阿部ブログ

日々思うこと

ウィンゲート空挺団〜ビルマ奪回作戦を読み返す ウィンゲートはイスラエル国防軍の創始者

2019年05月05日 | 雑感

久しぶりに第二次世界大戦がビルマ戦で長距離挺身部隊チンディットを指揮したウィンゲートの本を読み返した。暇なので3月のイスラエル・メディアをチェックしていると、ウィンゲートに関する記事が幾つかあったから〜

  

イスラエルでウィンゲートは、実質的にイスラエル国防軍となる特別夜間行動隊を編成した。この部隊は、選抜されたユダヤ人とイギリス軍兵士からなる混成部隊である。1938年7月、特別夜間行動隊とともにパトロールしていた際に、ウィンゲートは負傷したが、これが認められDistinguished Service Order(DSO)、所謂、殊勲賞を授与された。名誉なことだ。
何故、ウィンゲートはユダヤ人に味方したのか? それは彼の信仰によるものだろう。士官学校時代のエピソードとして教会での礼拝やイギリス国教会の行事参加を拒否する理由として、自分はプリマス・ブラザーであることを主張した。ウィンゲートの両親は、聖書だけを受け入れるプリマス・ブレズレン派の分派であるオープン・ブレズレンの信者で、息子と娘を厳しく宗教的に躾けた。
1936年9月にパレスチナに駐屯したとき、彼は、その篤き信仰心を逞しくしたことだろう。何故なら、プリマス・ブレズレンの教義にはユダヤ人をパレスチナの地に帰還させることが含まれているからだ。彼は、ダビッド・コーヘンに対し「あなた方の戦いに力添えできるのは、喜ばしいことだ。私はこの目的実現のために、私の生涯を捧げたいと思う。人間は、精神的に聖書の教えに基づいた生き方をしてこそ、はじめて存在する意味があるのだ」と述べている。ウィンゲートは、ダヤンなど軍人や、他のユダヤ人からは「The Friend」呼ばれ英雄視されている。ウィンゲートの命日である3月24日には、イスラエルのメディアではイスラエル国防軍の創始者として称える報道がなされている。
アラブ反乱を支援したアラビアのロレンスは、ウィーンゲートの従兄弟。チャーチルが第二次世界大戦で直接指揮した、欺瞞・謀略部隊ロンドン司令部の副司令官サー・ロナルド・エブリン・レスリー・ウィンゲートも従兄弟である。ウィンゲート一族は、どうやら不正規戦が得意らしい。
さて、ユダヤ人の友人であるウィンゲートが日本でも知られているのは、大東亜戦争のビルマ戦(現ミャンマー)で日本軍と対峙した長距離挺身旅団の発案者で指揮官だったからだ。
ウィンゲートは、着任そうそうビルマ西部のアラカン山脈という通行困難な地帯に注目した。このアラカン山脈は、インパール作戦が行われた地で、日本軍3個師団が咆哮した。ウィンゲートが着任して間もなく、日本軍がビルマ全土を占領。イギリス軍はインド・インパール以西に撤退した。ウィンゲートは、薄く広く部隊を展開せざる負えない日本軍の現状を把握して、もし、日本軍の後方に部隊を長距離挺身させ、補給は全て空中から行う事ができれば、日本軍を揺さぶることができると考えた。これが有名なチンディット部隊。そして、第77インド歩兵旅団を基幹とするチンディット部隊の編成に成功した。
1943年の第一次チンディット作戦は、日本軍を大いに驚かせた。何せ、突然3000名規模の英印軍が現れ、後方補給線の破壊活動を始めたからだ。しかし、犠牲が多かった。でもチャーチルはこの作戦に注目した。もしかしてロンドン司令部のロナルド・ウィンゲートが首相に耳打ちしたのかもしれない。
1944年の第二次チンディット作戦は、大規模な挺身作戦となった。投入されたのは、第77インド歩兵旅団、第111旅団、第16旅団の3個旅団、そして予備の第14旅団。C-47輸送機が延べ579機、グライダーは延べ74機投入された。輸送兵員は9052名、輸送物資は2545トンに達した。日本軍には到底真似のできない芸当だ。ウィンゲートの長距離挺身旅団が投入された作戦正面には、日本陸軍ビルマ方面軍の第15軍が展開している。前述したインパール作戦を実施した軍で、指揮官は牟田口中将。牟田口は、盧溝橋事件の当事者となった支那駐屯歩兵第1聯隊の聯隊長である。
1944年3月5日、第二次チンディット作戦は実施された。北ビルマでは、魔の谷・死の森であるフーコン河谷で、連合軍のレド公路を封鎖していた久留米の第18師団を攻撃する、米軍仕様で武装された新編中国国民軍を支援する目的があった。レド公路は、イギリス領インドのアッサム州レドから中国の昆明まで至る輸送道路で、所謂、援蒋ルートである。18師団は、補給困難な状況にもかかわらず、長期持久戦を展開。連合軍としては、レド公路を一刻も早く打通し、中国国民党軍に支援を行い、日本の支那派遣軍の攻勢を阻止する必要があった。
そうこうしているうちに、第15軍の3個師団が、3月8日、インパール作戦を開始した。しかし、第二次チンディット作戦に対応する必要のあるビルマ方面軍は、この15軍から歩兵2個聯隊と砲兵1個大隊、歩兵聯隊本部1個を抽出し、方面軍予備である第24混成旅団をウィンゲートの挺身部隊への対応をさせている。そして、急遽ビルマ南部に展開していた第2師団と第54師団をビルマ北部方面の防衛に向け移動させている。そして、日本軍は、なけなしの全戦闘機30機と全爆撃機40機をチンディット作戦に対応するため投入した。インパール作戦の結果は、ご存知の通り。航空支援もなければ補給もないのでは、最初から勝ち目はない。
ウィンゲートは、3月24日に飛行機事故で死亡した。享年41歳。