昨晩、久し振りに近所のTUTAYAに行き、フィリップ・シュテルツェル監督の「アイガー北壁」とブラッド・ビッド主演の「セブン・イヤー・チベット」を借りてきて観た。通常のゴールデンウィークなら上高地経由、枯沢でビールをノンビリと飲んでいる筈だが、今年は腰痛の為、登山を断念し、自宅に居る羽目になっている。雨も降っているし、DVDでも観るか~となった次第。
「アイガー北壁」はグランドジョラス北壁、マッターホルン北壁とともに、三大北壁の一つで、北壁から登頂を目指す幾多の登山家の命を奪ってきた最難関の北壁。このアイガー北壁も1938年7月24日、ドイツ隊のアンデレル・ヘックマイヤー、ルートヴィヒ・フェルクと、オーストリア隊のハインリッヒ・ハラー 、フリッツ・カスパレクの4人の想像を絶する様々な困難を克服してついに北壁は彼ら4人の前に陥落した。
「セブン・イヤー・チベット」は、アイガー北壁の初登頂者の一人であるハインリッヒ・ハラーの同名書籍を映画化したものだが、冒頭は8000メートル峰14座の一つナンガパルバッド(8126メートル)の登攀から始まる。
ナンガパルバッドは、ドイツ=オーストリアにとっては将に「運命の山」。ドイツはヒマラヤ8000メートル峰の登頂競争で、ナンガバルバット初登頂を国威を掛けて3度の遠征を行い挑戦したが、悉く失敗。1939年のハラー達の遠征も失敗に終わった。
ナンガパルバッド初登頂は、戦後の1953年にオーストリア人ヘルマン・ブールの超人的な突進により征服された。何故「超人的」という形容がつくかと言えば、8126メートルのナンガパルバッド登頂はなんと「無酸素」だった事による。
実は同じ年にエベレストもイギリス隊により、エドモンド・ヒラリー卿とテンジン・ノルゲイによって登頂されているが、彼らは酸素ボンベを背負っての登頂だ。1970年、日本人として最初の登頂となる松浦輝夫と植村直己の二人も背中には酸素ボンベを背負っての登頂。
因みに今のエベレストは、彼ら登山「屋」が捨てた酸素ボンベで、サウスコルなどは雪でよく見えないが文字通り埋め尽くされているような状況だ。ヘルマン・ブールはそれを無酸素でやってのけたのだ!凄い~
それとナンガパルバッドと言えばラインホルト・メスナーだ。
ブールと同じく無酸素で登頂している。しかもアルパインスタイルでだ。
彼は1970年に弟のギュンターと共にナンガパルバッドに登頂しているが、その後ギュンターは雪崩に巻き込まれたか、原因は不明なるも死亡。遭難した弟を捜してメスナーもナンガパルバッド山域を彷徨した。そのギュンターの遺体は2005年に発見されて故国で埋葬された。
さて、ハラーは、カラチでイギリス軍に拘束されるが、脱走を繰り返し、ついに脱走にアウフシュタイナーと共に成功する。目的地は、ヒマラヤの向こうにある中国。日本軍が支配する地域まで移動すると言う。当時は援蒋ルートがあり、ビルマから中国国内への輸送ルートがあったが、陸上移動はもとより、ハンプ超えと言われる輸送機や爆撃機でのヒマラヤ超えは、当時では非常な危険を伴うものだった。
3.10の東京大空襲をやった虐殺者カーチス・ルメイも「命懸け」と回想している。
それを徒歩でヒマラヤを越えて、紆余曲折を経てチベットに行った事は、それを表す言葉もない~文字通り言語を絶する。
ハラーとアウフシュタイナーの二人は、何とかラサに侵入し、居着く事ができた。ハラーは今のダライラマ14世の母親に呼ばれ、ダライラマのお近づきを得る事ができた。これもひとえにダライラマの旺盛な好奇心のなせる技。そうこうしている内に連合軍のノルマンディー上陸があり、ついに1945年5月にはドイツが降伏し、断固ハラーは帰国を決意する。
しかし、その当時からチベットへの中国人民解放軍によるチベット侵略が始まっており、「セブン・イヤー・チベット」でもその辺りが描かれている。勿論、中国共産党は国内での放映を禁止する。
このハラー以外でも中国のチベット侵略を書いた本は、多いだろうが自分が感銘を受けたのは中沢新一氏の師匠であるラマ・ケツン・サンポ氏の自叙伝「知恵の遙かな頂」である。ハラー達とは違い、逆にチベットからインドへの逃避行が書かれている。当時の緊迫した状況が窺える貴重な記述だと想う。
しかしながら、ついに1959年、ダライラマ14世がチベットを脱出しインドに至る事となった。この事は、既に予言されていた事で、まあ、チベットの偉いお坊さん達には「来るべきものが来たな」という諦観だったろう。
しかし、この逆の予言もある。中国のチベット支配は永遠では無い。
中国共産党は、ダライラマ離脱後、チベットの貴重な文化財や書籍・仏像・絵画などを破壊し、チベット人そのものを漢人との混血で汚そうとしており、この暴虐は、絶対に赦せない。
しかも1988年12月にチベット自治区の書記に就任した胡錦濤は、中華人民共和国建国後、初めての戒厳令を施行し、チベット人の当然の権利である自治を認めず、人民解放軍に命じてデモ参加者、及び関係の無い一般のチベット人を大量虐殺した張本人だ。
中国は青蔵鉄道を建設するなどチベット併合を着実に進めているように見えるが、共産党の目論見通りには行かない。
ダライ・ラマはインドからチベット・ラサに帰還するし、パンチェンラマの問題も解決する。
これは人知を超えている。予言は成就される為に成される。
チベットはチベットであり、断じて中国ではない。
「アイガー北壁」はグランドジョラス北壁、マッターホルン北壁とともに、三大北壁の一つで、北壁から登頂を目指す幾多の登山家の命を奪ってきた最難関の北壁。このアイガー北壁も1938年7月24日、ドイツ隊のアンデレル・ヘックマイヤー、ルートヴィヒ・フェルクと、オーストリア隊のハインリッヒ・ハラー 、フリッツ・カスパレクの4人の想像を絶する様々な困難を克服してついに北壁は彼ら4人の前に陥落した。
「セブン・イヤー・チベット」は、アイガー北壁の初登頂者の一人であるハインリッヒ・ハラーの同名書籍を映画化したものだが、冒頭は8000メートル峰14座の一つナンガパルバッド(8126メートル)の登攀から始まる。
ナンガパルバッドは、ドイツ=オーストリアにとっては将に「運命の山」。ドイツはヒマラヤ8000メートル峰の登頂競争で、ナンガバルバット初登頂を国威を掛けて3度の遠征を行い挑戦したが、悉く失敗。1939年のハラー達の遠征も失敗に終わった。
ナンガパルバッド初登頂は、戦後の1953年にオーストリア人ヘルマン・ブールの超人的な突進により征服された。何故「超人的」という形容がつくかと言えば、8126メートルのナンガパルバッド登頂はなんと「無酸素」だった事による。
実は同じ年にエベレストもイギリス隊により、エドモンド・ヒラリー卿とテンジン・ノルゲイによって登頂されているが、彼らは酸素ボンベを背負っての登頂だ。1970年、日本人として最初の登頂となる松浦輝夫と植村直己の二人も背中には酸素ボンベを背負っての登頂。
因みに今のエベレストは、彼ら登山「屋」が捨てた酸素ボンベで、サウスコルなどは雪でよく見えないが文字通り埋め尽くされているような状況だ。ヘルマン・ブールはそれを無酸素でやってのけたのだ!凄い~
それとナンガパルバッドと言えばラインホルト・メスナーだ。
ブールと同じく無酸素で登頂している。しかもアルパインスタイルでだ。
彼は1970年に弟のギュンターと共にナンガパルバッドに登頂しているが、その後ギュンターは雪崩に巻き込まれたか、原因は不明なるも死亡。遭難した弟を捜してメスナーもナンガパルバッド山域を彷徨した。そのギュンターの遺体は2005年に発見されて故国で埋葬された。
さて、ハラーは、カラチでイギリス軍に拘束されるが、脱走を繰り返し、ついに脱走にアウフシュタイナーと共に成功する。目的地は、ヒマラヤの向こうにある中国。日本軍が支配する地域まで移動すると言う。当時は援蒋ルートがあり、ビルマから中国国内への輸送ルートがあったが、陸上移動はもとより、ハンプ超えと言われる輸送機や爆撃機でのヒマラヤ超えは、当時では非常な危険を伴うものだった。
3.10の東京大空襲をやった虐殺者カーチス・ルメイも「命懸け」と回想している。
それを徒歩でヒマラヤを越えて、紆余曲折を経てチベットに行った事は、それを表す言葉もない~文字通り言語を絶する。
ハラーとアウフシュタイナーの二人は、何とかラサに侵入し、居着く事ができた。ハラーは今のダライラマ14世の母親に呼ばれ、ダライラマのお近づきを得る事ができた。これもひとえにダライラマの旺盛な好奇心のなせる技。そうこうしている内に連合軍のノルマンディー上陸があり、ついに1945年5月にはドイツが降伏し、断固ハラーは帰国を決意する。
しかし、その当時からチベットへの中国人民解放軍によるチベット侵略が始まっており、「セブン・イヤー・チベット」でもその辺りが描かれている。勿論、中国共産党は国内での放映を禁止する。
このハラー以外でも中国のチベット侵略を書いた本は、多いだろうが自分が感銘を受けたのは中沢新一氏の師匠であるラマ・ケツン・サンポ氏の自叙伝「知恵の遙かな頂」である。ハラー達とは違い、逆にチベットからインドへの逃避行が書かれている。当時の緊迫した状況が窺える貴重な記述だと想う。
しかしながら、ついに1959年、ダライラマ14世がチベットを脱出しインドに至る事となった。この事は、既に予言されていた事で、まあ、チベットの偉いお坊さん達には「来るべきものが来たな」という諦観だったろう。
しかし、この逆の予言もある。中国のチベット支配は永遠では無い。
中国共産党は、ダライラマ離脱後、チベットの貴重な文化財や書籍・仏像・絵画などを破壊し、チベット人そのものを漢人との混血で汚そうとしており、この暴虐は、絶対に赦せない。
しかも1988年12月にチベット自治区の書記に就任した胡錦濤は、中華人民共和国建国後、初めての戒厳令を施行し、チベット人の当然の権利である自治を認めず、人民解放軍に命じてデモ参加者、及び関係の無い一般のチベット人を大量虐殺した張本人だ。
中国は青蔵鉄道を建設するなどチベット併合を着実に進めているように見えるが、共産党の目論見通りには行かない。
ダライ・ラマはインドからチベット・ラサに帰還するし、パンチェンラマの問題も解決する。
これは人知を超えている。予言は成就される為に成される。
チベットはチベットであり、断じて中国ではない。