囚の間には緊密な関係がある》。一方の繊弱さ、繊細さと、他方の凶暴な冷酷さとは同じ質のものなのである(わたしの心の感動は、その片方から他方へとゆく振動にほかならない)。わたしは、徒刑囚ーーーか犯罪者ーーーを描くことがあるたびに、その男を数々の花で飾ってやるだろう、そのため彼は花々の下にその姿を消し、そして彼自身一つの巨大な、新しい花となるだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.5」新潮文庫)
ジュネは明らかに生成変化について書いている。「感動は、その片方から他方へとゆく振動にほかならない」。これはニーチェのいう「情動」の動きにほかならない。ドゥルーズとガタリはこう述べている。
「生成変化が情動そのものであり、欲動それ自体であるということ、そしてこれは何の表象〔代理〕でもない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.205」河出文庫)
「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.234」河出文庫)
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)
ステレオタイプからの逃走線という意味では、ジュネがごくふつうに行なっている「一つの世界を表象する義務から自由になった」「あらゆる創造」と高速でなされる「アレンジする行為」はまさにそうだとおもわざるをえない。
その意味で、ジュネによる次の文章を打ち捨てるわけにはいかない。
「うつむけた視線は、ぼんやりした灰色の霧を通して、足もとの岸壁の粘着性ある黒い石を眺めていた。やがて脈略もなく、彼はマリオのさまざまな特色を吟味しはじめた。マリオの手。親指の先から人さし指の先にいたる曲線─彼はこれに長いこと思いを凝らしていた。深い皺。広い肩幅。無関心な態度。ブロンドの髪。青い眼。ノルベールの口髭。てかてかの円い頭。そしてまた、マリオの親指の爪は漆を塗ったような美しい黒、完全な黒だった。黒い花というものは存在しないが、彼のつぶれた親指の先端の、あの黒い爪は、どうしても一つの花を思わせるのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.52~53」河出文庫)
淫売屋の亭主で筋肉隆々なノルベールと同じく筋肉隆々で職業は警察官のマリオ。二つの巨大な筋肉の塊りに追いつめられたクレル。クレルはその危機において、マリオの親指の爪の「漆を塗ったような美しい黒」《と》「黒い花」とを不意に接続させる。瞬時にして、クレルにおいて、マリオの真っ黒い爪はもう一つの真っ黒い花へと生成する。変容する。クレオは瀬戸際であるにもかかわらず、むしろ瀬戸際であるがゆえ、マリオの爪を花へと変えた。マリオの知らないところで、マリオの黒い爪は黒い花に《なる》。マリオはそのことを知らない。
またクレルに関する噂について触れておこう。クレルは周囲からこうおもわれている。
「クレルの仲間たちも、クレルに関して次のように言うことができるだろう。すなわち、《彼はおかしな女衒(ぜげん)である》と。なぜかといえば、クレルはほとんど毎日のように、自分自身の突拍子もない、他人の顰蹙(ひんしゅく)を買うようなイメージを彼らに提供していたからである。彼らのなかにあって、クレルはちょうど一つの事故のように、まぶしい目ざわりな光を放っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.51」河出文庫)
クレルは女衒だが顰蹙を買うような女衒であり一つの事故のようだ、とおもわれている。だからおそらくクレルは女衒仲間のあいだでも異邦人に属している。その意味で顰蹙ではあるが仲間でもある。ところが目ざわりにおもえる光ほどもあるような輝きを秘めている。クレルは女衒で顰蹙で事故でもある。女衒じたいが世間の中では顰蹙である以上、クレルはそのまぶしさにおいて一つの事故として取り扱われるほかない。クレルはどこからどう見ても一つのまぶしい事故にしか見えない。クレルは事故だ。そう読まれるべきだろう。
ところで前回、ジュネ自身によるスパイ行為に触れた。一方、このところマスコミでは、日韓関係の中での軍事情報のやりとりがうるさくて仕方がない。「うるさい」を漢字で書くと「五月蝿い」になる。一九六七~一九六八年にかけて生まれた世代からすれば、まだこのような漢字学習というものが学校に残っていてそれなりに面白かった思い出がある。で、それはそれとして。東西冷戦当時、軍事機密というものは、たとえ同盟国であるにせよ、ないにせよ、密約があるとかないとか、公式に発表される次元のものではまったくなかった。もちろん日韓米軍事同盟はあった。しかしそれは公式に同盟を組んでいるのだという単なる宣言に過ぎない。実際の内情がどうなっているかなど知らされるわけもない。事実上、日本、韓国、アメリカの中には日韓米以外に属する諜報部員は本当にいないのかと問われればそんなことはまったくあるはずもなく、実際のスパイならそれこそ世界中から離合集散していたに違いない。特に米ソには。それを思うと、一般のマスコミを通じて報道される情報というものは一体なんなのだろうかと疑問に思えて仕方ないわけである。軍事機密というものはたとえ知っているとしても誰が誰にどのような仕方で教えたりあるいは嘘を教えたりするのか、ただ単なる習慣として存在しているのであって、間違っても一般のマスコミが何がしかの軍事機密について事実を事実そのまま知っていたりすることはあり得ないとおもうのである。軍事機密あるいは人質問題さらに金銭的取引。それらについてなぜ一般のマスコミやワイドショーまでがあたかも事実を知っているかのように報道できるのか。ごくふつうに考えても、そんなこと誰も表沙汰にしない。またグローバル資本主義の前提として、公式に破棄するとか破棄しないとかいったことに一体どれほどのダメージあるいは深刻な影響があるというのだろうか。そもそも公式と非公式との境界線を抹消してしまうのが資本主義の要請であるというのに。したがって、何がなんだかさっぱりわからないと感じる今日この頃ではある。
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「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
だから人間は強制的かそれとも暴力的かでないかぎり思考しようとはしない。できれば何も考えずにいたいと常々おもっている。ところが、或る日のプルーストに次のような思考が現われた。
「私の就寝の舞台とドラマ、私にとってそれ以外のものが、コンブレーから、何一つ存在しなくなって以来、すでに多く年月を経ていたが、そんなある冬の日、私が家に帰ってくると、母が、私のさむそうなのを見て、いつもの私の習慣に反して、すこし紅茶を飲ませてもらうようにと言いだした。はじめはことわった、それから、なぜか私は思いなおした。彼女はお菓子をとりにやったが、それは帆立貝のほそいみぞのついた貝殻の型に入れられたように見える、あの子づくりでまるくふとった、《プチット・マドレーヌ》と呼ばれるお菓子の一つだった。そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせた」(プルースト「失われた時を求めて1・P.74」ちくま文庫)
「《プチット・マドレーヌ》と呼ばれるお菓子」の記憶が持つ暴力的かつ強制的なまでに強烈な印象が契機となって、あの長い「失われた時を求めて」を思考させる方向へ語り手を誘導したのだ。要するにプルーストは「《プチット・マドレーヌ》と呼ばれるお菓子」の記憶に「ショックを受けて思考する」ことになった。人間は一体何にショックを受けて思考し始めるか自分でも知らない。しかしこのショックによって喚起された記憶はあいまいなものではなく、喚起されるごとにはっきりと姿形を変えるものでもある。アルベルチーヌの印象。それは或るときはモル的なファシズム集団の一員として喚起される。その描写はまるでナチスの行進をおもわせる。読者は「等質な全体」とはそういうものだと理解するだけでなく、そのような「等質な全体」なら今でもしばしば街中で見かけるということに気づく。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
さらに或るときは、まったく違ったアルベルチーヌが出現する。ファシズム的な一切の要素から切り離されてさまざまに姿を変える。その都度、生成変化《として》登場する。しかしアルベルチーヌが変化《として》出現するとき、その都度、語り手の側もまた生成変化していることに注意しておきたい。
「そうしたさまざまのアルベルチーヌは、投光機(プロジェクター)から出てくるライトの無数に変わるたわむれのままに、その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがっていた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.434」ちくま文庫)
「そのときの私次第で、私のまえにけっして同一の姿をあらわさなかったそのアルベルチーヌの一人一人を、ちがったふうにとりあげなくてはならなかっただろう、そんなさまざまのアルベルチーヌは、あの多様な海ーーー便宜上私は単数で海と呼んでいるのだが、じつはつぎつぎに変わってゆくあの多様な海ーーーに似ていたのであって、そんな多様な海のまえに、ほかでもないニンフのアルベルチーヌが、浮きだしているのであった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.435」ちくま文庫)
「私の唇をアルベルチーヌの頬に向けるその短い行程において私が目に見たのは、十人のアルベルチーヌなのだ、そしてこのたった一人の少女がいくつもの顔をもった女神のようになって、私が近づこうと試みると、このまえバルベックで最後に私が見た顔は、またべつの一つの顔にとってかわるのであった」(プルースト「失われた時を求めて5・P.98」ちくま文庫)
このような現象に特異な点は何らない。思考はショックを受けないかぎり思考しないという人間の怠惰ぶりの証拠だからだ。ところがいったん決定的なショックを受けるとこんどは思考することから逃れられなくなるという模範例のような小説ではある。そして特異な点ではない点として身近な人物の死についての記述に言及しておくことは無駄ではないだろう。どのような身近さかは別として、一般に身近な人物の死について、その死が、思っていたほどに身近には感じられないということはしばしば経験することでもある。プルーストは次のように描いている。
「酸素の音はすでにやんでいて、医師がベッドから離れた。祖母は死んでいた」(プルースト「失われた時を求めて5・P.62」ちくま文庫)
「私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんーーー。私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった、彼女が病気の発作を起こしたあのシャン=ゼリゼ以来はじめて、無意志的で完全な回想のなかに、祖母の生きた実在を見出した」(プルースト「失われた時を求めて6・P.267」ちくま文庫)
「祖母の生きた実在を見出し」て始めて、語り手は、語り手自身の「苦しみ」を引き受け尊重していこうと決める。
「単に苦しむことをねがっただけではなく、私が受けた苦しみの独特さ(オリジナリティ)を、私がふいに、無意志で、それを受けた状態のままで、尊敬してゆこうとしたからだ」(プルースト「失われた時を求めて6・P.272」ちくま文庫)
実際の「祖母の死」から語り手による苦痛によってしか思い出すことができない「語り手に固有の祖母の死」に到達するまで、文庫本にして約七〇〇頁の開きがある。そのあいだは全然別の話がつづいている。そういうことはしばしばある。そしてどのような思考であるにせよ、それぞれに固有の時間をもつ、あるいは別の時間軸の導入がある、という認識を忘れるべきではないだろう。
さて、ジュネ。
「泥棒日記」の冒頭はこうだ。
「徒刑囚の服は薔薇色(ばらいろ)と白の縞(しま)になっている。もし、この、わたしが居心地よく思う世界を、自分の心の命ずるままに選びとったのだとすれば、わたしには少なくともそこに自分の欲するさまざまな意味を見いだす自由はあるだろう、ーーー《それで、花と徒刑囚の間には緊密な関係がある》。一方の繊弱さ、繊細さと、他方の凶暴な冷酷さとは同じ質のものなのである(わたしの心の感動は、その片方から他方へとゆく振動にほかならない)。わたしは、徒刑囚ーーーか犯罪者ーーーを描くことがあるたびに、その男を数々の花で飾ってやるだろう、そのため彼は花々の下にその姿を消し、そして彼自身一つの巨大な、新しい花となるだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.5」新潮文庫)
ジュネは明らかに生成変化について書いている。「感動は、その片方から他方へとゆく振動にほかならない」。これはニーチェのいう「情動」の動きにほかならない。ドゥルーズとガタリはこう述べている。
「生成変化が情動そのものであり、欲動それ自体であるということ、そしてこれは何の表象〔代理〕でもない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.205」河出文庫)
「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.234」河出文庫)
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)
ステレオタイプからの逃走線という意味では、ジュネがごくふつうに行なっている「一つの世界を表象する義務から自由になった」「あらゆる創造」と高速でなされる「アレンジする行為」はまさにそうだとおもわざるをえない。
その意味で、ジュネによる次の文章を打ち捨てるわけにはいかない。
「うつむけた視線は、ぼんやりした灰色の霧を通して、足もとの岸壁の粘着性ある黒い石を眺めていた。やがて脈略もなく、彼はマリオのさまざまな特色を吟味しはじめた。マリオの手。親指の先から人さし指の先にいたる曲線─彼はこれに長いこと思いを凝らしていた。深い皺。広い肩幅。無関心な態度。ブロンドの髪。青い眼。ノルベールの口髭。てかてかの円い頭。そしてまた、マリオの親指の爪は漆を塗ったような美しい黒、完全な黒だった。黒い花というものは存在しないが、彼のつぶれた親指の先端の、あの黒い爪は、どうしても一つの花を思わせるのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.52~53」河出文庫)
淫売屋の亭主で筋肉隆々なノルベールと同じく筋肉隆々で職業は警察官のマリオ。二つの巨大な筋肉の塊りに追いつめられたクレル。クレルはその危機において、マリオの親指の爪の「漆を塗ったような美しい黒」《と》「黒い花」とを不意に接続させる。瞬時にして、クレルにおいて、マリオの真っ黒い爪はもう一つの真っ黒い花へと生成する。変容する。クレオは瀬戸際であるにもかかわらず、むしろ瀬戸際であるがゆえ、マリオの爪を花へと変えた。マリオの知らないところで、マリオの黒い爪は黒い花に《なる》。マリオはそのことを知らない。
またクレルに関する噂について触れておこう。クレルは周囲からこうおもわれている。
「クレルの仲間たちも、クレルに関して次のように言うことができるだろう。すなわち、《彼はおかしな女衒(ぜげん)である》と。なぜかといえば、クレルはほとんど毎日のように、自分自身の突拍子もない、他人の顰蹙(ひんしゅく)を買うようなイメージを彼らに提供していたからである。彼らのなかにあって、クレルはちょうど一つの事故のように、まぶしい目ざわりな光を放っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.51」河出文庫)
クレルは女衒だが顰蹙を買うような女衒であり一つの事故のようだ、とおもわれている。だからおそらくクレルは女衒仲間のあいだでも異邦人に属している。その意味で顰蹙ではあるが仲間でもある。ところが目ざわりにおもえる光ほどもあるような輝きを秘めている。クレルは女衒で顰蹙で事故でもある。女衒じたいが世間の中では顰蹙である以上、クレルはそのまぶしさにおいて一つの事故として取り扱われるほかない。クレルはどこからどう見ても一つのまぶしい事故にしか見えない。クレルは事故だ。そう読まれるべきだろう。
ところで前回、ジュネ自身によるスパイ行為に触れた。一方、このところマスコミでは、日韓関係の中での軍事情報のやりとりがうるさくて仕方がない。「うるさい」を漢字で書くと「五月蝿い」になる。一九六七~一九六八年にかけて生まれた世代からすれば、まだこのような漢字学習というものが学校に残っていてそれなりに面白かった思い出がある。で、それはそれとして。東西冷戦当時、軍事機密というものは、たとえ同盟国であるにせよ、ないにせよ、密約があるとかないとか、公式に発表される次元のものではまったくなかった。もちろん日韓米軍事同盟はあった。しかしそれは公式に同盟を組んでいるのだという単なる宣言に過ぎない。実際の内情がどうなっているかなど知らされるわけもない。事実上、日本、韓国、アメリカの中には日韓米以外に属する諜報部員は本当にいないのかと問われればそんなことはまったくあるはずもなく、実際のスパイならそれこそ世界中から離合集散していたに違いない。特に米ソには。それを思うと、一般のマスコミを通じて報道される情報というものは一体なんなのだろうかと疑問に思えて仕方ないわけである。軍事機密というものはたとえ知っているとしても誰が誰にどのような仕方で教えたりあるいは嘘を教えたりするのか、ただ単なる習慣として存在しているのであって、間違っても一般のマスコミが何がしかの軍事機密について事実を事実そのまま知っていたりすることはあり得ないとおもうのである。軍事機密あるいは人質問題さらに金銭的取引。それらについてなぜ一般のマスコミやワイドショーまでがあたかも事実を知っているかのように報道できるのか。ごくふつうに考えても、そんなこと誰も表沙汰にしない。またグローバル資本主義の前提として、公式に破棄するとか破棄しないとかいったことに一体どれほどのダメージあるいは深刻な影響があるというのだろうか。そもそも公式と非公式との境界線を抹消してしまうのが資本主義の要請であるというのに。したがって、何がなんだかさっぱりわからないと感じる今日この頃ではある。
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