主日礼拝で第一コリント9章19~23節までが語られた。
同じ言葉が繰り返されていて、文章の構成がどうなっているのか混乱した。
獲得するため / 律法 / になる / 弱い / すべて
応答が促されている部分の話が納得できなかったので、原典から調べてみた
■福音の働きによって持つ自分の権利十分に用いない例
自分の存在beingを無視している具体的な例
・19自由であるが、ーーー奴隷となる
・20ユダヤ人ではあるが国際人でもあるが、ーーーユダヤ人のようになる
・20(udder律法)律法の下にはいないが、ーーー律法の下にいる人のようになる
・21神の(not律法) 神の律法の外にある者ではなく、キリストの(in律法)をキリストの律法を守るものですが、ーーー律法を持たない人のようになる
・22神からの力を得ている者ですが、ーーー弱い者のようになる
■本来の自分ではなく、自ら自発的に、自らを奴隷とした目的は
●より多くの人を獲得すため
ユダヤ人を獲得すため
律法の下にいる人を獲得するため
律法を持たない人を獲得するため
弱い者を獲得するため
●何とかして幾人かを救うため
●福音の恵みをともに受ける者となるため 共同参与者になるため
全ての人々のために、すべてのもの(中性)となった(完了形)
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私は、伝道集会で会った人の話を親身になって聴かなくて、相手の方が教会に来る道を閉ざしてしまう結果になったことを悔い改めた。
私はキリストにあって自由です。その自由の用い方を、自分のプライドを満足させることを優先することはしない。
むしろその自由を、失われた魂を見つけ出して救うというキリストの働きに用います。
私は夫を天国に見送って自由な生活をしているがーーーご主人との関係で悩んている人の話を共感して聴くように
私は親戚関係からすでに解放されているが、ーーー家族、親族の中での問題を何とか解決したいと思っている人には、突破口を見つけることができないかと一緒に考える
私は強がらずに私自身の弱さを相手に見せて、話を聞いてもらって、そして、相手の話を聞くようにする
★なかなか救われなくても、それでも、神が働いて、何人かでも救われるのですから、あきらめることなく、宣教の働きに仕え、宣教の働きをしている兄姉に仕えます