ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

20 神はモーセに厳し過ぎる?

2021-06-30 | 民数記

若い姉妹が、1ー2カ月前に、こう言った。

岩に向かって命じるだけで良いのに、二回叩いたからと、カナんの地に入れずに死ぬようになさった神は厳し過ぎて、理解できない。やっぱり裁く神様は怖いお方だと言われたことが、気になっていた。

「祈り願っても思い通りに物事が進まない、神様は祈りを聞いてくれていない」というつぶやきの多い姉妹です。

彼女に、神様が、恵み豊かな方であることを深く知る体験を積み重ねて、日々喜び感謝する信仰生活を送ってもらいたいと願います。

 

モーセはすばらしく大きな働きをした人だった。その分、責任も大きかったと言える。多く与えられた者であり、多く任された者だったと言えます。

ルカ 12:48 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます

★これまで戦う経験をしたことのなかった二世の若い人たちが、神の力強い御手によって、ヘシュボンの王シホンとパシャの王オグに対して勝利する戦いを一緒に見ることができた。

★自分は約束の地に入れないが、ヨルダン川の西側での勝利を見たことで、これからのイスラエルの民が、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入って戦い勝利していくこができると確信が与えられた。

★リーダーをヨシュアに移すことで、若いリーダーシップと新しい組織力が形成されていくことになった。

★しかし、やっぱりモーセはそれまでの人生を振り返ると、寂しい部分もあっただろう。もはや若い頃からのモーセを知る人はすでに絶えている。体力も気力も残っていたとはいえ120歳。最前線のリーダーをとりなして祈る信仰の友もいない。

◎私の教会の牧師も、教会を何十年もリードして、信徒教育、弟子訓練を積み重ね、副牧師を生み出し、牧師訓練をしつつ、権限を委譲して行っている。
牧会の最前線に立ちつつ、これからの教会の成長を祈り続けておられる牧師のために、とりなしの祈りをすることを忘れてはならない。

コメント

20 岩は水を出す

2021-06-29 | 民数記

民数記20章での主の命令は、
杖を取れ。会衆の目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。

モーセは岩を二度たたく必要はなかったのに、腹立たしい思いで打ったのだろうか。
目の前で岩に命じれば良かったのに、聞けと、まるで自分達の力で水を出すかのように言った。

それに対して、【主】は言われた。
あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。
モーセとアロンが主のことばをそのまま信じたら、民が荒野で40年、水のことでつぶやいているのを主が忍耐して助けてくださっていたことに、きっと感謝したことでしょう。主は聖なるお方であると、民とともに主を讃美して水を飲んだことでしょう。

このことが起こったのはカデシュ。当時、ヨシュアとカレブ以外の人はみな主に従って前進することを拒んだ。当時の人々は滅んで、ここに生きている会衆とはその人たちの二世。子供達です。

彼らが、これからカナンに向かって進んで行くためには、「神は聖なる方である」という絶対的な信頼・確信が必要だったことだろう。

 


ところが、モーセとアロンは、ここまで来て、もう一歩の信頼と忍耐が不足していた。

出エジプト記には、主の命令によって岩を打って水が出たことがあった。だから、モーセは、重ねて打つ必要はなくて、ただ信仰の杖をあげることで水が出るのに、それを信頼しなかったと言える


 17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

 

新約聖書コリント人への手紙第一10章では、

10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

とパウロが説明してくれています。

一度、聖霊を受け入れると、聖霊は内在していつもともにいて、求める時にはみこころを示して、一番必要なもの・聖霊を与え満たし続けてくださいます。主に感謝します。

 

♪♪救い主イエスとともに行く身は♪♪

道に強き 御手を差し伸べ 試みの時は 恵みをたもう

弱き我が魂の 渇く折しも 目の前の岩は裂けて水沸く  目の前の岩は裂けて水沸く

 

私達は讃美しながら、主が与えた地、御国に導き入れられます。ハレルヤ。

 

コメント

19 キリストの血潮によりきよめられて

2021-06-24 | 民数記

民数記19章2節から学んだことのメモ

傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ

傷のなくーーーーー罪がない

くびきの置かれたことのないーーー罪の奴隷になっていない

完全なーーー

赤いーーー血といのち

雌牛ーーー新しい命を生み出す

新約聖書においてイエス・キリストによって成就された 

 


ヘブル人への手紙
 9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

良心をきよめるーーーーー罪が赦される、良心の呵責から解放される

死んだ行いから離れさせーーー新生と聖霊の満たしによって、生活が変わる

生ける神に仕える者とするーーー生ける神の前に立って、日々仕える者となる

 

 

私自身、イエス・キリストを知る前とは全く違う生き方に変っています。
それはイエス・キリストの血潮によると言えます

 

♪・・♪・・♪・・♪・・♪・・♪・・♪・・♪・・

 

来たれ なれをきよむけば」とのたもう御声に聞き従わん 
                                              主よわれは今ぞ行く 十字架の血にてきよめたまえ

行く わが身の汚れと罪 少しも残さず洗いたまえ
                                              主よわれは今ぞ行く 十字架の血にてきよめたまえ

招くイエスは 信仰と愛と望みと平和を与えたまわん
                                              主よわれは今ぞ行く 十字架の血にてきよめたまえ

救い主は御恵みもて 寄せ来たる罪に勝たせたまわん
                                              主よわれは今ぞ行く 十字架の血にてきよめたまえ

「救われしは まことなり」と 心にあかしを与えたまえ
                                              主よわれは今ぞ行く 十字架の血にてきよめたまえ

讃美せよ 主の血と恵みを 讃美せよ 力と義にます主を
                                                 主よわれは今ぞ行く 十字架の血にてきよめたまえ

コメント

18 十分の一献金

2021-06-14 | 民数記

私の生活の全ては神からの賜物であり神によって支えられている。自分のいのちを捨てて、復活の力で主に従う姿勢で生活する者は、本来すべてをささげなくてはならない。
それで、いったんすべてをささげて、その後、改めて預からせていただいている。

 

夫は召される前に税理士に頼んで、すべてを私に譲る遺言状を準備してくれた。
内容は現金以外のものもあったが、とりあえず総額の十分の一以上を献金した。
当り前なのですが、ケチることなく、すぐに、大胆にささげられたことは祝福でした。

 

なぜなら、その後も、さらに多くをささげようという気持ちになり、さらに祝福されたから。
日常は年金生活ですが、大胆に献金をしている。貯金通帳の金額は減ったが、全く心配はしていない。神様がちゃんと、心配しなくても良いように、取り計らってくださるはずですから。

 

教会の会計係りの兄姉は、誰がいくらの献金をしたのかを、牧師にはもちろん、いっさい口外しない。私達は、ただ週報で項目と金額の報告と、年度末に総合的な会計報告を聞くだけです。

私がそこにも載せないでと言って大きな献金したものも、どこにも数字は出て来ないが、私は全面的に会計担当者を信頼し、彼らのその信仰を尊敬しています。

 

自分の経済のことを考えるより、教会の会計が満たされるように祈り、どのように献身するか、どの働きに身をささげることができるか、そんなことに祈って気を使って生活できることは、本当に祝福です。

コメント

17アーモンドの実のなった杖

2021-06-13 | 民数記

イスラエル人が、モーセとアロンに向かってつぶやいた時、神ご自身が不平を静めて解決なさった。神が立てたリーダーに民がつぶやいていると、神のご計画が全く進まなくなるから。

 

教会では牧師に対して信徒たちが集団でつぶやくことは、神様に対して不満を持っていることになる。そうなると、自ら進んで神のみわざに用いられようという献身の思いがそがれてしまい、教会は成長は止まり、後退することになる。

一方、リーダーは、アロンの杖のように、芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいたという程の、新鮮さ、勢い、生命力がなくてはならない。

この時、視覚教材のような形で、神様はイスラエル人を納得させたが、これはいつでも誰でも見える場所に保管されたのではなかった。人々の目には隠された。
あかしの天幕の中からアーモンドの実のついた杖を出して来て、皆に見せたが、その後また天幕の中に戻しからです。


だから、人々は、不満をつぶやくことに対して戒められた事実を、覚えていなくてはならなかった。次世代にも伝えて行かなくてはならなかった。

 

私は神様からの戒めやさとしが与えられ時、その時ははっきり意識して悔い改めるのですが、すぐに忘れてしまって同じような過ちを繰り返すことがあります。
それでも、神様は忍耐強く、何度も何度も、導いてくださっています。しかし、それを自分だけ納得して終わらせず、弟子づくりに生かして行かなくてはならない。

コメント