ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

ルカ24章13-27節の説教から

2020-02-10 | 礼拝説教
1---学んだこと
ああ、確かに、私は愚かな者。心の鈍い者だ。自己中心なために目がさえぎられている。神様に叱られないようにもっと聖書を読まねばならないと、暗い顔つきになる。そんな必要はない。私は、ここで、イエス様の優しさを、確認しました。

・イエス様は名前もないような小さな弟子に近寄って、寄り添ってくださった。
・結構な時間、混乱している話を聞いてくださった。カウンセラーのように。
・ああと言いながらも、幼い子供に接するように、わかるべきポイントを示してくださった。
・聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを説き明かされた。

2---考えが変えられたこと
私もこのイエス様の説き明かしを聞きたかった。彼らがうらやましいと思いましたが、思い直しました。実は、私達は彼らよりもよっと恵まれたところにいると気づいたからです。

・今や、イエス様は聖霊となって私達の内に住んでいてくださいます。復活のイエス様は消えてしまう方ではありません。
・聖霊は傍らから語りかけて、モーセとすべての預言書を成就されたイエス様のことばを指し示してくださいます。
・教会での毎週の説教の中で、みことばは説き明かされています。デボーションの時にも、一人一人にポイントを教えて、霊的に目が開かれるようにしてくださっています。
・元々罪人であり、愚かで鈍い者であった私達を訓練して、間に合う者へと変え続けてくださっています。

3---まとめ
「見よ」と、偉い弟子達にではなく、名前もないような二人の弟子にイエス様は近づいてくださいました。私達も、二人、三人と集まって、みことばについて論じあったり分かち合って、聖霊の満たしと導きを得ることができるように願います。
時間がかかるかも知れませんが、イエス様は、それぞれの信仰と求めに応じて、私達の霊的な目を、耳を開いてくださることでしょう。分かち合いを大切にして、喜び感謝して、さらに応答を積み重ねていこう。

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神の栄光を現わして生きて、死ぬ

2020-02-06 | 礼拝説教
ヨハネ12章27~32節から説教が語られた。

12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

「またもう一度栄光を現そう」ていう言葉は、説教を聞くまでは、主語は「神が」であり、栄光は神のもので、私は神の栄光を讃美していれば良いと思っていた。
これは神の栄光の片面からしか見ていない、幼い信仰であった。なぜなら、神の栄光を「私達が」現わすのですから。

新約聖書の中で「栄光」という言葉を新改訳3版で検索したところ、138回ヒットした。その中から、私達が神の栄光を現わすことが示されている箇所をピックアップしてみた。
有名な信仰告白に、「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」とあるも教えられたので、みことばから確認をしました。

その結果、神の栄光を現わす生き方とは、キリストとともに死ぬことも覚悟して、キリストに従って犠牲を払って献身して、キリストのみわざに生きることだなのだと思った。

ここまで導かれたキーワードは、示す「セーマイノー」「しるしで知らせる、未来について前兆を与える、予告する」です。牧師が12章33節で、強調して言われた言葉です。


ここまで導かれた経緯は次の5段階を経たものです。

栄光は神が与えるもの。私達は受けるもの。
ヨハネ17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
ローマ8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

栄光を現わすことには、キリストのゆえに、迫害や侮辱を受けることもある
ローマ8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
Ⅰペテロ4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

栄光を現わすことは神が命じておられること
第一コリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
第一コリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。エイス栄光 しなさい命令現在

栄光を現わす生き方に、神が一歩一歩変えていってくださる
第二コリント3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

栄光を現わす生き方とは、どのように死ぬのかを覚悟してイエスに従う生き方である。
ヨハネ12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを「示して」、このことを言われたのである。
ヨハネ21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを「示して」、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」



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死んだら天国 それは簡単すぎる?

2020-01-28 | 礼拝説教
先日、弱い信仰の人に、偶像礼拝の場では、形だけ頭を下げて難を逃れる方法があることを、私自身、教えられたことがあったことを思い出した。

その結果、確かに私は今、仏教やその他の偶像崇拝から離れて、守られてはいる。
しかし、同じことを、今、私は生まれたばかりのクリスチャンに伝えてはいけないと思った。偶像の前で、形だけちょっとだけだから偶像崇拝には当たらないと安易に考え、それを続けるならば、恐ろしい結果につながる。

今日は、弟子訓練の第一回目の日ですが、教える側にいる私自身が、救いを全うすることについて、はっきりと意識しておく必要を覚えた。

「空中再臨」 「携挙」 「患難時代」 「再臨」 「千年王国」 「第一の復活」 「最後の審判」 「第二の死」 「新天新地」

黙示録20章を開いてみた。過去の牧師のメッセージを倍速で聞いた。
聖書が読めるという恵みの中で、信仰をはっきり持って生きていく必要を感じた。
現在の日本は、ローマ時代のような、キリストに従い通すために、激しい迫害、患難をも甘んじて受ける殉教者が多くいたという状況下ではない。

中途半端で、形だけの信仰で、証しをするどころか、他の人に躓きを与えるような信仰者は、どうなのか。恐れをもって、今日なされる学びに臨まなくてはならないことを、主によって示されました。学び会のリーダーは牧師夫人なので、私は控えて主ご自身の導きを祈りつつ、同席します。

今日、一緒に学ぶ彼女の職場は、京都市内のど真ん中で、偶像崇拝に深く関わっている人々や場所で、名前ばかりのキリスト者とも関わって、長年働いておられる方なのです。

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弱い信仰を、つまずかせないで、建て上げる

2020-01-27 | 礼拝説教
以前、妹が通っていた教会の牧師から「あなたの信仰が弱い」と言われて納得が行かなかったことを思い出した。私は受洗したばかりの頃のこと。妹、教会の姿勢がちゃんとしていない!と、高慢にも非難したのでしょう。
神学校の先生でもあるご高齢の先生は、未熟な私と、求道者であった妹の両方がつまづかないようにと、深く配慮をしておっしゃられたのだと20年たってわかって、今になって感謝した。

15年程前、お産の手伝いのために娘の所に滞在して、2カ月間、礼拝や祈祷会に出席させていただいていた教会のご高齢の牧師夫人の言われた言葉も思い出した。
偶像礼拝はいけないと杓子定規に話す私に、ナアマンの話を例に出して、不本意でも形だけ偶像を礼拝することも許されているというような話をされたのだった。

今回、第Ⅱ列王記5章を読んでみた。生まれたばかりの異邦人マアマンの信仰が、偶像礼拝に満ちた自国に帰った後も、何とか信仰が建て上げられていくようにとの願いを込めて、「安心して行きなさい」と祝福して送り出したのだろう。

その後の彼のことは聖書に書かれていないが、神がいつもともにいて、偶像の神殿で身をかがめなくてもよい方向に、時間をかけて守り導いてくださったのではないかと思う。
しかし、ナアマンは、ユダヤ人がしているとおりに、石を用いないで、土で祭壇を造るために、(出エジプト20章24節)二頭の驢馬に土を載せて運んだ帰ったが、祭司もいない異邦人の国で信仰を持ち続けることは困難なことだっただろう。


戦争をくぐってご苦労されながらも、宣教を続けてこられた日本の信仰の先輩たちを尊敬するとともに、この弱かった私をも守り導いてくださった主を、人々にお伝える働きに用いられることを願います。

(第Ⅰコリント8:7-13の主日メッセージへの応答)


20:25 あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。

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一粒の麦として死ぬとは

2020-01-23 | 礼拝説教
仕事でも、勉強でも、人間関係の中に、競走がある。自分は何とかして勝ちたい!
勝負をするなら、1番が良い。目立ちたい。人から良く評価されたい!
自己実現することに価値がある。目標を高く持とう!

こんな生き方は、「豊かな実を結ぶ一粒の麦」とは全然違う。


暗く、冷たい場所にも忍耐してとどまり、時に傷つくことも恐れず、主の痛みと苦しみをともにする思いで、死んだ気になって、主に仕える。

自分自身が、イエスから出た種である自覚を持っている

自分のほしいままに生きる生き方をしない。
自分のほしいままに神が動くように祈り求めて、自分が神になっていないか自らを見張っている。


イエスにお目にかかりたいという人には、直接イエス様の声を聞くことができることを伝え、イエス様の十字架を見上げることができるところにお連れする


誰かが人を回心に導いたら、その新しい種を喜び、育てる弟子づくりにあずかる。

父からの報いがあることを大いに喜んでい



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