オランダ船「デ・リーフデ号」像
東京駅前「丸ビル」左側に設置されている
台座銘板説明文
『Dit beeld van "De Liefde", dat als eerste Nederlandse schip in 1600 in Japan aankwam, werd op 22 April 1980 door de Nederlandse Minister-President, A.A.M. van Agt, tijdens diens bezoek alhier namens de Nederlandse Regering aan de Japanse Regering aangeboden.
本彫刻は昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたものである。
本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着したが、同船の乗組員であったオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に顧問として仕え、わが国ではその名も八重洲として知られ将軍よりこの地域に住居を与えられていた。』
鎖国を国是としていた日本とオランダの交流は、関ヶ原の年1600年4月19日、豊後臼杵湾北岸佐志生(大分県臼杵市)にオランダ船デ・リーフデ号が漂着したことに始まる。ご存じの通りオランダは、長崎の出島で鎖国日本との通商を許可された唯一のヨーロッパの国である。
デ・リーフデ号は、オランダ・ロッテルダムを、豊臣秀吉が死んだ1598年に出航した。船団はデ・リーフデ号を含め5隻。
船団は1599年4月1日、マゼラン海峡に到達。だが、船団の乗組員の多くが寒さと飢えで死んでおり、船団は2隻まで減少。
生き残った2隻の船員達が今後の行き先について会議を行い、何故か日本へ行くことを決定し1599年11月27日、日本に向けて出航。
しかしデ・リーフデ号と僚船2隻は、1600年2月23日に暴風雨にあい、僚船は沈没。
なんとか沈没を免れたデ・リーフデ号は、1600年4月9日、前述の豊後臼杵湾北岸佐志生に漂着した。
最近では臼杵湾の佐志生ではなく、指夫との説があるが、臼杵湾に漂着した事実は変わらない。これはオランダとの縁が生じた瞬間だった。
デ・リーデフ号は出港時の乗員は110名だったが、日本漂着時には24人。自分の足で立って歩けるのは6人だけだったと言う。
デ・リーデフ号漂着の情報は。関ヶ原以後、豊臣家後見として大阪にいた徳川家康にもたらされ、家康は直ちに船員の大阪召致を命ずる。
大阪に赴いたのは、三浦按針ことイギリス人ウィリアム・アダムス(1564-1620)とオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインの2人。
三浦按針は、元々スペインの無敵艦隊と戦った英国海軍のリチャード・ダフィールド号の船長であったが、貨物補給船の役割は無敵艦隊との海戦勝利後はその役割を失い失職。就活中、オランダのロッテルダムからアジアに向かうベテランの航海士を探しているという話しを聞きつけ志願。三浦按針はデ・リーフデ号の航海士として日本に漂着した。
ウィリアム・アダムスは、オランダ人のヤン・ヨーステン(1556-1623)と二人で、大阪で家康と対面。
この面会で、二人とも徳川幕府の貿易顧問となり、前述の通りウィリアム・アダムスは三浦按針に改名。三浦の三浦は、彼の領地である三浦半島に因む。また按針は、当時の水先案内人の意。三浦按針は、家康から江戸日本橋室町に屋敷を得ている。
もう一人のヤン・ヨーステンは、現在の東京駅八重洲口に屋敷を得ている。八重洲の八重洲はヤン・ヨーステンからきている。
八重洲のヤン・ヨーステンは、徳川幕府の幕臣と兼務として、オランダ東インド会社の日本駐在員にもなっている。
オランダ東インド会社の設立は1602年。
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインの祖国、オランダは1609年、当時の北ネーデルランド9州は、スペインに対し反乱を起こし12年間の休戦協定を締結。これによりオランダは国際的な独立を得る事となり、翌年の条約発効する事から、オランダ東インド会社は、アジア地域でのポルトガルの圧倒的な独占的貿易状態とスペインの勢力伸長に楔を加える事により両国の貿易拠点に打撃を与える事を考える。
オランダ東インド会社の思惑は、デ・リーフデ号の奇跡的な日本漂着によりオランダ東インド会社は発足早々、徳川幕府との直接交渉が可能となり、中国以外では、唯一ヨーロッパの国として鎖国日本との交易を認められる事となったのは、運命的なものを感ずる。
デ・リーフデ号は、それまでのポルトガルによる日本貿易独占を阻止し、崩した。偶然とは言えその功績は大きい。
丸の内にデ・リーフデ号の像があるのもうなずける。
因みに「日蘭協会」の分科会の一つとして「デリーデフ会」があり、活動している。
東京駅前「丸ビル」左側に設置されている
台座銘板説明文
『Dit beeld van "De Liefde", dat als eerste Nederlandse schip in 1600 in Japan aankwam, werd op 22 April 1980 door de Nederlandse Minister-President, A.A.M. van Agt, tijdens diens bezoek alhier namens de Nederlandse Regering aan de Japanse Regering aangeboden.
本彫刻は昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたものである。
本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着したが、同船の乗組員であったオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に顧問として仕え、わが国ではその名も八重洲として知られ将軍よりこの地域に住居を与えられていた。』
鎖国を国是としていた日本とオランダの交流は、関ヶ原の年1600年4月19日、豊後臼杵湾北岸佐志生(大分県臼杵市)にオランダ船デ・リーフデ号が漂着したことに始まる。ご存じの通りオランダは、長崎の出島で鎖国日本との通商を許可された唯一のヨーロッパの国である。
デ・リーフデ号は、オランダ・ロッテルダムを、豊臣秀吉が死んだ1598年に出航した。船団はデ・リーフデ号を含め5隻。
船団は1599年4月1日、マゼラン海峡に到達。だが、船団の乗組員の多くが寒さと飢えで死んでおり、船団は2隻まで減少。
生き残った2隻の船員達が今後の行き先について会議を行い、何故か日本へ行くことを決定し1599年11月27日、日本に向けて出航。
しかしデ・リーフデ号と僚船2隻は、1600年2月23日に暴風雨にあい、僚船は沈没。
なんとか沈没を免れたデ・リーフデ号は、1600年4月9日、前述の豊後臼杵湾北岸佐志生に漂着した。
最近では臼杵湾の佐志生ではなく、指夫との説があるが、臼杵湾に漂着した事実は変わらない。これはオランダとの縁が生じた瞬間だった。
デ・リーデフ号は出港時の乗員は110名だったが、日本漂着時には24人。自分の足で立って歩けるのは6人だけだったと言う。
デ・リーデフ号漂着の情報は。関ヶ原以後、豊臣家後見として大阪にいた徳川家康にもたらされ、家康は直ちに船員の大阪召致を命ずる。
大阪に赴いたのは、三浦按針ことイギリス人ウィリアム・アダムス(1564-1620)とオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインの2人。
三浦按針は、元々スペインの無敵艦隊と戦った英国海軍のリチャード・ダフィールド号の船長であったが、貨物補給船の役割は無敵艦隊との海戦勝利後はその役割を失い失職。就活中、オランダのロッテルダムからアジアに向かうベテランの航海士を探しているという話しを聞きつけ志願。三浦按針はデ・リーフデ号の航海士として日本に漂着した。
ウィリアム・アダムスは、オランダ人のヤン・ヨーステン(1556-1623)と二人で、大阪で家康と対面。
この面会で、二人とも徳川幕府の貿易顧問となり、前述の通りウィリアム・アダムスは三浦按針に改名。三浦の三浦は、彼の領地である三浦半島に因む。また按針は、当時の水先案内人の意。三浦按針は、家康から江戸日本橋室町に屋敷を得ている。
もう一人のヤン・ヨーステンは、現在の東京駅八重洲口に屋敷を得ている。八重洲の八重洲はヤン・ヨーステンからきている。
八重洲のヤン・ヨーステンは、徳川幕府の幕臣と兼務として、オランダ東インド会社の日本駐在員にもなっている。
オランダ東インド会社の設立は1602年。
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインの祖国、オランダは1609年、当時の北ネーデルランド9州は、スペインに対し反乱を起こし12年間の休戦協定を締結。これによりオランダは国際的な独立を得る事となり、翌年の条約発効する事から、オランダ東インド会社は、アジア地域でのポルトガルの圧倒的な独占的貿易状態とスペインの勢力伸長に楔を加える事により両国の貿易拠点に打撃を与える事を考える。
オランダ東インド会社の思惑は、デ・リーフデ号の奇跡的な日本漂着によりオランダ東インド会社は発足早々、徳川幕府との直接交渉が可能となり、中国以外では、唯一ヨーロッパの国として鎖国日本との交易を認められる事となったのは、運命的なものを感ずる。
デ・リーフデ号は、それまでのポルトガルによる日本貿易独占を阻止し、崩した。偶然とは言えその功績は大きい。
丸の内にデ・リーフデ号の像があるのもうなずける。
因みに「日蘭協会」の分科会の一つとして「デリーデフ会」があり、活動している。